刻喰(ときばみ)の一族
第一章 甘美なる悲劇の香り
水上朔(みなかみ さく)の仕事場は、古い紙とインク、そして乾いた糊の匂いで満たされていた。古書修復師である彼にとって、それは心の安らぐ香りだった。何世紀もの時を経て脆くなったページを補修し、失われた文字の影を追い、忘れ去られた物語に再び命をふきこむ。彼の指先は、歴史の重みに慣れていた。だが、それはあくまで物理的な重さであり、朔はそれ以上のものに触れることを、ずっと避けて生きてきた。
彼の血には、呪いとも祝福ともつかぬ、古からの秘密が流れていた。水上一族は、物質に宿る記憶を「味わう」ことができるのだ。古い書物の一片を舌に乗せれば、その紙が漉かれた時代の光景が、インクを走らせた者の感情が、奔流となって感覚を支配する。朔の祖父は、それを「刻(とき)を喰(は)む」と呼んだ。そして、死ぬ間際に、ただ一言、朔にこう言い残した。「決して、深入りするな」と。
朔はその遺言を守り、自らの能力に蓋をして生きてきた。仕事で扱う古書も、あくまで「モノ」として接し、その記憶の味を無意識のうちに遮断していた。日常は凪いでいた。少なくとも、あの古びた桐の小箱が届くまでは。
それは祖父の遺品整理で見つかったものだと、遠縁の親戚から送られてきた。蓋を開けると、中には黒いビロードに包まれた、一枚の羊皮紙が収められていた。そして、箱を開けた瞬間、朔の全身を、経験したことのない芳香が貫いた。
それは、熟しきった果実の甘さと、夜露に濡れた花の蜜のような、抗いがたいほど甘美な香りだった。しかし、その奥底には、燻された木材の焦げ臭さと、微かな血の鉄錆、そして、どうしようもなく悲しい、涙の塩辛さが混じり合っていた。香りは味覚を直接刺激し、唾液がじわりと滲む。朔の内に眠っていた「刻喰み」の血が、飢えた獣のように疼き始めた。
羊皮紙の縁は黒く焼け焦げ、そこに記されていたであろう文字は、ほとんど判読不能だった。ただ、その存在自体が、強烈な記憶の凝縮体であることを物語っていた。そして、ビロードの下には、祖父の震えるような筆跡で書かれた一枚のメモが隠されていた。
『これだけは、喰うな。魂ごと、持っていかれる』
警告は、むしろ禁断の果実への誘い水となった。なぜ、祖父はこれを手元に置いていたのか。魂ごと持っていかれるとは、どういうことか。甘く悲しい香りが、朔の理性を麻痺させていく。指先が、まるで意思を持ったかのように、羊皮紙の脆くなった端を千切り取った。米粒ほどの、小さな欠片。
「少しだけなら……」
誰にともなく言い訳をしながら、朔は目を閉じ、その欠片を、そっと舌の上に乗せた。
第二章 焼失の村と少女の涙
刹那、世界が反転した。
古書の匂いに満たされた仕事場は消え去り、朔の鼻腔を突いたのは、むせ返るような青草の匂いと、土の湿った感触だった。目を開けると、視界は自分のものよりずっと低い位置にあり、目の前には陽光を浴びて輝く、一面の菜の花畑が広がっていた。小さな自分の手が、黄色い花を一本、摘み取っている。
(これは……誰かの記憶か)
朔は理解した。自分は今、この羊皮紙に宿る記憶の主、その人物の過去を追体験しているのだ。味は、驚くほど鮮明な感覚となって全身を駆け巡った。蜂蜜のような甘さは、この平和な風景そのものだった。小川のせせらぎが耳をくすぐり、遠くで響く鍛冶の音が心地よいリズムを刻む。空はどこまでも青く、白い雲がゆっくりと流れていく。少女――朔は自分が今、幼い少女であることを直感した――の心は、幸福と安らぎで満たされている。彼女が今摘んだ花を、家に帰って母に渡すのだ。そのことを思うだけで、胸が温かくなる。
しかし、記憶の味は次の瞬間、一変した。
甘さの底に潜んでいた焦げ臭さが、一気に舌の表面を覆い尽くす。灰の味、黒煙の味だ。遠くで上がった鬨の声。地響き。平和な風景は、あっという間に阿鼻叫喚の地獄へと塗り替えられた。燃え盛る家々から立ち上る黒煙が、青かった空を穢していく。人々の悲鳴が、小川のせせらぎを掻き消した。
