第一章 朽ちゆく栄光
アレイアの民は、文字を持たない。我々の歴史は、香りと共にある。喜びは蜜のように甘く、悲しみは雨に濡れた土の匂いがする。そして、偉業は、幾千もの芳香が織りなす壮大な交響曲として、歴史を詠む者――『香詠み』の手で後世に語り継がれるのだ。
僕、カイは、その末席に名を連ねる若輩の香詠みだ。僕の鼻は、師である長老をして「百年に一度の才」と言わしめるほど鋭敏だったが、その心は常に、先人たちが築き上げた偉大な歴史の香りの前で、畏怖に縮こまっていた。
その日、僕は長老会議に呼び出された。大香炉が置かれた円形の広間は、歴代の香詠みが焚き込めてきた幾世代もの記憶で満ちている。空気が重い。まるで凝縮された時間が、肺腑に流れ込んでくるようだ。
「カイよ」
玉座に座す長老エシルの声は、古木が軋むように低く、厳かだった。
「お前に、大役を命じる」
ゴクリと喉が鳴った。並み居る高弟たちを差し置いて、なぜ僕が。その答えは、次の言葉で明らかになった。
「我らが文明の礎、『建国の英雄アランの勝利』を謳った《栄光の暁》。その香りが、失われつつある」
広間に、声にならないどよめきが広がった。《栄光の暁》は、アレイアの民にとって聖典そのものだ。それは、蛮族との存亡をかけた大戦に勝利し、この地に平和をもたらした英雄アランの魂を写し取った至高の香り。夜明けの光のような高揚感と、勝利の美酒のような甘美さを併せ持ち、いかなる苦難の時代にも民を鼓舞してきた、我々の誇りの結晶だった。
「オリジナルの香りを封じた『原初の壺』が、三百年の時の重みに耐えきれず、ひび割れてしまったのだ。香気は日毎に薄れ、あとひと月もすれば、完全に虚空へ溶けて消えるだろう」
エシル長老の目は、僕をまっすぐに見据えていた。
「カイ。お前の鼻と才覚で、《栄光の暁》を再現せよ。古文書を読み解き、失われた栄光を、再びこの大香炉にくべるのだ。これは命令である」
それは、香詠みとして望みうる最高の栄誉だった。だが同時に、失敗すれば歴史の最も輝かしい一頁を永遠に白紙にしてしまうという、身を切るような重圧が、僕の肩にのしかかってきた。僕は震える声で「御意に」と答えるのが精一杯だった。これが、僕の鼻と魂が、歴史という名の深い森へと迷い込む、始まりの合図だった。
第二章 不協和音のレシピ
《栄光の暁》のレシピは、大書庫の最奥に保管された羊皮紙の巻物に、象徴的な絵図として記されていた。僕は埃っぽい巻物を広げ、そこに描かれた素材を一つ一つ確かめていく。
『夜明けの谷に宿る、最初の光を吸った露』
『燃え盛る太陽の熱を宿した、火口の黒曜石』
『英雄が流した涙が結晶化したと伝わる、嘆きの森の琥珀樹脂』
どれもが詩的で、英雄譚を彩るにふさわしい、伝説的な素材ばかりだった。僕は助手を二人連れ、再現のための旅に出た。険しい山を越え、深い谷を下り、陽光も届かぬ鬱蒼とした森を分け入った。旅は困難を極めたが、伝説の素材を手にするたび、僕の心は高揚した。これで、あの気高く、輝かしい香りを再現できる。アレイアの民の誇りを、僕の手で蘇らせることができるのだ。
すべての素材を集め終え、アトリエに籠もった僕は、古文書の記述通りに調合を始めた。黒曜石を砕き、露を注ぎ、樹脂を溶かす。配合の比率は、僕の鼻が覚えている《栄光の暁》の残り香を頼りに、微細に調整していく。
