影の頌歌

影の頌歌

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第一章 影という牢獄

意識が浮上した瞬間、水島蓮(みずしまれん)は自分が地面に張り付いていることに気づいた。いや、違う。感覚がおかしい。手足はあるはずなのに、その感触がない。視界はある。目の前には石畳の道と、見たこともない意匠の建物が並んでいた。しかし、そのすべてが奇妙に平面的で、色褪せて見えた。

「さて、と。腹ごしらえでもするか!」

頭上から、快活な声が降ってきた。蓮が視線を上げようとしても、首は動かない。代わりに、自分の視界のすぐ上に、日に焼けた屈強な脚が見えた。その脚が前に踏み出すと、蓮の視界も滑るように前進する。そこでようやく、彼は自らの置かれた信じがたい状況を理解した。

俺は、影だ。

誰かの足元に伸びる、黒い人影そのものになってしまっている。

パニックが脳を焼く。叫ぼうとしても声帯はなく、暴れようとしても肉体はない。彼にできるのは、この影の「本体」である青年が動くままに、地面を引きずられていくことだけだった。なぜこんなことになったのか、皆目見当もつかない。最後に覚えているのは、残業で疲れ果て、終電間際の駅のホームで眩暈を覚えたことだけだ。

蓮の本体である青年は、カイと名乗った。露店の店主との会話でそう聞こえた。カイは赤茶色の髪を無造作に束ね、革の鎧を身に着けた、いかにも冒険者といった風体の男だった。彼は大きな串焼き肉を買い、豪快にかぶりつきながら広場を歩く。その咀嚼音や、街の喧騒、香ばしい肉の匂いまでもが、蓮には希薄な情報としてしか届かない。まるで、分厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだった。

「なあ、あんた。『静寂の遺跡』の場所、知らないか? 失われた王家の紋章が眠ってるって噂の」

カイが通行人に尋ねる。蓮は、その言葉に既視感を覚えた。ファンタジー小説で使い古された、ありきたりな設定。だが、今の彼にとっては、それが恐ろしい現実だった。

現実世界での蓮は、いつも誰かの顔色を窺って生きてきた。会議で意見を求められても当たり障りのないことしか言えず、友人に誘われれば気乗りしなくても笑顔で頷く。自分の意志を表明することが、極端に苦手だった。存在感が希薄で、同僚からは「水島って、いるかいないか分からないよな。影みたいだ」と揶揄されたことさえある。

その言葉が、呪いのように突き刺さる。本当に、影になってしまった。誰かの付属品として、その意志に従うだけの存在に。これ以上ないほどの皮肉だった。

カイが歩けば、蓮も歩く。カイが止まれば、蓮も止まる。カイが手を振れば、蓮の腕も空を切る。完全なる追従。それは、蓮が現実で無意識に続けてきた生き方そのものであり、今や抜け出すことのできない物理的な牢獄となっていた。

陽が傾き、カイの影が長く伸びていく。蓮の意識も、その黒い輪郭と共に引き伸ばされるような奇妙な感覚に襲われる。カイが宿屋に入り、ランプに火を灯すと、壁に映る影はより一層濃く、大きく揺らめいた。

部屋に一人(と、一つの影)になったカイは、懐から古びたペンダントを取り出した。中には、病に伏せる少女の肖像がはめ込まれている。その顔を見つめるカイの横顔は、昼間の快活さとは裏腹に、悲痛な色を帯びていた。

その感情が、なぜか蓮の意識に流れ込んでくる。切なさ、焦り、そして深い愛情。他人の感情が、まるで自分のもののように胸を満たす。カイがそっとペンダントを握りしめると、蓮もまた、存在しないはずの胸が締め付けられるのを感じた。

俺は、この男の旅を、ただ見ていることしかできないのか。この感情を共有しながら、何もできずに。絶望が、影の輪郭をさらに暗く染めていくようだった。

第二章 共有される孤独

カイとの奇妙な共同生活が始まって、幾日経っただろうか。蓮はもはや時間の感覚さえ失いかけていた。カイが朝を迎えれば蓮の意識も覚醒し、カイが眠りに落ちれば蓮の意識も闇に沈む。カイの旅は、ひたすら「静寂の遺跡」を目指すものだった。

