沈黙のソナタ

沈黙のソナタ

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第一章 色のない部屋

時田響(ときた ひびき)の世界は、音で彩られていた。ドアの軋む音は錆びた赤色、遠くで鳴くカラスの声は汚れた群青色、そして彼の本業であるピアノの調律で生み出す澄んだ音色は、光の粒を散らしたような黄金色。彼は、音を色として知覚する共感覚(色聴)の持ち主だった。その稀有な才能は、彼を若くして一流の調律師へと押し上げたが、同時に、日常に溢れる不協和音の色彩に絶えず苛まれ、彼を孤独な静寂へと追いやった。

その日、彼が招かれたのは、静寂とは最も遠い場所のはずだった。師であり、世界的なマエストロであった霧島蓮司が、自らの音楽スタジオで亡くなったのだ。警察からの連絡を受け、響が重い足取りで現場に到着すると、そこはすでに鑑識の無機質な光と、刑事たちの鈍い灰色の声で満たされていた。

「時田さんですね。霧島先生の最後の調律を担当されたと伺っています」

年配の刑事が、気遣わしげに響を見た。

「死因は急性心不全。事件性はない、とのことです」

響は頷き、許可を得てスタジオの中へと足を踏み入れた。グランドピアノが鎮座する、防音壁に囲まれた空間。マエストロは、そのピアノの傍らにある愛用の椅子に、眠るように座ったまま息絶えていたという。

しかし、響がその部屋に入った瞬間、全身の肌が粟立った。めまいにも似た、強烈な違和感。それは、臭いでも、異様な光景でもなかった。

―――色がない。

刑事たちの声、機材の立てる物音、外から微かに漏れ聞こえる喧騒。それらの「音の色」が、この部屋の入り口を境に、ぷっつりと途絶えているのだ。まるで分厚いガラスの向こう側のように、音は聞こえる。だが、響の感覚には、何の色も届いてこない。そこにあるのは、全ての色彩を吸い尽くしたかのような、絶対的な「無色」の空間だった。

物理的にありえない。音が存在する限り、そこには色があるはずなのだ。響にとって、この「無音の空間」は、真空の宇宙に放り出されるのに等しい恐怖だった。

「先生は……何か変わった様子はありませんでしたか?」

刑事の声が、色のない、空虚な振動として響の鼓膜を震わせる。

「……いえ」

響はかろうじて答えた。これは、ただの心不全ではない。この異常な静寂、この色のない空間こそが、師を殺したのだ。響の内で、静かな確信が生まれた。犯人は、この部屋に「沈黙」という名の、見えない凶器を遺していったのだ。

第二章 遺された不協和音

警察の捜査は早々に打ち切られた。事件性なし。その結論は、響にとって濁った茶色の、不快な音色でしかなかった。彼は一人、霧島のスタジオに残ることを許可された。マエストロの遺した膨大な楽譜や日記の中から、あの「無色の空間」の正体を探るために。

霧島の書斎は、彼の音楽そのものだった。整然と並べられた楽譜には緻密な青い思考が、使い込まれた万年筆には情熱的な緋色が宿っている。響は、師の晩年の日記を手に取った。そこには、彼の音楽への探求が、常軌を逸した領域へと踏み込んでいたことが記されていた。

『音には限界がある。どれほど美しい旋律も、結局は空気の振動に過ぎない。真の芸術は、その先にあるのではないか。全ての音が生まれる前の、原初の静寂。究極の音楽は、沈黙の中にこそ存在する』

日記の記述は、日を追うごとに熱を帯びていく。響は、霧島が音響工学の専門書を読み漁り、誰かと頻繁に連絡を取っていた痕跡を見つけた。それは、単なる思索ではなかった。彼は本気で「究極の沈黙」を、人工的に創り出そうとしていたのだ。

容疑者として、二人の人物が響の脳裏に浮かんだ。

一人は、霧島の才能に嫉妬し、常に反発していた若手ピアニストの早乙女。彼の言葉は、棘のある紫色の光を放っていた。「先生は老いた。新しい音楽は俺が作る」と公言して憚らなかった男だ。

もう一人は、霧島の莫大な遺産を管理していた姪の美咲。彼女の言葉は、常に表面を滑らかに取り繕った、薄いピンク色をしていたが、その奥には欲深い緑色がちらついていた。

響は二人と会った。早乙女は「あの老人が死んでせいせいした」と嘯き、その声には偽りのない、どす黒い嫉妬の色が滲んでいた。美咲は「叔父様が亡くなって、本当に悲しい」と涙ぐんだが、その声の端々には、安堵ともとれる明るい黄色の斑点が浮かんでいた。

どちらも怪しい。だが、彼らがどうやって、あの物理法則を無視したかのような「無色の空間」を作り出せるというのか。彼らの放つ不協和音は、響の心を掻き乱すだけで、真相への道筋を照らしてはくれなかった。響は再び霧島のスタジオに戻り、グランドピアノの前に座った。鍵盤にそっと指を触れる。師が最後に触れたであろうその場所から、何かを感じ取ろうとした。その時、ピアノの脚の陰に、一枚の設計図が落ちているのに気づいた。

