***第一章 不協和音の遺言***
古びた物に触れると、俺の指先は嘘をつく。いや、嘘ではない。持ち主が刻み込んだ、あまりに正直すぎる感情の残滓が、奔流となって俺の意識をかき乱すのだ。喜び、悲しみ、怒り、嫉妬。言葉になる前の、生々しい感覚の洪水。人々はこれをサイコメトリーと呼ぶのかもしれないが、俺にとってはただの呪いだ。だから俺は、ピアノの調律師になった。黒と白の鍵盤だけが、純粋な音だけが、俺に安らぎを与えてくれる世界だったからだ。
その日、俺――天野響(あまの ひびき)が訪れたのは、重厚な蔦に覆われた洋館だった。依頼主は、先日亡くなった天才作曲家、月島奏(つきしま かなで)の遺族。警察は彼の死を、創作に行き詰まった末の自殺と結論づけていた。書斎は内側から鍵がかけられた密室で、遺書の代わりに、未完の楽譜がピアノの上に置かれていたという。
「父が最後に触れたピアノです。もう一度、父の愛した音に戻してあげてください」
娘の詩織さんは、瞳に深い影を落としながらそう言った。彼女の華奢な肩に触れれば、きっと張り裂けそうな悲しみが伝わってくるだろう。俺は無意識にポケットに手を突っ込み、彼女との接触を避けた。
案内された書斎は、時が止まったかのようだった。天井まで届く本棚、壁に飾られた数々の賞状、そして部屋の中央には、静かな威厳を放つ漆黒のグランドピアノ。月島の魂そのものと言われた、ベーゼンドルファー。
俺はゆっくりとピアノに近づき、鍵盤を覆う蓋を開けた。象牙の鍵盤は、主の体温を失ってひどく冷たい。深呼吸を一つ。仕事だ、と自分に言い聞かせ、震える指先でそっと中央の「ド」の音に触れた。
その瞬間、世界が歪んだ。
いつものような、誰かの感情の濁流とは違う。それは、音のない絶叫。声にならない慟哭。何かを必死に伝えようとする、あまりに純粋で、切実な想いの塊だった。それは、自ら死を選ぶ人間の諦観や絶望とは似ても似つかない、強靭な意志の光。
「……違う」
俺は思わず呟いていた。詩織さんが怪訝な顔でこちらを見る。
「何が、違うんですか?」
「月島さんは、自殺なんかじゃない」
根拠はない。だが、この指先が感じ取った「沈黙の悲鳴」は、凡庸な結論を真っ向から否定していた。未完の楽譜が、まるで不協和音の遺言のように、俺の目の前で静かに口を開けていた。
***第二章 触れられない記憶***
俺は依頼の範囲を超えて、月島の死の真相を探り始めていた。呪いと疎んできたこの能力が、死者の無念を晴らすために疼いている。そんな大義名分を、自分に言い聞かせながら。
詩織さんの許可を得て、俺は月島の遺品に触れていくことにした。彼が愛用していた万年筆。インクの匂いに混じって、指先に流れ込んできたのは「焦燥感」だった。何かから逃れるように、あるいは何かに追いつこうとするかのように、五線譜の上を猛烈な速さで滑っていくペン先の記憶。
次に、彼がいつも座っていた革張りの椅子。ここからは、深い「愛情」と、ほんの少しの「後悔」が伝わってきた。窓の外を見つめながら、誰かを慈しむような温かい感情。その視線の先に、かつて何があったのか。
断片的な感情は、パズルのピースのように散らばっているだけで、一つの絵にはならない。警察がなぜこれを見過ごしたのか。いや、彼らにこの感覚はわからない。俺にしか聞こえない、物に宿った声なき声なのだ。
「父は最近、様子がおかしかったんです」と詩織さんが言った。「昔のアルバムを引っ張り出してきたり、私が小さい頃に弾いていた下手な練習曲を、懐かしそうに口ずさんだり……。まるで、何かとお別れをするみたいに」
その言葉が、俺の心に小さな棘のように刺さった。
