色なき森の記憶

色なき森の記憶

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第一章 忘れられた約束

水無月湊の世界は、埃と古い紙の匂いで満たされていた。市立図書館の古書係という仕事は、彼にとって天職であり、同時に現実から身を隠すための心地よいシェルターでもあった。人々が読み捨て、忘れ去った物語の墓場で、彼は静かに息をしていた。

三年前、最愛の妹・雫を病で失ってから、湊の世界から鮮やかな色は抜け落ちてしまった。快活で、夢見がちだった妹。彼女が病室のベッドで語って聞かせた空想の物語を、湊はただ黙って聞いていた。特に彼女がお気に入りだったのは、「色なき森」の話だ。そこはすべての色が失われた、静寂の世界なのだという。

「お兄ちゃん、いつか一緒に行こうね」

その約束は、果たされることなく宙に浮いている。

その日、湊は寄贈された古書の整理をしていた。埃をかぶった段ボールの底から、一冊の小さな手帳が転がり出た。革張りの古びた表紙。何気なく手に取り、開いた瞬間、湊は息を呑んだ。そこに並んでいたのは、紛れもなく妹・雫の、少し癖のある丸い文字だった。

『色なき森への道しるべ』

ページをめくる指が震える。そこには、子供の悪戯書きのような、しかし妙に真に迫った手順が記されていた。「満月の夜に、一番古い鏡の前で」「銀の葉を燃やし、忘れたい記憶の名を三度唱える」……。馬鹿げている、と頭では分かっている。だが、湊の心臓は激しく波打っていた。

手帳の最後のページ。そこには、インクが滲んだ、たった一行の言葉があった。

『お兄ちゃん、待ってる』

その言葉は、静かな湊の世界を根底から揺さぶる呪文だった。雫が本当に、あの空想の世界で自分を待っているというのか? 荒唐無稽な妄想だと切り捨てられないのは、この手帳が放つ、抗いがたい引力のせいだった。湊は、まるで何かに憑かれたように、その夜、手帳に書かれた通りに行動することを決意した。

満月が、書庫の天窓から青白い光を投げかけている。湊は収蔵庫の奥に眠っていた、曇った姿見の前に立った。雫が好きだった銀杏の葉をライターで炙ると、ぱちぱちと音を立てて青い炎が上がった。そして、彼は囁いた。忘れたい記憶の名を。

「雫……雫……雫……」

その瞬間、鏡の表面が水面のように揺らぎ、彼の姿を歪ませた。視界が白く染まり、古い紙の匂いが遠ざかっていく。最後に感じたのは、ひどく冷たい、ガラスに触れたような感触だった。

第二章 静寂の案内人

気がつくと、湊は森の中に立っていた。

しかし、それは彼の知るどんな森とも違っていた。木々の幹は墨で描かれたように黒く、葉はまるで薄いガラス細工のようで、光を鈍く反射している。地面に敷き詰められた苔も、空に浮かぶ雲も、すべてが濃淡の異なる灰色で構成されていた。音がない。風のそよぎも、鳥のさえずりも、虫の羽音すら聞こえない。世界から音が消え失せたかのような、完璧な静寂が支配していた。

ここが、雫の語った「色なき森」……。

現実感が希薄な光景に立ち尽くす湊の背後で、不意に声がした。

「迷子かい?」

振り返ると、そこに少年が立っていた。湊と同じくらいの背丈に見えるが、その顔立ちはまだ幼さを残している。彼もまた、この森の景色と同じように色彩を持たなかった。灰色の髪に、濃淡だけで描かれたような瞳。

「君は……?」

「僕はカイ。この森の案内人みたいなものさ」

カイと名乗る少年は、感情の読めない瞳で湊を見つめた。「君も何かを探しに来たんだろう? この森に来る人は、みんなそうだ。失くしたものや、忘れたいものを探しに来る」

「妹を探しているんだ。雫というんだが、知らないか?」

カイは小さく首を振った。「名前は意味をなさない。ここは忘却の森。長くいると、自分の名前さえ曖昧になっていく。探しているものの形も、声も、温もりも、全部色褪せて、最後には何を探していたのかさえ忘れてしまうんだ」