その道中は、決して平坦ではなかった。牙を剥く森の獣、道を塞ぐ狡猾なゴブリン。カイは手にした剣で、それらを次々と打ち払っていく。そのたびに、蓮は無力感に苛まれた。カイが傷を負い、苦痛に顔を歪めると、その痛みが幻のように蓮にも伝わってくる。何かしたい。助けになりたい。だが、影にできることなど何もない。手を伸ばせば空を掴み、叫んでも音にはならない。

しかし、蓮は少しずつ変化し始めていた。最初はカイの見るもの、聞くもの、感じるものすべてが他人事だった。だが、彼の感情や記憶の断片が流れ込んでくるうちに、蓮の中でカイという人間の輪郭がはっきりとしてきたのだ。

ペンダントの少女は、カイの妹・リナだった。原因不明の病で日に日に衰弱しており、王家の紋章に秘められた「奇跡の力」だけが唯一の希望なのだという。カイの無鉄砲とも思える行動力は、妹を救いたいという一心から来るものだった。彼は孤独だった。たった一人で、絶望的な希望にすがりついていた。

その孤独は、蓮が現実世界で感じていたものとよく似ていた。人に囲まれていても、誰にも本当の自分を理解されていないと感じる、あの冷たい孤独。カイの強さの裏にある弱さを知った時、蓮は初めて、彼に対して仲間意識のようなものを抱いた。

ある夜、二人は洞窟で野宿をしていた。焚き火の炎が壁に影を揺らす。カイはいつものようにリナのペンダントを眺めていたが、その瞳はひどく疲れていた。

「……間に合うんだろうか」

ぽつりと漏れた弱音は、風に溶けて消えた。だが、それは確かに蓮の心に届いた。その瞬間、蓮は無意識に、強く念じていた。

――大丈夫だ。お前なら、きっとできる。

もちろん、声にはならない。だが、その時、奇妙なことが起こった。カイが、ふと自分の影に視線を落としたのだ。そして、怪訝な顔で首を傾げた。

「……気のせいか。今、誰かに励まされたような気がした」

蓮の心臓が、もしあれば、激しく高鳴っていたことだろう。気のせいかもしれない。偶然かもしれない。だが、もしかしたら。ほんの少しだけ、俺の意志が彼に届いたのではないか。

その日から、蓮はカイが苦境に陥るたびに、強く念じるようになった。「右だ!」「避けろ!」「そこだ、斬りかかれ!」。それは祈りに近い行為だった。彼の思考がカイに直接届くことはなかったが、カイは時折「なんだか勘が冴えるな」と呟きながら、以前よりも巧みに危機を切り抜けるようになっていった。

蓮は、自分がカイの「お守り」にでもなったような気分だった。影として存在することの無力感は変わらない。だが、ほんの少しだけ、自分の存在に意味を見出せるようになっていた。カイの孤独を共有し、その背中を内側から支える。それは、蓮にとって初めての経験だった。

誰かのために、これほど必死になったことはない。影である自分にも、まだ出来ることがあるのかもしれない。淡い希望が、蓮の暗い世界に、小さな灯火をともし始めた。

第三章 意志の輪郭

「静寂の遺跡」は、その名の通り、不気味なほど静かな場所に聳え立っていた。風の音すらも吸い込んでしまうような、巨大な石の建造物。その入り口で、カイは息を呑んだ。長かった旅の終着点が、目の前にあった。

遺跡の内部は、迷宮のように入り組んでいた。罠や仕掛けが、侵入者を拒む。カイは慎重に歩を進めるが、彼の焦りは、その判断を少しずつ鈍らせていた。そして、最深部の広間と思われる場所にたどり着いた時、それは現れた。

影。ただ、それは普通の影ではなかった。闇そのものが凝縮したような、不定形の塊。それは壁や床を滑り、不気味な音もなくカイに迫ってきた。「影喰らい」と呼ばれる、古の魔物だった。

影喰らいは、生物の影を喰らうことでその生命力を奪う。カイは剣を構えるが、物理的な攻撃は黒い靄を切り裂くだけで、何の効果もない。逆に、影喰らいの触手が伸び、カイの足元の影――蓮に触れようとした。

その瞬間、蓮はこれまでに感じたことのない恐怖に襲われた。存在が根こそぎ消し去られてしまうような、根源的な恐怖。カイは必死に身をかわし、蓮を守ろうとする。自分の身を盾にしてでも、自分の影が喰われないように立ち回る。

なぜだ。なぜ影なんかを。お前自身が危ないんだぞ!