俺は再び、問題の未完の楽譜に目を落とした。評論家たちは「晩年の混乱が見える」と評したその楽譜は、確かに奇妙だった。月島の華麗で重厚なハーモニーとは程遠い、途切れ途切れのメロディ。そして、異常なほど多い休符。まるで音楽が、何度も息継ぎを失敗しているかのようだ。
「この休符……」
俺は楽譜にそっと指を触れた。しかし、紙からは何も感じない。ただのパルプの冷たさだけだ。メッセージは、物そのものではなく、それが示す「何か」に込められているのかもしれない。
「天野さん、あなたには何か特別な力が……?」
詩織さんが、俺の瞳の奥を覗き込むように尋ねた。俺は彼女の視線から逃れるように目を伏せた。この力を明かせば、気味悪がられるか、過剰に依存されるか、そのどちらかだ。人との間に、また一つ壁ができてしまう。
「ただの、調律師の勘ですよ」
俺はそう言って、冷たくなった指先を強く握りしめた。触れれば、相手の心が流れ込んでくる。だが、俺は誰の心にも触れることができない。この指先は、世界で最も孤独な場所だった。月島奏が残した謎は、俺自身の孤独と重なり合って、より深く、暗い迷宮へと俺を誘っているようだった。
***第三章 休符に隠されたアリア***
数日が過ぎ、俺はほとんど寝ずに月島の楽譜と格闘していた。休符、休符、休符。なぜこれほどまでに音を途切れさせる必要があるのか。まるで、言葉を詰まらせているようだ。だが、音楽家にとって「沈黙」もまた音楽の一部のはずだ。月島ほどの天才が、意味もなく沈黙を乱用するだろうか。
その夜、俺は自分の仕事場で、古いアップライトピアノを調律していた。ハンマーが弦を叩くたびに、澄んだ音が工房に響き渡る。音と音の間にある、一瞬の静寂。その静寂があるからこそ、次の音はより鮮やかに響く。
その時、雷に打たれたような衝撃が全身を貫いた。
――メッセージは、「音」に隠されているのではない。「音と音の間」、つまり「休符」そのものに、意味が込められているんだ。
俺は急いで月島の屋敷へ向かった。深夜にもかかわらず、詩織さんは俺を迎え入れてくれた。彼女の目の下の隈は、俺と同じくらい濃くなっている。
「わかりました。月島さんが残したかったものが」
俺は息を切らしながら、書斎のピアノの前に立った。そして、詩織さんに一枚の古い写真を見せてもらった。幼い彼女と、若き日の月島が、浜辺で笑い合っている写真だ。
「この時のことを、覚えていますか?」
「ええ……。父が、波の音を『地球の呼吸だ』と言っていました」
俺は楽譜のある一節を指差した。そこには、三連符の後に、全休符が一つだけ置かれている。
「この三連符のリズムは、寄せては返す波のリズムと同じです。そして、この休符は……波が引いた後の、一瞬の静けさだ」
俺は、楽譜の別の部分を指す。スタッカートで刻まれた短い音の羅列と、その後のフェルマータ(音を十分に伸ばす記号)付きの休符。
「これは、雨垂れの音。そして、雨が上がった後の、濡れた葉が放つ静かな匂いと空気。月島さんは音符で絵を描いたんじゃない。音符と休符を使って、彼が愛した『情景』そのものを、再構築しようとしたんです」
詩織さんは、信じられないという顔で楽譜を見つめている。
そして、俺は核心に触れた。月島は進行性の難病に侵されていた。主治医に確認して、ようやく全てが繋がった。その病は、やがて彼の五感を一つずつ奪い去っていくものだった。聴覚さえも。
彼は、自らの死を選んだのではない。音を失うという、作曲家にとって死よりも辛い運命から、自らの「記憶」と「音楽」を救い出そうとしたのだ。
愛する娘の産声。妻と初めて出会った日の雨音。家族で笑い合った夏の日の夕立。彼が失いたくなかった、世界で最も美しい音たち。それらを、誰にも奪われない永遠の楽曲として、この世に残そうとした。
