後悔の残香

後悔の残香

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第一章 腐臭を纏う女

茅野湊(かやの みなと)の世界は、匂いで構成されていた。調香師である彼にとって、それは天職であると同時に、逃れられない呪いでもあった。彼の鼻は、常人には感知できないはずの感情の機微すら、特有の匂いとして捉えてしまうのだ。中でも最も彼を苛むのが、「後悔」の匂いだった。それは、熟れすぎて腐り落ちた果実と、湿った地下室の土が混じり合ったような、胃の腑を掻き乱す不快な香り。人混みを歩けば、誰もが大小さまざまな後悔の腐臭を放っており、湊は知らず知らずのうちに眉を顰め、人との関わりを避けるようになっていた。

その日、湊がアトリエの扉を開けると、予約していた客が静かにソファに腰掛けていた。水城玲奈(みずき れな)と名乗ったその女性は、まるで上質な白磁のように儚げで、愁いを帯びた瞳が印象的だった。しかし、彼女が立ち上がり、湊の方へ歩み寄った瞬間、彼の全身を強烈な悪寒が襲った。

腐臭。それも、これまで嗅いだことのないほど濃密で、複雑な後悔の匂い。

それは単なる過去への悔恨ではない。死の気配が色濃く絡みついた、魂が根元から腐敗していくような絶望的な香りだった。湊は思わず息を止め、一歩後ずさった。目の前の美しい女性の存在そのものが、彼の嗅覚にとっては暴力だった。

「茅野湊さん、ですね。あなたの作る香水は、記憶を呼び覚ますと伺いました」

玲奈の声は、澄んだ鈴の音のようだった。だが、その声とは裏腹に、彼女の身体からは澱んだ腐臭が絶え間なく立ち上り、アトリエに満ちていく。

「……どのような香りを、お求めで?」

湊はかろうじて平静を装い、尋ねた。カウンター越しに距離を保つ。これ以上彼女に近づけば、吐き気を抑えられそうになかった。

「亡くなった恋人が……好きだった香りを作っていただきたいのです」

玲奈はそう言うと、ふっと目を伏せた。長い睫毛が震え、白い頬に影を落とす。その姿は悲劇のヒロインそのものだったが、湊には彼女の悲しみがまるで上質な演技のように感じられた。なぜなら、本当に深い悲しみは、枯れた草木のような、乾いた寂しい匂いがするものだと彼は知っていたからだ。彼女から漂うのは、命を蝕むほどの、生々しい後悔の匂いだけだった。

「彼の名前は、高遠彰(たかとお あきら)。半年前、事故で……。彼はヴァイオリニストでした。とても才能のある人だったのに……」

言葉を詰まらせる玲奈。湊はガラス瓶が並ぶ棚に目をやりながら、思考を巡らせた。断るべきだ。この女は危険すぎる。関われば、自分の平穏が根こそぎ覆される予感がした。だが、同時に、彼の調香師としての探究心が、そして呪われた嗅覚が、この前代未聞の「後悔の匂い」の正体を突き止めろと囁いていた。なぜ、彼女はこれほどまでの腐臭を放っているのか。彼女の後悔の源泉には、一体何が横たわっているのか。

「お引き受けします」

気づけば、湊はそう答えていた。その瞬間、玲奈の唇の端が微かに緩んだように見えたのは、きっと気のせいではなかった。

第二章 失われた香りの追憶

玲奈の依頼を引き受けた日から、湊の日常は彼女の放つ腐臭に侵食され始めた。週に一度のアトリエでの打ち合わせは、彼にとって拷問に等しい時間だった。玲奈は亡き恋人・高遠彰との思い出を、愛おしそうに語った。初めてのデート、共に聴いた音楽、彼が愛した風景。しかし、彼女が彰の記憶を辿るたびに、後悔の匂いはますますその濃度を増し、アトリEの空気を重く淀ませていった。

