クロノ・スティッチャーの哀歌
第一章 虚像の街と乱れた糸
リオンの右腕には、古地図のような痣が広がっていた。それは彼がこれまでに縫い合わせてきた、忘れられた歴史の痕跡。人々が紡ぐべきだった物語の断片が、彼の皮膚の下で静かに息づいていた。
彼の眼前には、かつて「水の都」と呼ばれた街の広場が、陽炎のように揺らめいている。噴水の輪郭はぼやけ、大理石の床は透けて向こう側の空を見せていた。集合的な記憶からこぼれ落ちた場所は、こうして物理的な実体を失い、光を歪ませるだけの「時間の虚像」と化す。この世界を蝕む、静かな病だ。
「また、綻びが広がっている……」
リオンの目には、常人には見えないものが映っていた。虚像の中心で、空間そのものが引きつれたように歪み、無数の光の糸が乱雑にもつれている。これが過去の出来事に生じた「綻び」。史実との乖離、忘れ去られた人々の嘆きが可視化されたものだ。
彼は手袋を外し、冷たい虚空にそっと指を触れた。指先に走る、ガラスの破片をなぞるような鋭い痛み。綻びは、この世界にとって異物であり、拒絶反応を示す。リオンは腰の革袋から一本の銀色の針を取り出した。象牙のような滑らかな質感を持つ「記憶の織り針(メメント・ニードル)」。師から受け継いだ、唯一の手がかり。
彼は躊躇いなく、自らの左手の甲を針で浅く傷つけた。滲み出た血が針先に吸われ、微かな光を帯びる。対価は、自身の肉体。それが時間の裁縫師の理だった。
リオンは乱れた光の糸の一本を慎重に針で掬い上げ、もう一方の正常な時の流れへと縫い付け始めた。一針、また一針と縫い進めるたびに、彼の髪の先から色素が抜け落ち、銀糸のように白く変色していく。肉体が削られていく感覚。噴水の縁が、ぼんやりと実体を取り戻し始める。忘れられていた恋人たちの囁き、祭りの日のざわめき、革命前夜の密談。修復された記憶の奔流が、彼の脳裏を駆け巡り、右腕の痣に新たな模様を刻みつけた。
全ての縫合を終えた時、広場はかつての姿を完全に取り戻していた。しかし、リオンは安堵よりも深い疲労と、増え続ける痣を見つめて言い知れぬ虚しさを感じていた。これは対症療法に過ぎない。この数年、歴史の透明化は異常な速度で世界中を覆い尽くしている。まるで、巨大な織物の中心から、何者かが意図的に糸を引き抜いているかのように。
「全ての始まりの地へ向かえ。世界の巨大な傷跡、『大崩落』の綻びを辿れば、必ず答えが見つかる」
師の最期の言葉が蘇る。リオンは決意を固め、メメント・ニードルを強く握りしめた。針先は微かに振動し、遥か北方を指し示している。世界の消滅を食い止めるため、そして、この終わりのない修復の日々に終止符を打つために、彼は歩き出すしかなかった。
第二章 織り針が示す道
「大崩落」の地は、あらゆる言葉を拒絶するほどの虚無が広がっていた。かつて、大陸で最も栄華を誇ったとされる王都アルカディアの跡地。しかし今、そこに城壁も尖塔もなく、ただ巨大な時間の虚像が、蜃気楼のように空間を歪めているだけだった。空は二重に映り、風の音すらも奇妙に反響する。ここが、全ての崩壊が始まった中心地。
リオンがメメント・ニードルを虚像にかざすと、針は共鳴するように淡い光を放ち始めた。虚空から、蛍のような無数の光の粒――「記憶の繊維」が引き寄せられ、針の周りを渦巻く。彼は集中し、繊維が織りなす過去の光景を読み解いていく。
数百年も昔のビジョン。王都は炎に包まれ、人々は恐慌に陥っていた。だが、それは歴史書にあるような、隣国との戦争によるものではない。何かが違う。空が裂け、時間が悲鳴を上げている。歴史そのものが、内側から崩壊していくような、根源的な恐怖。
その中心に、一人の男が立っていた。
フード付きのローブを深く被り、顔は見えない。だが、その手にはリオンが持つものと瓜二つの、メメント・ニードルが握られていた。男は針を天に突き上げ、何かを叫んでいる。その瞬間、世界の時間の織物が巨大な音を立てて引き裂かれ、修復不可能なほどの「綻び」が生まれたのだ。
「あれが…全ての元凶……」
リオンは息を呑んだ。だが、それ以上に彼を混乱させたのは、男の佇まい、針を握る指の形、絶望を纏ったその背中が、鏡に映した自分自身のように感じられたことだった。言いようのない既視感が、彼の魂を揺さぶる。
記憶の繊維は、さらに奥へ、虚像の中心核へとリオンを導いていた。そこにかつての王城の玉座があったはずだ。男が「大崩落」を引き起こした、まさにその場所へ。
足を踏み入れるたびに、世界の重みが失われていくような感覚に襲われる。リオンは自らの腕を掴んだ。そこに刻まれた痣だけが、自分がまだこの世界に繋ぎ止められている証だった。彼は違和感を振り払い、揺らめく虚像の奥深くへと、一歩ずつ進んでいった。