この未完の曲は、絶望の遺書などではない。月島奏が生涯をかけて愛した、全ての音への、そして家族への、最後のラブレターだったのだ。
彼の死は、自殺でも殺人でもない。自らの芸術を全うするための、あまりに気高く、そしてあまりに悲しい「献身」だった。
俺は鍵盤に指を置いた。今度はもう、あの「沈黙の悲鳴」は感じなかった。代わりに、深く、温かい、途方もない愛情が、俺の指先から心へと、静かに流れ込んできた。これまで呪いでしかなかったこの力で、初めて人の魂の最も美しい部分に触れた気がした。
***第四章 父の最後のフーガ***
「調律を、始めます」
俺は詩織さんに告げた。それは単なる音程の調整ではない。月島の記憶そのものを、このベーゼンドルファーに宿らせるための、聖なる儀式だった。
俺は楽譜に込められた情景を一つ一つ、指先で確かめながら調律を進めた。詩織さんの産声をイメージした高音は、生まれたての光のようにキラキラと。雨音を模した中音域は、地面を優しく叩く雫のようにしっとりと。そして、家族の笑い声を思わせる和音は、陽だまりのように温かく。
俺の能力が、初めて道標になった。物に触れるたびに流れ込んでくる断片的な感情が、今は楽譜のどの部分と結びついているのかを教えてくれる。万年筆の「焦燥」は、失われゆく時間との戦い。椅子の「愛情」と「後悔」は、もっと多くの音を家族に残してやりたかったという想い。
数時間後、夜が白み始める頃、調律は終わった。ピアノはもう、ただの楽器ではなかった。月島奏の人生そのものが、そこに息づいていた。
「弾きます」
俺は詩織さんに向き直り、静かに鍵盤に指を置いた。
最初の一音は、か細く、しかし生命力に満ちたソプラノの響き。詩織さんが生まれた朝の、最初の産声。彼女はハッとして、口元を押さえた。
メロディは、彼女の成長を追いかけるように、様々な情景を紡ぎ出す。公園のブランコがきしむ音、初めて自転車に乗れた日の歓声、卒業式で歌った合唱曲の断片。それらは全て、父だけが知る、娘への愛情に満ちた記憶の断片だった。やがて曲は、月島自身の人生を遡る。若き日の情熱、妻との出会い、創作の苦悩と喜び。複数の旋律が、記憶が、追いかけ、重なり合い、美しいフーガ(遁走曲)を織りなしていく。
そして、最後のパート。音の数が次第に減っていき、静寂が増していく。それは、彼の五感が失われていく様を表していた。しかし、悲壮感はない。一つ一つの音が、慈しむように、別れを告げるように、丁寧に奏でられる。
最後の和音が、教会の鐘のように厳かに響き、長い長いフェルマータの後、完全な沈黙が訪れた。
曲が終わっても、俺は鍵盤から指を離せなかった。詩織さんの静かな嗚咽だけが、朝の光が差し込む書斎に響いていた。彼女の頬を伝う涙は、もう悲しみだけの色ではなかった。
「……聞こえるわ。父の声が」
事件は、公式には月島奏の自殺として処理された。だが、真相は俺と詩織さんの胸の中にある。彼は死んだのではない。音楽になったのだ。
あの日以来、俺は自分の能力を呪うことをやめた。この指先は、世界と俺を隔てる壁ではなく、声なき者の想いを繋ぐための、架け橋なのかもしれない。
俺はこれからも、調律師として生きていく。物に宿る声に耳を澄まし、忘れられた記憶を、凍てついた心を、調律していく「記憶の調律師」として。
洋館を後にし、空を見上げる。雲一つない青空に、まるで優しいピアノの旋律が流れているような気がした。それはきっと、天国にいる月島奏が、愛する娘のために奏で続けている、永遠のフーガなのだろう。
沈黙のフーガ
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