第三章 聞こえない殺人者

設計図に描かれていたのは、響の想像を絶する装置の構造だった。複雑な回路と、特殊な共鳴盤。その名は『サイレント・キャンバス』と記されていた。それは、単に音を遮断する防音装置ではなかった。特定の周波数の音波をマイクで拾い、瞬時にその位相を180度反転させた「逆位相」の音波をスピーカーから発生させる。そうすることで、元の音波と干渉させ、互いを打ち消し合わせるのだ。理論上、特定の空間を完全な無音にすることが可能になる。

響は愕然とした。師は、狂気じみた思索の果てに、ついに「沈黙を創造する」装置を完成させていたのだ。あの日、スタジオに満ちていた「無色の空間」は、このサイレント・キャンバスによって生み出されたものに違いなかった。

だが、それがどうやって師を死に至らしめたのか。沈黙は人を殺せない。響は設計図の隅に書き込まれた、小さなメモに目を留めた。

『――不可聴領域(20kHz以上)でのテスト。高出力時、心拍への影響を要観察』

全身に鳥肌が立った。霧島は、人間の耳には聞こえない超高周波の音を使い、究極の沈黙を作り出そうとしていたのだ。人間には聞こえないだけで、そこには凄まじいエネルギーを持つ音波が存在していた。あの日、装置は何らかの原因で暴走したのだ。致死レベルにまで増幅された超高周波が、不可視の槍となってマエストロの心臓を穿った。医学的には心不全としか診断できない、完全犯罪。

犯人は、人間ではなかった。霧島蓮司を殺したのは、彼自身が追い求めた「沈黙」――その仮面を被った、「聞こえない音」そのものだったのだ。

響は、一種の虚脱感に襲われた。これは、芸術に殉じた者の、悲劇的な事故死。そう結論づけてしまえば、全てが終わる。しかし、本当にそうだろうか。響の脳裏に、あの完全すぎた「無色の空間」が蘇る。そこには、事故特有の偶発的な「色の乱れ」が一切なかった。まるで、誰かが完璧な作品を仕上げるかのように、緻密に計算され尽くした、冷たい沈黙だった。

彼はスタジオの隅に置かれた装置の制御パネルを、もう一度、注意深く調べ始めた。その表面に残る、微かな指紋。そして、メンテナンスログに記録された、最後のアクセス時刻。それは、霧島の推定死亡時刻の、わずか数分前を指していた。事故ではない。誰かが、この装置に触れたのだ。

第四章 沈黙が奏でる色

響は、霧島の長年の助手であった内田を呼び出した。いつも穏やかで、師を影のように支えてきた初老の男。彼の発する声は、常に落ち着いた、森の木々のような深緑色をしていた。

「内田さん。あなたが、最後に装置を操作しましたね」

響の静かな問いに、内田の肩が微かに震えた。彼の深緑色の声に、今まで見たことのない、震えるような灰色の亀裂が入る。

「……なぜ、それを」

「ログが残っていました。そして、あなたの指紋も。あなたは、師を止めたかった。そうでしょう?」

内田は観念したように、ゆっくりと語り始めた。彼の声は、後悔と悲しみの入り混じった、濁った藍色に変わっていた。

「先生は、日に日にあの研究にのめり込んでいかれました。まるで、何かに取り憑かれたように……。あの日も、『今日、新しい音楽が生まれる』と、少年のようにはしゃいでおられた。私は、怖くなったのです。先生が、ご自分を壊してしまうのではないかと」

内田は、危険な実験を失敗させることで、師の目を覚まさせようとした。彼は、霧島が席を外した隙に、制御パネルを操作し、出力レベルを下げるパラメーターに、ほんの少しだけ細工をした。良かれと思っての行動だった。だが、その僅かな改変が、システムの予期せぬバグを引き起こした。出力は下がるどころか、リミッターが外れて無限に増幅される暴走状態に陥ってしまったのだ。

「私が部屋に戻った時、先生は……もう……。私のせいです。私が、先生を殺してしまった……」

内-田は崩れ落ち、嗚咽を漏らした。その音は、響の目には、痛々しいほどの暗い赤色となって降り注いだ。

事件は解決した。だが、響の心には、虚しさだけが残った。師を殺したのは、聞こえない音。その引き金を引いたのは、師を誰よりも敬愛していた男の、歪んだ善意だった。なんと皮肉な悲劇だろうか。

数日後、響は再び一人でスタジオを訪れた。がらんとした空間で、彼はグランドピアノの前に座る。そして、鍵盤に指を置いたまま、目を閉じた。

師が追い求めた「沈黙」とは、何だったのだろう。単なる音の不在ではなかったはずだ。それはきっと、全ての音が生まれ、そして還っていく場所。全ての色彩が混ざり合い、無色透明に見える光の源。響は、生まれて初めて、沈黙の中に「色」を見た気がした。それは、無ではない。無限の可能性を秘めた、深く、温かい、純白の色だった。

これまで呪いのように感じていた自らの共感覚が、今は世界を理解するための、かけがえのない窓のように思えた。彼は、師の死を乗り越え、自分自身の音を探さなければならない。

響は、そっと鍵盤を押し込んだ。

ポーン。

スタジオに響き渡った一つの音。それは、これまでに彼が聞いたどんな音よりも澄み切って、一点の曇りもない、希望に満ちた青い光の色をしていた。世界は、まだこんなにも美しい音で満ちていたのだ。

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