第一章 不協和音の始まり
俺、相馬律(そうま りつ)には、生まれつき奇妙な癖がある。他人の嘘が、見えるのだ。それは比喩ではない。嘘をつく人間の輪郭は、まるで陽炎のように揺らぎ、声は僅かにひび割れたガラスのようなノイズを伴って聞こえる。空間そのものが、その一点を中心にぐにゃりと歪む。幼い頃、サンタクロースはいないのだと告げた両親の姿が初めて歪んで見えた時の衝撃は、今も鼓膜の奥にこびりついている。
音響デザイナーという仕事は、そんな俺にとって天職だった。ミリ秒単位の音のズレや不純なノイズを聞き分ける繊細な聴覚は、この「能力」の副産物かもしれなかった。俺は、純粋で歪みのない音の世界に安らぎを見出し、人間関係の不協和音からは巧みに距離を置いて生きてきた。
そんな俺の世界で、唯一、完璧な調和を奏でる存在がいた。恋人の美咲(みさき)だ。彼女と出会って五年。その間、彼女の姿が歪んだことは一度もなかった。彼女の言葉は、澄み切った湧き水のように俺の心に染み渡り、その存在は、ノイズに満ちた世界で唯一の静寂だった。俺は、この絶対的な信頼の上に成り立つ穏やかな日常を、何よりも愛していた。
その日までは。
冷たい雨がアスファルトを叩く夜だった。帰宅した俺を迎えた美咲の顔は、心なしか青ざめて見えた。テーブルには、俺の好物であるビーフシチューが湯気を立てている。
「おかえり、律。今日は少し疲れちゃったみたいで、病院に寄ってきたの」
「病院? どうかしたのか?」
俺の問いに、彼女は一瞬、目を伏せた。そして、いつものように柔らかな微笑みを浮かべて、俺の目を見つめた。
「ううん、なんてことないわ。ただの貧血だって。大丈夫よ」
その瞬間だった。世界が、軋んだ。
「大丈夫よ」という言葉を発した彼女の輪郭が、ぐにゃり、と大きく歪んだ。肩のラインは液体のように溶け、微笑む口元は不気味に引き伸ばされる。まるで、水面に映った月をかき乱したかのように、そこにいる美咲の存在そのものが、激しいノイズを発しながら崩れていく。俺は息を呑んだ。目の前にいるのは、本当に俺の知っている美咲なのか? 五年間、ただの一度も揺らがなかった、俺の世界の基盤が、今、足元から崩れ落ちる音がした。
第二章 疑惑のクレッシェンド
あの日を境に、俺の世界から調和は消え去った。美咲は、俺の前で絶えず歪み続ける存在になった。
「昨日は友人と食事に」。彼女がそう言うと、背後の壁紙の模様が渦を巻いた。「この前の休みは、一人で映画を観てたの」。言葉と共に、彼女が持つマグカップの縁が波打った。些細な日常会話の一つ一つが、俺には耐え難い不協和音となって突き刺さる。彼女の吐く息さえもが嘘で塗り固められているように感じられ、俺は息苦しさで眩暈を覚えた。
俺は彼女を疑い始めた。あの夜の「大丈夫」という嘘は何だったのか。誰に会っていたのか。何を隠しているのか。疑念は、一度芽生えると、際限なく枝葉を伸ばして俺の心を蝕んでいく。俺は、まるで獲物を追う獣のように、彼女の嘘の痕跡を探し始めた。
ゴミ箱に捨てられていた、見慣れないカフェのレシート。深夜、ベランダでひそひそと誰かと交わされる電話。俺が部屋に入ると、慌ててパソコンの画面を閉じる仕草。すべてが、彼女の裏切りの証拠に思えた。
「最近、どうしたの? 律。なんだか、ずっと私を監視しているみたい」
ある晩、美咲が不安そうな顔で言った。彼女の姿は、その時も醜く歪んでいた。俺は、込み上げる苛立ちを抑えきれなかった。
「監視? 被害妄想じゃないのか。何か、やましいことでもあるのか?」
冷たく突き放す俺の言葉に、美咲は悲しそうに瞳を潤ませた。その表情さえも、俺には歪んだ演技に見えてしまう。かつて、その笑顔一つで救われた心が、今では疑心暗鬼という名の分厚い壁で覆われていた。
俺は自分の能力を呪った。知らなければ、こんな地獄を味わうことはなかった。真実を知る力は、時として人を幸福から最も遠ざける毒なのだ。美咲のいない時間、俺は一人、ヘッドフォンで耳を塞ぎ、完璧に調整された音の世界に逃げ込んだ。だが、目を閉じても、瞼の裏には歪みきった彼女の姿が焼き付いて離れなかった。愛している。その気持ちだけは確かなはずなのに、俺はもう、彼女の何も信じることができなかった。関係は急速に冷え切り、同じ部屋にいても、二人の間には氷のように冷たく、透明な壁が存在していた。
第三章 真実のピアニッシモ
