第一章 陶工と鬼
「違う」
土の塊が、壁に叩きつけられる。
鈍い音が、静寂な工房に響いた。
「これではない……この色ではないんだ」
宗次郎(そうじろう)は、血走った目でろくろの上の粘土を睨みつけた。
幕末、肥前。
有田の山間にあるこの隠れ里では、戦火の足音が日増しに近づいていた。
だが、宗次郎には関係ない。
彼の耳に届くのは、土が回る音と、窯の中で燃え盛る炎の咆哮だけだ。
「宗次郎様、殿がお待ちです。究極の『蒼』はまだなのですか」
戸口で、家老の使いが苛立ちを隠さずに声をかける。
宗次郎は振り返りもしない。
「黙れ。気が散る」
「戦(いくさ)が始まるのですぞ! この皿一枚で、異国の武器がどれほど買えるか……」
「知ったことか」
宗次郎は、手元の水桶に荒々しく手を突っ込んだ。
「俺が焼いているのは、金ではない。魂だ」
使いは舌打ちをして去っていった。
宗次郎は、人嫌いで通っていた。
口を開けば毒を吐き、妥協を許さず、弟子もすべて逃げ出した。
彼にあるのは、神業と恐れられるろくろの技術と、異常なまでの『蒼』への執着だけ。
雨上がりの空のような、あるいは深海の底のような、吸い込まれるような呉須(ごす)の色。
それが出せない。
何度焼いても、濁る。
「なぜだ……」
宗次郎が顔を覆ったとき、工房の隅でガサリと音がした。
「誰だ!」
薪の山の陰から、小さな影が現れる。
泥だらけの少女だった。
着物はボロボロ、足は裸足。
戦災孤児か、流れ者か。
「出て行け。ここは遊び場じゃない」
宗次郎が怒鳴ると、少女は怯えるどころか、大きな瞳でじっと彼を見つめ返した。
「……きれい」
少女の視線は、宗次郎ではなく、床に散らばった失敗作の破片に向けられていた。
「ゴミだ。触るな」
「ううん、きれいよ。お空みたい」
少女は、鋭い破片を大事そうに両手で包み込んだ。
その手から、赤い血が滲む。
「馬鹿か、お前は!」
宗次郎は思わず立ち上がり、少女の手から破片を叩き落とした。
「切れるだろうが!」
「……でも、あったかい」
少女は笑った。
その笑顔が、宗次郎の胸の奥にある、冷たく固まった何かを、ほんの少しだけ揺らした。
第二章 不完全な鳥
それから、少女――ハナは、工房に居着いてしまった。
追い出しても、また戻ってくる。
仕方なく、宗次郎は飯の残りを分けてやるようになった。
「おじちゃん、なに作ってるの?」
「器だ」
「ふうん。ハナも作りたい」
「百年早い」
言いながらも、宗次郎は余った粘土の塊を投げてやった。
ハナは嬉々として、その土をこね始めた。
宗次郎は、ろくろに向かう。
殿の注文である大皿。
その成形は、極限の集中力を要する。
呼吸を止め、指先に全神経を集中させる。
土が生き物のように立ち上がり、薄く、鋭く、優美な曲線を描く。
「できた!」
不意に、ハナが叫んだ。
宗次郎の手元が狂った。
指が深く食い込み、完璧だった大皿の縁が、ぐにゃりと歪む。
「…………」
宗次郎の額に、青筋が浮かぶ。
「見て見て、とりさん!」
ハナが差し出したのは、鳥とも石ころともつかない、いびつな土塊だった。
「……貴様」
宗次郎は震える手で、歪んだ大皿を潰した。
「俺の仕事を……邪魔するなと言ったはずだ!」
怒鳴り声に、ハナがびくりと肩を震わせる。
「出て行け! 二度と俺の前に顔を見せるな!」
ハナは、作ったばかりの土の鳥を胸に抱き、逃げるように走り去った。
工房に、静寂が戻る。
これでいい。
これでやっと、集中できる。
そう思うのに、なぜか胸がざわついた。
床には、ハナの足跡が小さく残っている。
宗次郎は、潰れた大皿の土を見つめた。
完璧な円よりも、歪んだ土の方が、なぜか生々しく見えた。
「……クソッ」
宗次郎は再び土を据えた。
だが、何度引いても、あの少女の言葉が頭から離れない。
『あったかい』
俺の器は、美しいが、冷たい。
だから、『蒼』が乗らないのか。
宗次郎はふと、窓の外を見た。
山の向こうの空が、赤く染まっていた。
夕焼けではない。
戦火だ。
第三章 炎と誓い
三日後。
ついに、究極の染付(そめつけ)が焼き上がる日が来た。
窯の温度は最高潮に達している。
薪をくべる宗次郎の肌は、熱気で赤く焼けただれていた。
「逃げろ! 官軍が来るぞ!」