蓮は心の中で叫んだ。カイにとって、影はただの影のはずだ。それなのに、彼は本能的に「影を失うこと=死」だと感じているようだった。

影喰らいの猛攻は続く。カイはついに壁際に追い詰められ、その肩を魔物の触手が掠めた。彼の動きが、目に見えて鈍くなる。生命力が吸い取られているのだ。

もう駄目だ。

蓮が諦めかけた、その時だった。カイの悲痛な表情と、脳裏に浮かんだリナの泣き顔が重なった。嫌だ。こんなところで、終わらせてたまるか。

現実世界で、蓮はいつも諦めてきた。自分の意見を言うことも、誰かのために本気で行動することも。だが、今は違う。カイの孤独を知っている。彼の願いを知っている。俺は、もうただの傍観者じゃない!

――動けッ!

蓮は、全存在を懸けて念じた。それはもはや祈りではなかった。明確な意志であり、命令だった。すると、信じられないことが起きた。

カイの足元から、蓮の影が、まるで実体を持つかのようにスッと剥がれ落ちたのだ。黒い人型は、影喰らいとカイの間に立ちはだかる。カイが驚きに目を見開く。

「お前の相手は、俺だ」

声は出ない。だが、蓮の強い意志が、影の輪郭をかつてなく明確にしていた。影喰らいは標的をカイから蓮へと変え、猛然と襲い掛かってきた。実体のない蓮の影は、その攻撃をすり抜ける。そして、一瞬の隙を作り出した。

その隙を、カイは見逃さなかった。彼は最後の力を振り絞り、剣を構える。しかし、どこを狙えばいいのか分からない。

――奴の中心にある、少しだけ色が薄い部分だ! そこが核だ!

蓮は、カイの思考に直接語りかけるように念じた。すると、カイはハッとした顔で頷き、寸分違わず影喰らいの核を剣で貫いた。魔物は甲高い悲鳴のようなものを上げ、霧散していく。

静寂が戻った広間に、荒い息遣いだけが響く。カイはへたり込み、自分の足元に再び一体化した影と、手の中の剣を交互に見た。

「……今のは、一体……」

その時、広間の奥から、杖をついた一人の老婆が姿を現した。「よくぞ影喰らいを退けました、旅人よ。そして……『異界の意志』よ」

老婆は、カイではなく、その足元の蓮に向かって語りかけた。

「この世界の人間は、『魂(たましい)』たる肉体と、『意志』たる影が対となって存在する。お主のような異界からの迷い人は、肉体を失い、『意志』だけがこの世界に流れ着く。そして、縁ある者の影となるのじゃ」

老婆の言葉に、蓮は衝撃を受けた。俺は、ただの影ではなかった。意志そのものだったのか。

「カイよ。お主が探している王家の紋章とは、物質ではない。魂と意志が完全に共鳴し、互いを高め合った時にのみ現れる『覚醒の証』。それこそが、あらゆる病を癒し、奇跡を起こす力そのものなのじゃよ」

老婆は続けた。「お主の妹君の病も、その『意志』が極端に弱まっていることが原因。お主たちが成すべきは、二つの心、魂と意志を完全に一つにすることじゃ」

カイは、自分の影を、初めて見るもののように見つめた。そこには、ずっと自分と共にあり、自分を支えてくれていた、もう一人の仲間がいたのだ。

第四章 ふたりの頌歌

老婆の言葉は、蓮とカイの関係を根底から変えた。蓮はもはや無力な付属物ではなく、カイを導き、守るべき「意志」。カイもまた、自分の影を単なる影としてではなく、かけがえのない相棒として認識するようになった。

