色彩の墓守と始まりの種子
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色彩の墓守と始まりの種子

第一章 灰色の街と石の記憶

レンの住む街は、ゆっくりと色を失いつつあった。かつて煉瓦の壁を染めていた夕焼けの茜色は、今では煤けた水彩画のように滲み、石畳を濡らした春の雨の匂いは、遠い記憶の残滓のように希薄になっていた。世界は、歴史という名の色彩で満たされている。人々はその中で呼吸し、生きる。だが、その色彩が日に日に薄れていることに、ほとんどの者は気づかずにいた。

レンはアトリエの窓辺に立ち、指先で小さな石を弄んでいた。それは彼が昨日『石化』させた、幼い日の記憶の欠片。母親が焼いてくれた蜂蜜菓子の、甘く焦げた香りが立ち上る黄昏時の食卓。その瞬間を石に変えた時、世界の色彩がほんのわずかに、しかし確実に薄れたのを彼は肌で感じていた。石の表面を撫でると、温かな光景が脳裏に蘇る。琥珀色の蜂蜜、湯気の立つ紅茶、微笑む母の顔。だがそれは、世界から切り取られた、もはや誰のものでもなくなった歴史の亡霊だった。

この力は、呪いにも似ていた。愛しい過去を永遠に手元に留め置くことができる代わりに、その瞬間を世界の歴史から消し去ってしまう。レンは、誰にも知られず歴史を盗み続ける、孤独な墓守だった。石に閉じ込めた思い出が増えるたび、彼の心は満たされると同時に、空っぽになっていくような奇妙な感覚に襲われるのだった。

外では、灰色の風が乾いた音を立てて建物の間を吹き抜けていく。また一つ、どこかの誰かの小さな歴史が、世界から消え去った音だった。

第二章 色褪せる歴史の唄

「歴史が死にかけているのよ」

カフェのテーブル越しに、エリアと名乗る女性は真剣な眼差しで言った。彼女は歴史学者で、その瞳には失われゆく色彩への焦燥と、知的な探究心が宿っていた。彼女の手元には、古びた羊皮紙の写しが広げられている。

「世界のあらゆる出来事は、固有の色彩と音階を持って大気に溶け込み、歴史の交響曲を奏でている。でも最近、特に高音域……つまり、古い歴史の音が聞こえなくなってきているわ。これは、ただ事じゃない」

レンは黙ってコーヒーカップを傾けた。彼女の話は、彼の罪悪感を的確に抉り出す。彼が石を作るたびに、その交響曲から一つの音符が消えるのだ。

エリアの視線が、レンが首から下げている小さな石のペンダントに注がれた。彼が初めて石化させた、父親に肩車をしてもらった時の空の青さを閉じ込めた石だ。

「その石……とても古い歴史の色をしている。どこで手に入れたの?」

「……ただの土産物だ」

レンは素っ気なく答え、襟元に石を隠した。嘘をつくたびに、胸の奥が冷たく軋む。

その時、カフェの窓がガタガタと激しく震え、外の景色がゼリーのようにぐにゃりと歪んだ。カップの中のコーヒーが不自然に傾ぎ、テーブルの端から滑り落ちる。世界の物理法則が、また一つ悲鳴を上げたのだ。エリアは息を呑み、レンは拳を強く握りしめた。世界の崩壊は、もはや誰の目にも明らかだった。

第三章 最後の色彩

エリアは古代文献を解読し、ついに世界の異変の核心に辿り着いた。

「『原初の歴史』よ。この世界が生まれた最初の瞬間。全ての歴史の源泉であり、世界の物理法則を支える礎。その色彩が、今、急速に失われているの」

彼女は一枚の古地図を広げた。その中心には、『時の揺り籠』と呼ばれる場所が記されている。

「ここへ行けば、何が起きているのか分かるかもしれない。そして、まだ間に合うなら……この手で最後の歴史を記録したい」

エリアの決意は固かった。レンは彼女を止めるべきか迷った。彼の能力が知られれば、世界の崩壊の原因だと糾弾されるかもしれない。だが、歪む空を見上げ、日に日に無味乾燥になっていく風を感じるたび、このまま座して死を待つことへの恐怖が彼を苛んだ。

もし、この力が呪いではなく、何かの使命なのだとしたら。

「……俺も行く」

レンの呟きに、エリアは驚いたように顔を上げた。

「君は、歴史に興味がないと思っていた」

「自分の目で確かめたいだけだ。この世界が、どうやって終わるのかを」

それは、半分は本心で、半分は逃避だった。だが、二人の旅は、こうして始まった。灰色の荒野を越え、時間の概念が曖昧になった森を抜け、彼らは世界の中心を目指した。

第四章 時の揺り籠で

『時の揺り籠』は、巨大な水晶の洞窟だった。その中心に、天を突くほどの巨大な光の柱が立っている。それが『原初の歴史』だった。虹色の光が渦を巻き、世界の始まりを告げる荘厳な音楽を奏でていた。だが、その輝きはあまりにも弱々しく、まるで風前の灯火のように明滅を繰り返していた。