「彰さんは、雨上がりの森の匂いが好きでした。湿った土と、濡れた木の葉の匂い。それに……古い楽譜の紙の匂いも」

玲奈が提供する断片的な情報を頼りに、湊は香りの再現を試みた。パチュリ、オークモス、シダーウッドで土と木の基調を作り、そこに古紙を思わせる微かなカビ臭さとインクの香りを再現するため、特殊な合成香料を組み合わせる。しかし、何度試作を重ねても、何かが決定的に欠けていた。それは、香りの核となるべき「彰という人間の本質」だった。

「もう少し、彼自身のことを教えていただけますか。彼の性格、癖、好きだった食べ物……どんな些細なことでも構いません」

ある日の打ち合わせで、湊はそう切り出した。玲奈は一瞬、戸惑ったように目を泳がせた。

「彼は……とても優しい人でした。でも、どこか脆くて……完璧主義者で、自分の演奏に決して満足しない人でした」

その言葉を口にした時、彼女から漂う腐臭の質が微かに変化したことに湊は気づいた。腐った果実の甘ったるい匂いに、金属が錆びるような、鋭い匂いが混じったのだ。それは、偽りに苛まれる者の匂いだった。

湊は、玲奈の言葉だけを頼りにしていては、真実に辿り着けないと悟った。彼は独自に彰の足跡を追い始めた。彰が所属していたオーケストラの同僚に話を聞き、彼がよく通っていたという古書店を訪ねた。同僚たちは口を揃えて彰の才能を賞賛したが、同時に彼の精神的な不安定さについても示唆した。「彼は自分の才能に押し潰されそうだった」と、あるチェリストは語った。

湊は、彰が滑落事故で亡くなったとされる山にも足を運んだ。霧が立ち込める険しい山道。湊は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。雨上がりの森の匂い。玲奈の言った通りだ。だが、それだけではない。ここには、何か別の記憶が染みついている。恐怖、絶望、そして諦観。事故現場とされる崖っぷちに立った時、湊は、自分の能力がただ人を不快にさせる呪いではなく、声なき魂の叫びを掬い上げるためのものなのかもしれない、と初めて感じていた。この場所に残された香りは、単なる事故では説明がつかない、あまりにも濃密な感情の残滓だった。

アトリエに戻った湊は、もう一度、香料の瓶と向き合った。玲奈の嘘。彰の苦悩。事故現場の記憶。それら全てが、彼の頭の中で混じり合い、一つの香りのイメージを結び始めていた。

第三章 不協和音の告白

数週間後、湊はついに一本の香水を完成させた。小さなガラス瓶に詰められた透明な液体は、雨上がりの深い森と、古びた楽譜の知的な香りを完璧に再現していた。だが、それだけではなかった。湊は、最後の仕上げに、ごく微量の、ある香料を加えていた。それは、人の心を落ち着かせる効果を持つと言われる神聖な樹脂、フランキンセンス。彰が抱えていたであろう苦悩と絶望への、湊なりの手向けだった。

玲奈がアトリエに現れると、湊は黙ってその小瓶を差し出した。玲奈はおずおずとそれを受け取り、キャップを開けて香りを確かめる。その瞬間、彼女の時間が止まった。大きく見開かれた瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。

「……彰の、匂い……」

それは、紛れもなく彰の香りだった。彼の優しさ、知性、そしてその奥に隠された深い孤独までをも感じさせる香り。玲奈は香水瓶を胸に抱きしめ、その場に崩れ落ちるように泣きじゃくった。

その時、湊の世界を震撼させる異変が起きた。

玲奈から放たれ続けていた、あの耐え難い後悔の腐臭が、霧が晴れるようにすっと消え失せたのだ。アトリエの空気は浄化され、湊は数ヶ月ぶりに深く呼吸することができた。だが、安堵も束の間、腐臭が消えたその場所から、全く別の種類の、新しい「後悔の匂い」が立ち上り始めた。それは、凍てつく冬の夜気のように鋭く、澄み切った悲しみを湛えた、魂の奥底からの慟哭のような香りだった。