少女は走った。母の名を叫びながら、煙の立ち込める村を駆けた。涙の塩辛い味が、口の中に広がる。恐怖で足がもつれ、何度も転んだ。土の味と、己の膝から流れる血の味が混じり合う。そして、彼女は見てしまった。家の前で、赤い鎧を纏った武者に斬り伏せられる、父の姿を。鉄の味が、朔の舌を痺れさせた。
絶望。それは、どんな味も失わせる、絶対的な無の味だった。少女の小さな世界は、意味も分からぬまま、理不尽な暴力によって破壊された。燃え落ちる家の梁が、彼女の目の前で崩れ落ちる。熱風が肌を焼き、息ができない。薄れゆく意識の中で、少女が最後に見たのは、空を舞う火の粉と、見慣れた我が家が灰燼に帰す光景だった。
「……はっ、はぁっ……!」
朔は、仕事場の床に倒れ込んでいた。全身は汗でぐっしょりと濡れ、心臓が警鐘のように鳴り響いている。口の中に残る、灰と血と涙の味が、あまりにも生々しい。それは単なる映像体験ではなかった。少女の絶望、恐怖、そして家族を失った計り知れない悲しみが、彼の魂に直接刻み込まれたかのようだった。
これが、祖父の言っていた「魂ごと持っていかれる」ということの意味なのか。朔は震える手で床につき、立ち上がろうとした。その時、視界の隅に、見慣れぬ光景が映った。窓ガラスに反射した自分の顔。その瞳の奥に、一瞬だけ、燃え盛る村を見つめる、幼い少女の姿が揺らめいた気がした。
第三章 悲劇を喰らう者たちの宿命
少女の記憶は、朔の中に澱のように残り続けた。ふとした瞬間に、鼻の奥に煙の匂いが蘇り、食事をしても、微かな灰の味を感じるようになった。彼は眠れぬ夜を過ごしながら、自分の一族の能力が、単なる好奇心で触れていいものではなかったことを痛感していた。祖父の警告の重みが、今更ながら彼の全身にのしかかる。
この呪われた力の正体は何なのか。祖父はなぜ、あんなにも危険な羊皮紙を大切に保管していたのか。答えを求め、朔は祖父の書斎だった部屋に足を踏み入れた。そこは、朔の仕事場よりもさらに濃密な、古い紙の匂いが支配する空間だった。壁一面の本棚から、一冊の分厚い和綴じの日記を見つけ出す。祖父の遺した手記だ。
ページをめくると、そこには水上一族の、想像を絶する歴史が記されていた。
『我ら刻喰の一族は、単なる歴史の傍観者にあらず。我らは、歴史の悲しみを喰らう者なり』
手記によれば、一族の能力は、歴史に埋もれた声なき者たちの悲劇を「味わい」、それを自らの魂に取り込むことで、世界からその苦しみを浄化するためのものだという。戦争、飢饉、疫病、理不尽な死。人々が忘れ去り、歴史の教科書には決して載らない無数の悲しみ。それらは、放置すれば世界の集合的無意識に澱のように溜まり、新たな争いや憎しみの火種となる。一族は、それを防ぐための「濾過装置」として、代々その宿命を背負ってきたのだ。
『刻を喰むことは、毒を喰らうことと同義なり。悲劇の記憶は、我らの魂を少しずつ蝕む。一つの記憶を喰らえば、その悲しみが己の一部となる。幾多の悲しみを喰らった魂は、やがて摩耗し、光を失う』
朔は息を呑んだ。祖父が晩年、時折見せていた虚ろな表情の理由が、ようやく分かった気がした。彼は、一体どれほどの悲しみをその身に引き受けてきたのだろう。手記は続く。
『私は、この宿命を我が孫、朔の代で終わらせたい。彼は、ただの人として、ささやかな幸せを享受すべきだ。だから私は、一族が長年かけても「消化」しきれなかった、最も強大な悲しみの記憶を封印した。あれは、あまりにも純粋で、あまりにも深い絶望の塊だ。我ら一族の誰が喰らっても、魂ごと喰い尽くされるだろう。あれは、決して目覚めさせてはならない』
最後のページを読み終えた時、朔は全身から血の気が引くのを感じた。自分が口にした羊皮紙。あれは、一族ですら浄化しきれなかった「悲劇の食べ残し」だったのだ。そして、その封印を、他ならぬ自分が解いてしまった。どうりで、これほどまでに魂が揺さぶられるはずだ。あれは、一人の少女の悲劇であると同時に、歴史から忘れ去られた無数の悲しみの象徴そのものだったのだ。