「なんてこと……」

エリアは絶句し、その場に膝から崩れ落ちた。彼女が持ってきた記録装置は、消えゆく光を捉えるにはあまりにも無力だった。光の柱から、時折、硝子の破片のようなものが剥がれ落ち、キラキラと輝きながら霧散していく。歴史が、世界の存在そのものが、端から崩れ落ちていた。

レンはその光景を前にして、凍りついたように立ち尽くしていた。そして、悟ってしまったのだ。

これは、誰のせいでもない。

誰かが意図的に歴史を破壊しているのではない。ただ、世界がその寿命を迎えようとしているだけなのだ。生まれたものがいずれ死ぬように、灯された火がいずれ消えるように、この世界もまた、静かに終わりを迎えようとしている。このままでは、全てが意味を失い、完全な『無』に帰すだろう。

エリアの嗚咽が、静かな洞窟に響いた。歴史を愛し、守ろうとした彼女の努力が、世界の終わりという絶対的な真実の前で、儚く砕け散った瞬間だった。

第五章 決断の石化

絶望が空気を支配する中、レンはゆっくりと一歩を踏み出した。彼の瞳には、悲壮な決意の光が宿っていた。

「俺が、石にする」

「何を……言っているの?」エリアが涙に濡れた顔を上げた。「この『原初の歴史』を石化させるっていうの? そんなことをしたら、歴史が完全に世界から切り離される! 世界は……今度こそ本当に終わってしまうわ!」

「ああ、終わるだろう」レンは静かに頷いた。「このまま消えゆくのを待てば、世界は『無』になる。でも、俺がこの手で終わらせれば……違う未来があるかもしれない」

彼はエリアの肩にそっと手を置いた。

「君が愛した歴史は、もう救えない。でも、その思い出の『欠片』だけでも、次に繋ぐことはできるかもしれないんだ」

レンは『原初の歴史』へと向かう。エリアの制止の声が背後から聞こえたが、もう彼の決意は揺らがなかった。彼は墓守だ。ならば、世界で最後の歴史を、この手で弔ってやらねばならない。

光の柱に手を伸ばす。

指先が触れた瞬間、世界から一切の音が消えた。

レンの全身を凄まじい情報の奔流が貫き、世界の始まりから終わりまでの全ての歴史が、一瞬にして彼の中に流れ込んできた。街が、森が、海が、空が、急速にその色彩を失っていく。人々の顔から表情が消え、建物の輪郭が曖昧に溶けていく。エリアの顔から驚愕の色が抜け落ち、ただ真っ白な人形のように立ち尽くすのが見えた。

世界が、白く染まっていく。

第六章 無色の世界で

気がつくと、レンは真っ白な平原に立っていた。

空も大地も、全てが白と黒の濃淡だけで構成されている。音はなく、匂いもなく、風さえも肌を撫でる感触が希薄だった。すぐそばにエリアがいた。彼女は戸惑ったように周囲を見回している。その瞳には、かつての知的な輝きはなく、生まれたての赤子のような無垢な光だけが宿っていた。彼女は、全てを忘れていた。

レンは自分の手の中を見つめた。

そこには、手のひらほどの大きさの、完全に透明な結晶が握られていた。かつて虹色に輝いていた『原初の歴史』は、全ての色彩を失い、完璧なまでの静謐を宿す『種子』へと姿を変えていた。古い世界の全ての記憶、全ての法則、全ての喜びと悲しみが、この小さな結晶の中に凝縮されている。

世界は無に帰したのではなかった。ただ、過去の全てを捨て去り、生まれ変わったのだ。白紙のキャンバスのように、無限の可能性を秘めた『無色の世界』として。

第七章 始まりの種子を蒔く

レンは静かに膝をつき、その透明な結晶を白い大地にそっと置いた。

すると、結晶から淡い光が放たれ、その光が触れた地面に、ぽつりと、小さな色が生まれた。それは、まだ名前のない、見たこともない柔らかな青色だった。その青はゆっくりと広がり、大地に最初の法則を、最初の物語を刻み始めた。

彼は、古い世界の歴史を未来へ運ぶ『墓守』であり、新しい世界の始まりを告げる『種子を蒔く人』だったのだ。

ふと、隣にいたエリアが、その生まれたばかりの青色に恐る恐る指先で触れた。彼女の唇から、意味を持たない、しかし美しい響きを持った声が漏れた。新しい世界で最初に生まれた、言葉の原型だったのかもしれない。

レンは立ち上がり、果てしなく広がる無色の世界を見渡した。失われたものはあまりにも大きい。かつて愛した人々の顔も、街の温もりも、蜂蜜菓子の味も、もうここにはない。だが、彼の胸には、哀愁と共に、静かな希望が満ちていた。

これから、この世界にどんな色が生まれ、どんな物語が紡がれていくのだろう。

レンは、失われた世界の全ての記憶を背負い、たった一人、この新しい世界の最初の夜明けを見守り続ける。彼の孤独な旅は、今、始まったばかりだった。


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