湊がその変化に言葉を失っていると、嗚咽していた玲奈が、顔を上げた。その表情には、もはや何の偽りもなかった。

「私が……私が、彰を殺したの」

その告白は、静かだったが、アトリエの全てを震わせるほどの重みを持っていた。

「あの日、彼はもうヴァイオリンが弾けないと絶望していた。スランプから抜け出せず、自分にはもう価値がないんだって……。そして、私に言ったの。『一緒に死んでほしい』って」

玲奈の目から、再び涙が溢れ出す。

「私は、できなかった。彼を愛していたからこそ、そんなことはできなかった。『生きて』って、彼の手を振り払ってしまった。そしたら……揉み合いになって、彼は崖から……」

湊は、ようやく全てを理解した。彼女が抱えていた後悔の正体を。彼女を苛んでいた腐臭の源を。

彼女の後悔は、「恋人を殺してしまったこと」ではなかった。

「彰の最後の願いを……叶えてあげられなかった……」

それが、彼女の真実の後悔だったのだ。「彼と共に死んであげられなかったこと」への、あまりにも深く、純粋な後悔。湊が作り上げた香水は、彰との幸せな記憶を呼び覚ますことで、彼女を縛り付けていた偽りの後悔(殺してしまった罪悪感)を解き放った。そして、その奥に隠されていた、本当の後悔(共に死ねなかった悲しみ)を白日の下に晒したのだった。

世界は、なんと歪で、哀しい愛の形で満ちているのだろうか。湊は、立ち尽くすしかなかった。

第四章 夜明けの残香

数日後、玲奈は自首した。湊は、警察署から出てくる彼女の姿を、通りの向かい側から静かに見つめていた。護送車に乗り込む彼女は、驚くほど穏やかな表情をしていた。もう、彼女からあの忌まわしい腐臭はしない。ただ、深く、静かで、どこまでも澄んだ悲しみの香りが、風に乗って微かに漂ってくるだけだった。それは、もはや湊を苦しめる匂いではなかった。

湊は、自分の呪われた能力が、初めて人の魂の解放に繋がったことを知った。それは救いと呼ぶにはあまりにも切ない結末だったが、歪んだ後悔に魂を腐らせ続けるよりは、遥かに人間らしい痛みだった。彼は、これまで忌み嫌ってきたこの力を、ほんの少しだけ受け入れることができた。

アトリエに戻り、大きく窓を開け放つ。街の喧騒と共に、様々な匂いが流れ込んできた。排気ガス、焼き立てのパン、雨を予感させる湿ったアスファルトの匂い。そして、その中に混じる、人々の微かな後悔の匂い。しかし、もうそれは彼にとって耐え難い腐臭ではなかった。必死に生きる人々が抱える、傷や過ちの証。それは、彼らが生きている証拠そのものなのだ。一種の、人間らしい「生活臭」のようにすら感じられた。

湊は、空になった試香紙を手に取り、新しい香料の瓶へと手を伸ばした。

玲奈の事件は、彼を変えた。彼はもう、他人の後悔から目を背け、孤独な殻に閉じこもるだけの調香師ではない。匂いの奥にある、人間の弱さ、愚かさ、そしてどうしようもない愛おしさを知ってしまった。

彼が作り始めた新しい香水は、誰かの罪を暴くためのものでも、過去を再現するためのものでもなかった。それは、夜明け前の静けさと、朝露に濡れた若草の匂いをイメージした、ささやかな希望の香り。傷つき、後悔を抱えながらも、それでも明日へ一歩を踏み出そうとする、全ての人々のための香りだった。

外は、いつの間にか夜が明けていた。東の空が白み始め、新しい一日が始まろうとしている。湊のアトリエには、まだ仄かに、玲奈が残していった澄んだ悲しみの残香が漂っていた。それは、彼がこれから生きていく世界で、決して忘れることのない道標となる香りだった。

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