第一章 色のない声
高槻奏(たかつき かなで)の世界は、音で彩られていた。彼女は、音を色として認識する共感覚「色聴」の持ち主だった。降りしきる雨音は無数の青い線となりアスファルトを叩き、街角のカフェから漏れるジャズの音色は、燻んだ紫と黄金色の煙のように揺らめく。その特異な感覚は、彼女を一流のピアノ調律師にしていた。鍵盤を叩けば、弦の震えが純粋な色彩の粒子となって立ち昇る。濁った緑、錆びた赤、淀んだ黄色。奏はそれらを、一点の曇りもない「本来の色」へと調律していくのだ。完璧な和音は、プリズムを透過した光のように、七色のスペクトルを空間に描き出す。
しかし、その繊細すぎる感覚は、彼女を人付き合いから遠ざけていた。人の声もまた、鮮烈な色を伴って彼女の目に映るからだ。お世辞はけばけばしいピンク色に、隠された悪意はコールタールのような黒い染みとなって、言葉の輪郭を歪ませる。色の洪水に疲弊する奏にとって、唯一の安息の地は、恋人である相葉悠人(あいば ゆうと)の隣だった。
彼の声は、奏の世界で最も美しい色をしていた。陽だまりのような、温かく穏やかな橙色。その色は、嘘や偽りで濁ることが決してなかった。彼の発する言葉の一つひとつが、熟した果実のような甘やかさで奏の心を包み込み、ささくれ立った神経を優しく撫でてくれるのだ。
その朝までは。
「奏、おはよう。よく眠れた?」
リビングのテーブルでコーヒーを淹れていた悠人が、柔らかな声で振り返った。その瞬間、奏は息を呑んだ。世界が、凍りついた。いつもの陽だまりの橙色が、どこにも見えなかった。彼の声は、まるで輪郭を失った水のように、ただただ「無色透明」だったのだ。音は聞こえる。しかし、色が、ない。
「……奏?」
怪訝そうな悠人の声が、再び奏の鼓膜を震わせる。やはり、色がない。それは、奏にとって世界の終わりを予感させるほど、恐ろしい出来事だった。奏の世界から、たった一つ、最も大切な色が消え失せてしまったのだ。彼女はかろうじて笑顔を作ると、「うん、おはよう」と答えた。自分の声が、不安で青白く揺らめくのが見えた。
第二章 ひび割れた和音
その日から、奏の苦悩が始まった。悠人の声は、無色のままだった。彼が笑っても、心配してくれても、愛を囁いても、そこに色は生まれなかった。それはまるで、魂の抜け殻から響く空虚な音のようで、奏を苛んだ。
奏は必死だった。何かの間違いだと思いたかった。自分の感覚が一時的におかしくなっただけなのだと。彼女は悠人を思い出の場所に連れ出した。初めてデートした海辺の公園、彼が告白してくれた夜景の見える丘。しかし、潮騒が奏でる藍色と銀色の調べの中で、彼の「綺麗だね」という声は、虚しく透明なままだった。
「最近、疲れてるんじゃないか? 仕事、少し休んだらどうだ」
悠人は奏の異変に気づき、心から心配してくれた。その言葉に棘がないことは、頭では分かっている。だが、色のない声でそう言われると、まるで奏の能力そのものを否定されているような気さえした。見えない壁が、二人の間に少しずつ、しかし確実に築かれていくのを感じた。
影響は、奏の命とも言える仕事にも及び始めた。グランドピアノの前に座っても、かつてのように鮮やかな色の世界が広がらない。すべての音が、どこか色褪せて、くすんで見える。ハンマーが弦を打つ音は鈍い灰色に沈み、倍音のきらめきは弱々しい。調律に迷いが生じ、指が止まる。依頼主からは、「少し音が硬いようだ」と、これまで言われたことのない指摘を受けた。
奏は、悠人の声を聞くのが怖くなっていた。彼の優しさが、無色透明の響きとなって奏の心を抉る。奏は無意識のうちに悠人との会話を避け、ヘッドフォンで耳を塞ぎ、自分の世界に閉じこもるようになった。
「奏、話があるんだ」
ある夜、悠人が真剣な顔で切り出した。彼の声は、やはり無色だった。奏は、その透明な響きに耐えられず、聞きたくない、と衝動的に叫んでいた。
「もう、やめて!」
悠人の顔に浮かんだ深い悲しみと戸惑いの色を、奏は直視することができなかった。
第三章 聞こえない告白
関係は、限界だった。数日間の冷たい沈黙の後、奏は全てを終わらせる覚悟で悠人と向き合った。
「悠人、あなた、変わったわ。あなたの声には、もう何も感じない。まるで、心が空っぽみたい」
色が見えない、という事実を、奏は残酷な言葉に置き換えて突きつけた。自分を守るための、あまりにも身勝手な刃だった。
悠人はしばらく黙って俯き、やがて顔を上げた。彼の瞳は、奏が今まで見たこともないほど、深く揺れていた。
「……そうか。やっぱり、奏には分かってしまうんだな」
彼の声は、相変わらず無色だった。しかしその響きには、諦めと、途方もない哀しみが滲んでいた。
「ごめん。ずっと、言えなかったんだ」
悠人は静かに語り始めた。それは、奏の予想を、彼女が築き上げてきた世界の前提を、根底から破壊する告白だった。
「三ヶ月前、進行性の難聴だって、診断されたんだ」
奏の思考が停止した。難聴? 悠人が?