だが、何度試みても、出来上がる香りは僕の記憶にあるものとは似ても似つかぬ代物だった。
僕が再現しようとしている《栄光の暁》は、天上の音楽のように晴れやかで、一点の曇りもない、完璧な調和の香りだ。しかし、僕の調香炉から立ち上るのは、焦げ付いた鉄の匂い、湿った土の匂い、そして、塩辛い涙が乾いたような、悲痛な残り香が混じり合った、不協和音のような香りだった。それは「栄光」というより、むしろ「凄惨な戦場」そのものを想起させた。
「なぜだ……。配合が違うのか? 素材の鮮度が悪いのか?」
僕は焦燥に駆られた。旅の道中、立ち寄った村々で聞いた話を思い出す。長老たちが語る英雄アランの物語は、常に光に満ちていた。だが、名もなき村人たちの間で細々と語り継がれる伝承は、少し違っていた。アランの軍勢が通った後は、畑が踏み荒らされ、食料はことごとく徴収されたという話。勝利の裏で、多くの若者が故郷に帰らなかったという話。それらは、公式の歴史からは黙殺された、小さな声の記憶だった。
当時、僕はそれらを「敗者の妬み」や「取るに足らない逸話」として聞き流していた。だが、この不快な香りを前にすると、あの村人たちの疲れた目が、脳裏に焼き付いて離れなかった。栄光の裏側には、必ず影がある。だとしたら、僕が今、嗅いでいるこの生々しい香りの方が、もしかして……。
いや、そんなはずはない。僕は頭を振った。僕の役目は、偉大な歴史を寸分違わず再現することだ。感傷や疑念を挟む余地など、どこにもない。
第三章 忘れ草の真実
再現の期限は、刻一刻と迫っていた。僕は寝食を忘れ、調合を繰り返したが、結果は同じだった。アトリエは、焦げ付いた鉄と土と涙の匂いで満ち、僕の精神を蝕んでいく。成功を信じていた助手たちの目にも、次第に失望の色が浮かび始めた。僕は完全に追い詰められていた。
その夜、絶望の中で再び古文書の巻物を眺めていた僕の目は、ある一点に釘付けになった。それは、英雄アランを描いた壮麗な絵図の、その足元。ブーツの陰に隠れるように、意図的に見過ごされることを狙ったかのように、小さな、名もなき草が一輪だけ描かれていたのだ。
それは『忘れ草』だった。
香詠みの間では、禁忌の植物として知られている。その花粉には、他の香りの棘や角を取り、記憶を曖昧にぼかす効果があるとされる。強すぎる悲しみの香りを和らげるために稀に使われることもあったが、歴史の記録に用いることは、真実を歪める冒涜的な行為として固く禁じられていた。
なぜ、聖なる《栄光の暁》のレシピに、禁断の忘れ草が?
脳天を殴られたような衝撃だった。点と点が、線として繋がっていく。僕が何度作っても出来上がってしまう、あの「鉄と土と涙の香り」。村人たちが語っていた、英雄譚の裏側の物語。そして、真実を覆い隠す、忘れ草の存在。
まさか。
まさか、僕が「失敗作」だと思っていた香りこそが、本来の「建国の英雄アランの勝利」が持つ、ありのままの香りだったのではないか? そして、《栄光の暁》とは、そのあまりに生々しく、痛ましい真実の香りに「忘れ草」を混ぜ込み、耳障りの良い、美しい物語へと「改竄」された、偽りの歴史なのではないか?
そうだとしたら、先人たちはなぜそんなことを。民を導くためか? 誇りを保つためか? 輝かしい建国神話の裏に隠された、夥しい血と犠牲から、目を背けさせるために?
