宵闇に咲く、幻の蒼

宵闇に咲く、幻の蒼

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第一章 禁じられた火薬

鼻孔を突くのは、腐ったような硫黄の臭い。

それこそが、源次郎にとっての「生きる」臭いだった。

「親方、いい加減にしてくださいよ。お上に見つかりゃ、首が飛びますぜ」

弟子の佐吉が、怯えた声で雨戸の隙間から外を覗いている。

江戸の町は、死んだように静かだった。

天保の改革。

奢侈禁止令(しゃしきんしれい)の名のもとに、派手な着物も、寄席も、そして夜空を彩る花火も禁じられた。

だが、源次郎の手は止まらない。

薄暗い土間で、薬研(やげん)を挽く。

ゴリ、ゴリ、という鈍い音だけが、息の詰まるような静寂に響く。

「佐吉。お前は帰れ」

「へ?」

「俺が作るのは、ただの花火じゃねぇ。罪人が上げる、冥土の灯りだ。巻き込まれるこたぁねぇ」

源次郎の指先は、硝石と木炭で黒く染まり、爪の間には洗っても落ちない朱色がこびりついている。

「でも、親方……お鈴ちゃんの目が、もう」

その名の響きに、薬研を挽く手がピタリと止まった。

奥の万年床。

煎餅布団に身を沈める娘、鈴(すず)。

まだ十二だというのに、その瞳からは光が失われつつあった。

流行り病の高熱が、網膜を焼いたのだ。

医者は言った。

『次の新月まで保てば良い方でしょう』

あと三日。

三日で、鈴の世界は永遠の闇に閉ざされる。

「……青だ」

源次郎は呻くように呟いた。

「え?」

「和火(わび)の赤や橙じゃねぇ。もっと冷たくて、深い……海のような蒼(あお)だ。鈴が見たがっていた、あの海の」

江戸時代の花火に、鮮やかな青色は存在しない。

硝石と硫黄、木炭の配合では、どうしても暗い橙色にしかならない。

青を出すには、異国から入る猛毒の『巴里緑(パリ・グリーン)』がいる。

それは、幕府が厳しく管理する禁制品だった。

「親方、まさか抜荷(ぬけに)に手を……?」

「帰れと言ったはずだ!」

源次郎が怒鳴ると同時に、雷鳴が轟いた。

夏の夕立。

雨音に紛れ、源次郎は懐から一包みの油紙を取り出した。

中には、妖しく光る緑色の粉末。

全財産どころか、己の命と引き換えに手に入れた、悪魔の粉だ。

「……父ちゃん?」

奥から、細い声がした。

鈴が、虚空を手で探りながら起き上がろうとしている。

源次郎は駆け寄り、その痩せこけた肩を抱いた。

「ここにいる。父ちゃんはここにいるぞ」

「……雨、だね」

「ああ」

「海……行きたかったな」

鈴の瞳は、白く濁り始めていた。

焦点が合わないまま、源次郎の顔のあたりを見つめている。

「見せてやるさ」

源次郎は喉の奥で嗚咽を殺し、強く言い聞かせた。

「父ちゃんが、江戸の夜空に海を作ってやる。だから、それまで目ぇ閉じるなよ」

第二章 命の配合

配合は、賭けだった。

硝酸カリウム、硫黄、木炭。

そこに、銅の粉末と、あの『緑の粉』を混ぜ合わせる。

少しでも分量を間違えれば、その場で爆発して木っ端微塵だ。

湿気が多い雨の日は、火薬が湿るため花火師は仕事をしない。

だが、今日しかない。

湿気は火薬の感度を鈍らせるが、それは同時に、爆発事故のリスクをわずかに下げる。

「頼む……混ざってくれ」

汗が目に入るが、拭うこともできない。

神経を研ぎ澄ます。

指先の感覚だけで、粉の粒子の混ざり具合を測る。

さら、さら、という砂のような感触。

それが次第に、しっとりとした重みを帯びてくる。

(ここだ)