祖父は、自分を守ろうとしてくれていた。この過酷な宿命から、自分を遠ざけようとしてくれていた。その優しさを踏みにじり、自分は最も触れてはならないパンドラの箱を開けてしまった。朔は、書斎の床に崩れ落ち、ただ茫然と手記を見つめることしかできなかった。
第四章 約束の味
数日間、朔は仕事も手につかず、自室に閉じこもった。少女の記憶は、もはや幻覚の域を超え、彼の日常を侵食し始めていた。湯気の向こうに燃える家の幻が見え、街の喧騒の中に人々の悲鳴が聞こえる。そして何より、あの羊皮紙から漂う、甘く悲しい香りが、部屋の中から消えることはなかった。
それは、忘れられた悲しみが、世界に再び漏れ出そうとしている兆候なのかもしれない。このまま放置すれば、この浄化されなかった悲しみは、新たな憎しみとなってどこかで芽吹くのではないか。祖父の手記にあった言葉が、頭の中で反響する。
朔は、選択を迫られていた。祖父の願い通り、この能力から目を背け、一人の人間として、蝕まれゆく魂を抱えて生きていくか。それとも、祖父が背負いきれなかった宿命を受け継ぎ、この名もなき少女の悲しみと、その向こうにある無数の魂の叫びに向き合うのか。
答えは、簡単には出なかった。恐ろしかった。自分の魂が、原型を留めないほどに摩耗してしまうかもしれない。それでも、彼の脳裏から、菜の花畑で幸せそうに笑っていた少女の顔が離れなかった。彼女は、確かにそこに存在したのだ。笑い、泣き、家族を愛し、そして理不-尽に全てを奪われた。彼女の存在を、悲しみを、「なかったこと」にしてはいけない。喰らって消し去るのではなく、自分が引き受けることで、その存在を証明しなければならない。
朔は、静かに立ち上がった。そして、仕事場に置かれた桐の小箱へと向かう。蓋を開けると、羊皮紙は相変わらず、甘く悲しい香りを放っていた。しかし、今の朔にとって、それはもう単なる誘惑の香りではなかった。それは、助けを求める声であり、忘れないでほしいという祈りの香りだった。
彼は、残された羊皮紙の全てを、ゆっくりと、しかし確かな手つきで口に含んだ。
瞬間、凄まじい記憶の奔流が、彼の存在そのものを飲み込もうとした。何百、何千という声なき者たちの絶望が、彼の魂を八つ裂きにしようと襲いかかる。だが、朔は歯を食いしばり、それに耐えた。彼はただ受け入れた。少女の涙を、父親の無念を、母親の嘆きを。歴史の片隅で、誰にも知られることなく消えていった、全ての悲しみを。
どれほどの時間が経っただろうか。嵐が過ぎ去った後、朔は静寂の中にいた。口の中に残っていた灰と血の味は消え、代わりに、不思議な味が広がっていた。それは、雨上がりの土の匂いに似た、穏やかで懐かしい味。そして、菜の花の蜜のような、ほんのりとした甘さ。
それは、悲しみが浄化された味ではなかった。悲しみを受け入れ、その存在を肯定した者だけが感じることのできる、「約束の味」だった。忘れないという、約束の。
朔はゆっくりと目を開けた。世界は何も変わっていない。仕事場は、相変わらず古い紙の匂いに満ちている。しかし、彼自身の内面は、決定的に変わっていた。彼はもう、歴史の重みから逃げない。
窓から差し込む夕陽が、部屋を茜色に染めていた。朔は本棚から、一冊の古い装丁の本を手に取る。それは、まだ修復が必要な、名もなき作家の物語だった。彼はその本の、脆くなったページに、そっと唇を寄せた。もはや「喰らう」のではない。そこに刻まれた声に、耳を澄ますために。
歴史を背負うことは、きっと茨の道だ。彼の魂は、これから何度も傷つき、摩耗していくだろう。それでも、朔の心は、不思議なほど凪いでいた。彼の瞳の奥には、菜の花畑で笑う少女の姿が、今も確かに宿っている。彼女と共に、彼は生きていくのだ。忘れられた者たちの記憶を守る、ただ一人の語り部として。