第三章 螺旋の記憶
虚像の中心核は、静寂に満ちていた。時間の流れすら止まったかのような空間の中央、砕け散った玉座の残骸に、一人の男が腰かけていた。あの日、記憶の繊維の中で見たのと同じ、フードの男。彼が顔を上げた時、リオンは凍りついた。
その顔は、紛れもなく自分自身だった。ただし、その瞳には数百年分の疲労と絶望が淀み、肌には無数の亀裂のような痣が全身を覆っていた。
「ようやく来たか。過去の私よ」
男の声は、長い年月で擦り切れた砂のようだった。
「お前が…なぜ……」リオンは言葉を失う。
「私はお前だ。お前がこの先、幾万の綻びを縫い続けた果ての姿だ」男は静かに立ち上がった。「私は世界を救おうとした。一つ、また一つと歴史の綻びを縫い、忘れられた人々を救済し続けた。だが、その代償はあまりに大きかった」
彼は自らの腕を広げて見せた。その皮膚はもはや生きた人間のそれではなく、光を通す硝子細工のように変質していた。
「修復を重ねるうち、私の存在は時間そのものに縫い付けられてしまったのだ。死ぬことも、消えることもできず、ただ世界の全ての記憶と苦痛を一身に背負い続けるだけの、生きた記念碑となった。この苦しみは、永遠に終わらない」
彼の言葉が、雷鳴のようにリオンの心を打った。この男――未来の自分は、その無限の苦しみから解放されるために、たった一つの方法を選んだのだ。
「全ての記憶を消し去る。全ての歴史を無に帰せば、私をこの時間に縛り付ける織物そのものが消滅する。私がお前をここに導いたのは、この世界を、そして私自身を終わらせるためだ」
彼が起こした「大崩落」は、世界の崩壊の引き金であると同時に、過去の自分への警告だったのだ。このまま進めば、お前も同じ運命を辿る、と。リオンの足元で、世界の綻びがさらに大きく口を開け、全てを飲み込もうとしていた。目の前にいるのは、世界の破壊者であり、同時に救いを求める自分自身の魂だった。
第四章 最後の縫合
究極の選択が、リオンの肩に重くのしかかる。
未来の彼を倒し、世界の消滅を食い止めるか。そうすれば、世界は救われるだろう。しかし、自分もまた同じ道を歩み、いつかはこの男と同じ絶望の果てに辿り着き、永遠の苦しみに囚われることになる。
それとも、彼の願いを聞き入れ、世界の終焉を見届けるか。そうすれば、彼は永劫の苦しみから解放される。だが、それは無数の人々の記憶と歴史、そして自分自身の存在を世界もろとも消し去ることを意味した。
リオンは、強く握りしめていたメメント・ニードルを見つめた。この針は、失われた歴史から記憶の繊維を抽出する道具。だが、師はこうも言っていた。「それは、物語を終わらせるための針でもある」と。その意味を、今、彼は悟った。
彼は、未来の自分へとゆっくりと歩み寄った。構えも、敵意もない。ただ、深い哀しみを湛えた瞳で、目の前の自分を見つめていた。
「君の苦しみは、僕が終わらせる」
リオンは針を突き立てなかった。代わりに、疲れ果てたもう一人の自分を、力強く抱きしめた。
「君が背負った数百年分の記憶も、絶望も、孤独も…全て、僕が引き受ける」
それは、これまでにない、最も巨大で、最も困難な縫合だった。対象は、歴史の綻びではない。未来の自分という、時間の中で迷子になった魂そのもの。リオンは自らの魂を対価に、彼の存在に絡みついた苦しみの糸を、自分自身へと縫い付け始めたのだ。
「やめろ…お前も、私と同じに……」
未来のリオンが驚愕に目を見開く。だが、リオンの決意は揺るがなかった。彼の全身から生命力が急速に失われ、皮膚はガラスのように透き通り、髪は一瞬で純白に変わる。右腕の痣は瞬く間に全身を駆け巡り、まるで古文書のように彼の体を覆い尽くした。
その代償と引き換えに、未来の自分を縛り付けていた時間の呪縛が解けていく。彼の体は穏やかな光の粒子となり、その表情には、数百年ぶりに浮かべたであろう安らかな微笑があった。
「ありがとう……」
感謝の言葉と共に、彼は完全に光の中へ溶けて消えた。
世界の透明化は、ぴたりと止まった。救われた世界で、人々は何も知らずに日常を送るだろう。だが、リオンはもう、以前のリオンではなかった。彼の存在は時間軸そのものに固定され、人間としての感覚のほとんどを失っていた。彼は新たな「始祖の裁縫師」となったのだ。
砕け散った玉座に一人座り、彼は静かに時の流れを見つめる。喜びも悲しみも感じない。ただ、果てしなく続く、世界の記憶を見守るという使命だけが、そこにあった。それは救済であり、同時に永遠の孤独の始まりだった。