僕の手は震えていた。僕が信じ、畏れ、全てを捧げようとしていた歴史は、巧みに化粧を施された虚構だったのかもしれない。僕に課せられた使命は、偉大な歴史の「再現」ではなく、巧妙な「嘘の再生産」だったのかもしれない。
どうすべきだ。古文書に従い、忘れ草を加えて、民が望む「栄光」を差し出すべきか。それとも、僕が嗅ぎ当ててしまった「真実」を、たとえそれがどれほど痛ましく、受け入れ難いものであっても、世に問うべきか。
僕は香炉の前に立ち尽くした。アトリエに満ちる鉄と土と涙の香りが、まるで名もなき死者たちの声のように、僕に問いかけていた。
お前は、どちらを詠むのだ、と。
長い葛藤の末、僕は決意した。僕は調香炉に、忘れ草ではない、別のものを加えた。それは、僕が旅の途中で見つけた、夜露に濡れて咲く小さな白い花。『真実の花』と、村人たちが呼んでいたものだ。その香りは、他の香りの輪郭を、より一層際立たせる効果があった。
僕は、歴史と向き合うことを選んだ。
第四章 名もなき者たちの凱歌
約束の日、僕は長老会議の広間に、二つの香炉を携えて現れた。一つには、忘れ草を微量に混ぜて不完全に再現した、かつての《栄光の暁》。もう一つには、僕が嗅ぎ当てた真実の香りに、『真実の花』を加えて完成させた、新たな香り。
「カイよ、時は来た。我らが栄光を、再びこの場に」
エシル長老が厳かに告げる。僕はまず、一つ目の香炉に火を点けた。ふわりと、懐かしい、あの輝かしい香りが広間に漂う。長老たちの顔が、安堵にほころんだ。だが、その香りはどこか薄っぺらく、魂が宿っていないことを、僕の鼻だけが知っていた。
「見事だ、カイ。よくぞ…」
長老が称賛の言葉を口にしかけた時、僕はそれを遮った。
「お待ちください。それは、真実の香りではありません」
広間が静まり返る。僕は構わず、二つ目の香炉に火を点けた。
次の瞬間、広間の空気が一変した。立ち上ったのは、焦げ付いた鉄の匂い。血の気配。泥と汗の匂い。そして、その奥から、抑えようのない深い悲しみと、それでも明日を信じようとする、か細い祈りのような花の香りがした。それは、英雄の物語ではなかった。勝利の熱狂でもなかった。それは、戦場で死んでいった名もなき兵士たちの声であり、家族の帰りを待ち続けた人々の涙であり、荒れ果てた土地を再び耕した者たちの、不屈の魂の香りだった。
「な、なんだこれは! この不快な匂いは!」
「冒涜だ! 英雄アランへの侮辱だ!」
長老たちの怒号が飛び交う。だが僕は、背筋を伸ばし、声を張り上げた。
「これが真実です! 歴史とは、一人の英雄の輝かしい功績だけで作られるものではありません! その勝利の礎となった、無数の名もなき人々の血と、涙と、祈りの集合体こそが、我々が本当に語り継ぐべき歴史ではないでしょうか!」
僕は、その新しい香りを名付けた。
「《名もなき者たちの凱歌》、と」
誰もが僕を咎める中、ただ一人、玉座のエシル長ローだけが、微動だにせず、目を閉じてその香りを深く、深く吸い込んでいた。やがて、その深く刻まれた皺だらけの目尻から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。
「…そうか。これが、本当の匂いか」
エシル長老は、全てを知っていたのだ。香詠みの長として、伝統という名の美しい嘘を守り続ける責務と、真実を知る者としての良心の呵責との間で、ずっと苦しんできたのだ。
その日、《名もなき者たちの凱歌》が、正式な歴史として認められることはなかった。伝統を覆すことは、あまりに大きな波紋を呼ぶ。だが、変化の種は、確かに蒔かれた。僕の行動は、多くの若き香詠みたちの心を揺さぶり、歴史とは何かを、改めて問い直すきっかけとなった。
僕は今、再び旅に出ている。偉大な歴史の再現ではなく、まだ誰にも語られていない、風の中に埋もれた名もなき物語の香りを拾い集めるために。歴史は、完成された書物ではない。それは、僕たち自身が、常に嗅ぎ取り、問い続け、紡いでいく、終わりなき旅なのだ。
風が、新たな香りを運んでくる。それはまだ、誰も知らない、未来の世代に語り継がれるべき、遠い物語の、始まりの匂いがした。