村人が叫びながら走り抜けていく。
「宗次郎! 何をしている、早く逃げるんだ!」
顔見知りの男が工房に飛び込んできたが、宗次郎は動かない。
「今、窯を開けるわけにはいかん」
「命より大事な皿があるか!」
「ある」
宗次郎の目は狂気じみていた。
男は諦めて逃げ出した。
遠くで、大砲の音が響く。
地面が揺れ、棚の上の素焼きが落ちて砕ける。
宗次郎は、窯の覗き穴から中の様子を窺った。
見える。
炎の中で、器が透き通り、あの『蒼』が生まれているのが。
「これだ……この色だ」
生涯で一度、出せるかどうかの色。
その時、工房の入り口で、小さな悲鳴が聞こえた。
「おじちゃん!」
ハナだった。
戻ってきたのだ。
「馬鹿野郎! なぜ逃げない!」
「おじちゃんがいないから!」
ハナが駆け寄ろうとした瞬間、着弾の衝撃で天井の梁が崩れ落ちた。
「危ない!」
宗次郎は咄嗟に飛び出した。
ドスッ、と重い音がして、宗次郎の背中に激痛が走る。
崩れた木材が、彼を押し潰すように直撃していた。
「おじちゃん!」
「来るな……!」
宗次郎は這いずり、ハナを瓦礫の下から守るように抱き寄せた。
工房に火が回る。
熱い。
窯の熱気とは違う、すべてを奪う破壊の熱だ。
目の前には、窯がある。
あと少し。
あと少しで、歴史に残る名品が完成する。
だが、火の勢いは早い。
このままでは、二人とも焼け死ぬ。
今すぐ逃げれば、ハナだけは助けられるかもしれない。
だが、そうすれば、窯の火は管理を失い、中の作品はすべて灰になるだろう。
「……くっ」
宗次郎は、ハナの顔を見た。
煤だらけの顔で、涙を流している。
その手には、まだあの「いびつな鳥」が握られていた。
焼かれてもいない、ただの乾いた泥の塊を、宝物のように。
宗次郎の中で、何かが音を立てて砕けた。
彼は、叫んだ。
「ハナ、走れ!」
第四章 欠けた月
宗次郎は、燃え盛る木材を背中で受け止めながら、ハナを外へと押し出した。
「行け! 振り返るな!」
「おじちゃんも!」
「俺は……これを持っていく!」
宗次郎は嘘をついた。
背中の梁が重すぎて、もう動けないことは分かっていた。
「約束だ。その鳥を、大事にしろ。それが、お前の最高傑作だ」
「いやだ! いやだ!」
「行けぇぇッ!」
鬼のような形相で怒鳴ると、ハナは泣きながら走り出した。
ハナの小さな背中が、煙の向こうに消える。
それを見届けると、宗次郎は力が抜けたように崩れ落ちた。
視線の先には、窯がある。
「……ざまあみろ」
宗次郎は、血の泡を吹きながら笑った。
「殿様になんぞ、くれてやるものか」
天井が完全に崩落する。
炎が、宗次郎と窯を飲み込んでいく。
最期の瞬間、宗次郎の目に映ったのは、燃え盛る炎の色ではなかった。
ハナが最後に流した涙。
その一粒に映り込んだ、夜明け前の空の色。
「……ああ」
宗次郎は、満足げに目を細めた。
「……いい、蒼だ」
第五章 永遠の破片
時は流れ、明治。
新しい時代の博物館に、一つの奇妙な展示物があった。
それは、完全な形の壺や皿ではない。
高熱で溶け、ひしゃげ、何かの塊と融合してしまった、青い磁器の塊だ。
説明書きにはこうある。
『戦火の焼成(しょうせい)』
ある高名な陶芸家が、この展示の前で足を止めた。
「先生、これは失敗作ではありませんか? なぜこのようなものが国宝級の扱いに?」
弟子が尋ねると、老陶芸家は首を振った。
「よく見てごらん。この溶けた磁器が、何を包み込んでいるかを」
弟子は目を凝らした。
美しい、吸い込まれるような『蒼』の釉薬(ゆうやく)に覆われたその中心に、別の土の塊が融合していた。
それは、稚拙な手つきで作られた、小さな土の鳥だった。
最高級の磁土で作られた器が、高熱で溶け落ち、その下の粗末な泥の鳥を抱きかかえるようにして冷え固まっているのだ。
まるで、命を賭して何かを守ろうとしたかのように。
「この『蒼』は、技術だけで出せる色ではない」
老陶芸家――かつてハナと呼ばれた女性は、しわがれた手でガラスケースに触れた。
「これは、愛の色だよ」
彼女の目には、遠い日の炎と、不器用な職人の背中が映っていた。
その塊は、完全なる美しさを持った完成品よりも、遥かに強く、見る者の胸を打ち続けている。
割れることのない、永遠の蒼として。