「なあ……聞こえるか?」

カイが、自分の影に向かって語りかける。蓮は、カイの心に直接響かせるように、強く念じた。

――ああ、聞こえる。ずっと、お前のそばにいた。

カイの顔が、驚きと喜びで輝いた。「やっぱり、お前だったんだな。何度も助けてくれた。ありがとう」

言葉はなくても、感謝の念は温かい光のように蓮に伝わってきた。現実世界で誰からも認められていると感じられなかった蓮にとって、それは何よりの報酬だった。彼は、自分の存在価値を、この異世界で見つけたのだ。

だが、試練は終わっていなかった。倒したはずの影喰らいは、遺跡全体の闇を吸収し、さらに巨大な個体となって復活した。広間全体を覆い尽くすほどの絶望的な大きさに、カイは息を呑む。

「どうすれば……」

――一人で戦うな、カイ。俺たちがいる。

蓮の意志が、カイを鼓舞する。

――俺は、お前の動きを完璧にサポートできる。現実世界で、俺はずっと他人の顔色を窺い、相手の次の行動を予測して生きてきた。それが、俺の唯一の特技だったんだ。皮肉だよな。でも、今ならそれが武器になる!

蓮の覚悟が、カイに流れ込む。カイは頷き、剣を固く握りしめた。

「行こう、相棒!」

戦いが始まった。巨大な影喰らいが無数の触手を繰り出す。しかし、カイはまるで未来が見えているかのように、そのすべてを最小限の動きでかわしていく。蓮の「予測」が、カイの「直感」と完全にシンクロしていたのだ。

右へ三歩。屈め。次は左から来る、跳べ!

蓮の意志がカイを導き、カイの肉体がそれを体現する。影と本体。二つの存在が、まるで一つの生き物のように舞い、影喰らいを翻弄した。それは、ただの戦闘ではなく、二つの魂が奏でる協奏曲(コンチェルト)のようだった。

そして、ついに決定的な瞬間が訪れる。影喰らいが全ての闇を凝縮させ、最大の一撃を放とうとした。

――カイ! 今だ! 俺の全てをお前に託す!

蓮は、自らの「意志」という存在の全てを燃やし、光の奔流となってカイに注ぎ込んだ。カイの全身が、まばゆい光に包まれる。その胸に、太陽と月を象ったような紋章が輝きを放った。

「うぉぉぉぉぉっ!」

覚醒したカイが放った一閃は、闇を切り裂く曙光となり、巨大な影喰らいを跡形もなく消滅させた。

静寂が戻った遺跡の中で、カイの胸の紋章は、穏やかな光を放ち続けていた。だが、蓮の意識は急速に薄れていくのを感じていた。彼は自分の役目を終えたのだ。

――カイ……妹さんを……。

「蓮!」カイが叫ぶ。「消えないでくれ!」

――これでいいんだ。俺は、お前の中で生き続ける。お前の影として、これからもずっと一緒だ。初めてだよ。自分の意志で、誰かのために何かを成し遂げられたのは……。ありがとう、カイ。俺に、生きる意味をくれて。

蓮の意識は、穏やかな満足感に包まれながら、ゆっくりとカイの影の中へと溶け込んでいった。それは消滅ではなかった。完全なる融合だった。

数日後。カイは故郷の村に戻り、病に伏せる妹リナの手を握った。胸に宿した紋章の光を彼女に注ぐと、リナの顔に血の気が戻り、穏やかな寝息を立て始めた。奇跡は、確かに起きたのだ。

カイは窓の外に広がる夕焼けを眺めた。地面には、彼の影が長く、濃く伸びている。それはもはや、ただ光を遮ることで生まれる黒い像ではなかった。

友の魂が宿る、温かい場所。

カイは自分の影に向かって、そっと微笑みかけた。

「これからもよろしくな、蓮」

影が、それに応えるように、わずかに揺らめいたように見えた。誰かの影のように生きてきた青年は、異世界で本当の影となり、誰かを照らす光を生み出した。その感動的な物語は、誰に語られることもない、二人だけの頌歌として、永遠に刻まれたのだった。

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