職人の勘が告げる。

これ以上混ぜれば、摩擦熱で発火する。

これ以下では、空中で色が散らない。

絶妙な臨界点。

源次郎は、震える手でそれを玉皮(たまがわ)――花火の外殻――に詰めた。

三寸玉。

大きさは握り拳ほど。

だが、この中に込めたのは、源次郎の職人としての四十年と、鈴への懺悔だ。

「親方……」

戻ってきた佐吉が、ずぶ濡れのまま立っていた。

手には、雨を避けるための筵(むしろ)を抱えている。

「お前、なんで」

「俺だって花火師の端くれだ! 親方の最期の大仕事、見届けさせてもらいやす」

佐吉の目には、涙が溜まっていた。

源次郎は、短く「馬鹿野郎」と呟き、ニヤリと笑った。

二人は、雨の中を走り出した。

目指すは両国橋。

火除け地として広がるそこなら、空が広い。

時刻は丑三つ時。

見回りの同心たちの足音も途絶える時間だ。

雨脚は弱まっていたが、風が出てきた。

「急げ、風が止む一瞬を狙うんだ」

筒を据える。

湿った地面に、杭を打ち込む。

源次郎の心臓は、早鐘を打っていた。

恐怖ではない。

高揚感だ。

禁じられた行為への背徳感と、未だかつてない色を生み出す創造の悦び。

それは、業(ごう)と呼ぶにふさわしい。

「鈴、見てろよ」

懐に入れてきた鈴の守り袋を、筒に押し当てる。

導火線に火種を近づける。

チリ、と小さな火花が散った。

シュルルルル……。

蛇が這うような音と共に、火種が筒の中へ吸い込まれていく。

第三章 静寂の轟音

「誰だ! そこで何をしている!」

提灯の明かりが、闇を切り裂いた。

見回りだ。

思ったより早い。

「親方、逃げて!」

佐吉が立ちはだかる。

だが、源次郎は動かない。

筒の底で、ドン! という鈍い発射音が響いた。

遅れて、ヒュゥゥゥゥ……という飛翔音が、夜気を切り裂いていく。

同心たちが刀を抜く音が聞こえる。

だが、誰も空を見上げてはいなかった。

誰もが、源次郎を取り押さえようと地面を蹴っていた。

源次郎だけが、首が痛くなるほど空を見上げていた。

(咲け……!)

闇の深淵へ吸い込まれた玉が、頂点に達する。

一瞬の静寂。

時が止まる。

そして。

ボォォォン……。

腹の底に響くような、重低音。

通常の「パン!」という破裂音ではない。

湿った空気を振動させる、波動のような衝撃。

夜空に、巨大な華が開いた。

それは、見たこともない色だった。

深く、冷たく、それでいて魂を吸い込まれるような、紺碧。

『幻の蒼』。

雨上がりの澄んだ空気に、青い粒子がダイヤモンドダストのように煌めきながら降り注ぐ。

それは炎というより、光の雨だった。

「な……」

取り押さえようとした同心たちが、呆然と足を止める。

刀を握る手が下がっている。

その美しさは、法や秩序といった人の理(ことわり)を、一瞬で凌駕した。

源次郎は、その光景を目に焼き付けながら、心の中で叫んだ。

(届いたか、鈴!)

第四章 残像

長屋の布団の上。

鈴は、開け放たれた窓の方を向いていた。

目は、もうほとんど見えていない。

だが、その時。

ドォォォォン……。

空気の震えが、肌に伝わった。

その直後。

真っ暗な視界の隅に、ぼんやりと、だが確実に。

青い光が滲んだ。

それは網膜が見た光ではないかもしれない。

父が込めた「想い」が、音と振動に乗って、彼女の脳裏に直接描いた幻影だったのかもしれない。

けれど、鈴には見えた。

深く、優しい、海の底のような青が。

「……きれい」

鈴の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。

その口元には、久しぶりに安らかな笑みが浮かんでいた。

第五章 職人の始末

両国橋の上。

青い光は、儚く消えた。

あとには、火薬の焦げた臭いと、雨の匂いだけが残る。

源次郎は、地面にねじ伏せられ、荒縄で縛られていた。

頬は砂利に擦り付けられ、血が滲んでいる。

だが、その目は爛々と輝いていた。

「親方……」

佐吉もまた、捕縛されながら泣いていた。

「泣くな、佐吉」

源次郎は、血の混じった唾を吐き捨て、夜空を見上げた。

そこにはもう、何も残っていない。

だが、源次郎の網膜には、あの完全な『蒼』が焼き付いて離れなかった。

「綺麗だったろう?」

「へい……とんでもなく、綺麗でした」

「そうか。なら、いい」

奉行所の役人が、源次郎の髪を掴んで引き立たせる。

「御法度破りの大罪人め。打ち首は免れぬぞ」

役人の言葉など、遠い国の出来事のように聞こえた。

源次郎は、遠く長屋がある方角へ、心の中で語りかけた。

(鈴。父ちゃんの花火、見えたか?)

返事はない。

だが、源次郎は確信していた。

あの青は、闇の中にいる鈴にこそ、最も鮮やかに届いたはずだと。

橋を渡る風が、少しだけ涼しく感じられた。

職人・源次郎の夏が、終わった。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 源次郎 (Genjiro): 熟練の花火師。妻を亡くし、男手一つで娘を育てた。職人気質で不器用だが、娘への愛情は誰よりも深い。「法」よりも「美と約束」を優先する反骨精神を持つ。
  • 鈴 (Suzu): 源次郎の一人娘。流行り病により視力を失いつつある。海の青さを見ることを夢見ている。父の無骨な優しさを理解している聡明な少女。
  • 佐吉 (Sakichi): 源次郎の弟子。臆病だが、師への尊敬と花火への情熱は本物。最終的に師と共に運命を受け入れる覚悟を見せる。

【考察】

  • 色の象徴性: 江戸時代において「青」の花火は技術的に不可能(または極めて困難)とされていた。本作における「蒼」は、現実を超越した「父の愛」や「奇跡」のメタファーである。
  • 「見る」ことの定義: 視力を失う鈴が花火を「見る」描写は、視覚的な認識を超え、心や感覚で対象を捉えることの重要性を問いかけている。振動や音、父の想いが映像を結ばせるという表現は、芸術の根源的な力を示唆する。
  • 刹那の美学: 花火という一瞬で消える芸術に命を懸ける源次郎の姿は、永遠に残るものだけが価値あるものではないという、日本的な「もののあわれ」を体現している。
  • 社会的抑圧と個人の情熱: 「天保の改革」という歴史的背景を、個人の表現や幸福を制限する抑圧装置として機能させ、それに抗う職人の魂(エゴイズムとも取れる)を対比させている。
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