「最初は耳鳴りだけだった。でも、だんだん高い音から聞こえなくなって……。今はもう、補聴器がないと、人の声もよく聞き取れない」
そう言って彼が耳の後ろを指差すと、そこには肌色に馴染んだ小さな機械が隠されていた。奏は全く気づかなかった。
「君にだけは、知られたくなかった。君は音の世界で生きている人だ。そんな君の隣にいる男の耳が壊れていくなんて……重荷になるだけだと思った」
悠人の声が、震えていた。
「自分の声が、もう自分にははっきりと聞こえないんだ。どんな響きで、どんな声色で話しているのか、自信がない。だから……君の世界から、俺の声の色が消えたんじゃないかな」
彼は、奏の共感覚の本質を、奏自身よりも深く理解していた。奏が見ていた「声の色」は、単なる音波の物理現象ではない。その声に込められた発話者の魂の響き、感情の確信、そのものだったのだ。自分の声を失い、その響きへの確信を失った悠人の声は、奏の世界で色を失ってしまった。それが、真実だった。
「一番怖いのは……いつか、君が調律したピアノの音が、聞こえなくなることだ」
悠人の頬を、一筋の涙が伝った。その瞬間、奏は自分の見ていた世界が、いかに表層的で、独りよがりなものであったかを思い知った。自分は色に囚われるあまり、彼の本当の苦しみ、孤独、恐怖に、全く気づこうともしなかった。彼を避け、傷つけたのは、他の誰でもない自分自身だった。
「ごめん……なさい……」
嗚咽が漏れた。奏の世界から色が消えたのではない。自分が、彼の世界から目を逸らしていただけだったのだ。
第四章 ふたりのためのソナタ
奏は、泣きながら悠人に謝った。悠人は何も言わず、ただ静かに彼女を抱きしめた。その温もりは、どんな鮮やかな色彩よりも、雄弁に彼の赦しと愛情を伝えてくれた。
その日から、二人の関係は新しく始まった。奏は、悠人の「耳」になることを決めた。街を歩けば、車のクラクションの鋭い黄色、小鳥のさえずりの軽やかな水色を言葉にして伝えた。悠人は、そんな奏の話を、愛おしそうに聞いた。
奏は、調律師としての在り方も見つめ直した。色に頼ることをやめた。目を閉じ、全身の感覚を研ぎ澄ます。指先に伝わる弦の微かな振動、ピアノの木材が共鳴する音のうねり、空間を満たす空気の震え。色という視覚情報がなくても、そこには無限に豊かな音の世界が広がっていることを、奏は知った。彼女の調律は、以前にも増して深みと暖かさを増していった。
半年が過ぎた、ある晴れた午後。奏はリビングに置かれたアップライトピアノの前に悠人を招いた。
「あなたのために、調律したの」
それは、奏が特別な調整を施したピアノだった。低音を響かせると、その振動が床を伝わって、足元から全身へと心地よく響き渡るように設計されていた。
奏は鍵盤に指を置くと、静かに弾き始めた。それは、悠人が好きだった、穏やかで優しい旋律のソナタだった。
悠人はソファに深く身を沈め、目を閉じていた。彼の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。奏には、もう彼の声に色は見えない。笑い声も、囁きも、すべてが無色透明のままだ。
しかし、奏はもうそれを恐れてはいなかった。彼の穏やかな表情、繋いだ手の温もり、そして部屋中に満ちるピアノの優しい振動。そのすべてが、奏の心に、かつて見ていた「陽だまりの橙色」よりも、ずっと深く、温かく、豊かな彩りを描いていた。
見えないもの、聞こえないものの中にこそ、真実の響きがある。奏は、愛する人と共に、そのことを学んだ。奏が奏でる音の粒子が、光の粒のようにキラキラと舞い上がる。それはもう奏の目にしか見えない色彩だったが、その輝きは、確かに隣にいる悠人にも届いていると、彼女は確信していた。二人の世界は、言葉も、色も、音さえも超えた場所で、静かに、そして完璧に調和していた。