対立は、ある土曜の午後に、突然訪れた。俺は、美咲が隠していた古い木箱を見つけてしまったのだ。クローゼットの奥深く、彼女の思い出の品々と一緒に仕舞われていたそれを、俺は衝動的にこじ開けた。中に入っていたのは、一冊の古びた日記と、数通の封筒だった。
俺が日記を手に取った、その時。背後に美咲の気配がした。
「やめて……!」
悲痛な叫び声だった。振り返ると、そこには今まで見たこともないほど激しく歪んだ美咲が立っていた。それはもはや人の形を保っておらず、おぞましいノイズの塊となって空間を侵食していた。
「これは何だ! 誰とのやり取りだ! いつから俺を騙していたんだ!」
俺は封筒を彼女に突きつけた。怒りと絶望で、声が震える。もう限界だった。この歪んだ世界に終止符を打たなければ、俺の精神が持たない。
美咲は、何も答えなかった。ただ、静かに涙を流しながら、ゆっくりと俺に歩み寄ってくる。そして、俺の手から封筒を抜き取ると、中から一枚の紙を取り出した。
それは、手紙ではなかった。病院のロゴが入った、一枚の検査結果報告書だった。
「……末期、癌。余命、半年」
彼女の唇から紡がれた言葉は、歪んでいなかった。それは、あまりにも明瞭で、残酷な真実の音色をしていた。俺は、紙に書かれた文字を、信じられない思いで目で追った。診断日は、三ヶ月前。あの、雨の夜だった。
「ごめんね。あなたを悲しませたくなかった。最後まで、普通の日々を送りたかったの」
美咲の声は、か細く、しかし澄み切っていた。
「だから、嘘をついた。『大丈夫』だって。あなたを傷つけないための、私の……たった一つの嘘だったの」
その瞬間、俺は悟った。雷に打たれたような衝撃と共に、真実が俺の脳髄を貫いた。
俺の能力は、「他人の嘘」を見ていたのではなかった。
見ていたのは、「俺自身が信じたくない真実」を拒絶する、俺自身の心の歪みだったのだ。
美咲が病気であるという残酷な現実を、俺の心は無意識下で察知していた。そして、その受け入れ難い真実から目を逸らすために、彼女の存在そのものを「嘘」として捻じ曲げ、認識していたのだ。彼女の不審に見えた行動のすべてが、腑に落ちた。隠れて飲んでいた薬。病院からの電話。俺に心配をかけまいとする、痛々しいまでの気遣い。それらすべてを、俺は自分勝手なフィルターを通して「裏切り」の証拠として見ていた。
世界から、ぐにゃり、と音がして、歪みが消えた。
目の前には、ありのままの美咲が立っていた。微笑んではいるが、その顔色は病的に白く、頬は痛々しいほどにこけていた。俺が今まで見ていなかった、見ようとしてこなかった、彼女の本当の姿。俺は、その場に崩れ落ちた。溢れ出す涙で、彼女の姿が今度こそ本当に滲んで見えなくなった。
第四章 愛と追憶のフーガ
俺は、自分の愚かさと醜さを、心の底から悔いた。真実から目を逸らし、最も愛する人を疑い、傷つけた。俺は、美咲を強く抱きしめ、何度も、何度も謝った。美咲は、そんな俺の背中を、弱々しい力で優しく撫でてくれた。
それからの日々は、まるで盗まれた時間を取り戻すかのようだった。俺たちは、残された一分一秒を慈しむように過ごした。俺の目には、もう歪みは映らない。代わりに、日に日に痩せていく彼女の姿と、それでも絶やすことのない気丈な笑顔が、鮮明に焼き付いていった。俺は、自分の心で、目と耳で、彼女のすべてを受け止めることを決めた。
俺たちは、一緒に海へ行った。彼女が好きだったピアニストのコンサートにも足を運んだ。彼女が弾きたがっていたピアノ曲、リストの「ラ・カンパネラ」の楽譜を買い、拙い指で二人で練習した。不器用な俺の演奏に、彼女は鈴が鳴るように笑った。その笑い声は、かつて俺が求めてやまなかった、世界で最も美しい音色だった。
季節が一周するより、少しだけ早く。美咲は、俺の腕の中で静かに眠りについた。
今、俺は一人、彼女のいなくなった部屋で、窓から差し込む夕日を眺めている。部屋には、彼女が好きだった「ラ・カンパネラ」の澄んだピアノの旋律が静かに流れている。その音は、もう決して歪むことはない。
俺の目に映る世界から、歪みは完全に消え去った。それは、俺が真実と向き合う強さを手に入れたからなのかもしれない。あるいは、俺が最も拒絶したかった真実が、もうこの世界からなくなってしまったからなのかもしれない。
答えはわからない。だが、それでいい。
俺は、歪みのないこの世界で、彼女の奏でた真実の音色を胸に抱き、これからも生きていく。窓の外で、世界はただ静かに、美しく、そして少しだけ寂しく、そこに在り続けていた。