その言葉に、湊は背筋に冷たいものが走るのを感じた。カイの案内で、湊は森の奥へと歩を進めた。水晶でできた川が音もなく流れ、光を屈折させて鈍い虹色の幻影を揺らめかせている。すべてが雫の語った通りの光景だった。だが、美しいと感じるよりも先に、心が凍りつくような寂寥感が胸に広がった。

数日が過ぎた頃、湊はカイの警告が真実であることを悟り始めた。雫の笑顔を思い出そうとしても、霧がかかったようにぼやけてしまう。彼女の好きだった歌のメロディーが、指の間からすり抜ける砂のように思い出せない。焦りが募る。このままでは、雫に会えたとしても、彼女が誰なのか分からなくなってしまうかもしれない。

「どうして、君はずっとここにいるんだ?」湊はカイに尋ねた。

「僕は、最初からここにいるから」カイはこともなげに答える。「僕には、帰る場所なんてないんだ」

その横顔は、千年も万年も同じ場所に佇んでいる石像のように、ひどく孤独に見えた。

第三章 記憶の大樹

森の中心には、天を衝くほど巨大な一本の樹が聳え立っていた。カイはそれを「記憶の大樹」と呼んだ。その枝という枝には、水滴のような形をした無数の結晶が、鈴なりにぶら下がっている。

「森に迷い込んだ者たちが失くした記憶のかけらさ。時々、自分の記憶を見つけて、元の世界に帰っていく者もいる。でも、ほとんどは自分の記憶さえ見つけられずに、この森の一部になる」

湊は、まるで啓示を受けたかのように、その大樹に向かって走り出した。雫の記憶が、この中にあるはずだ。彼は無我夢中で、ガラスの葉を踏みしめ、結晶の一つ一つを覗き込んでいった。他人の幸福、他人の絶望、他人の愛。無数の人生が、走馬灯のように彼の目の前を通り過ぎていく。だが、雫の記憶だけが見つからない。

諦めかけたその時、ふと一つの結晶が彼の目に留まった。何の変哲もない、小さな結晶。吸い寄せられるようにそれを手に取ると、光が溢れ出し、湊の意識を包み込んだ。

——そこは、病院の一室だった。ベッドに横たわる幼い妹。そして、その傍らには、まだ少年だった頃の自分がいた。

『ねえ、お兄ちゃん。また、あのお話して』

『いいよ。……昔々、あるところに、すべての色が失われた、静かな森がありました。その森の木々の葉はガラスでできていて、風が吹くと、チリンチリンって、綺麗な音が鳴るんだ』

それは、紛れもなく自分の声だった。自分が、病気で外に出られない妹を元気づけるために、必死に紡いだ物語。そうだ、「色なき森」は、雫の空想なんかじゃなかった。僕が……僕が、創り出した世界だったんだ。

衝撃の事実と共に、封じ込めていた記憶が奔流のように蘇る。妹を失った悲しみに耐えきれず、僕はその事実を記憶の奥底に沈めた。そして、いつしか「妹が夢見た世界」だと、自分の記憶を書き換えてしまっていたのだ。この森は、僕自身の巨大な喪失感が創り出した、心の牢獄だった。

「……思い出したんだね」

声に振り返ると、カイの輪郭が陽炎のように揺らいでいた。彼の灰色の瞳が、初めてはっきりとした感情を映している。それは、深い、深い悲しみだった。

「やっと、分かったかい? 僕が、誰なのか」

カイの姿が、徐々に幼い頃の自分自身の姿へと重なっていく。そうだ、この少年は……。妹を失った悲しみから逃れるために、僕が切り離した、物語を創る力そのもの。そして、涙を流すことさえ忘れてしまった、僕の純粋な悲しみの化身だった。

「僕を、見つけに来てくれたんだね」カイは、泣き出しそうな顔で笑った。「でも、君がここから出て行ったら、僕はまた一人になる。いや、今度こそ、本当に消えてしまうかもしれない」

彼の言葉が、楔のように湊の胸に突き刺さる。この悲しみの象徴であるカイと共に、永遠に色なき森に留まるか。それとも、彼をここに置き去りにして、独りで現実に戻るか。究極の選択が、静寂の世界に重くのしかかった。

第四章 君の名を呼ぶ声

湊は、震えるカイに向かって、ゆっくりと歩み寄った。そして、その小さな肩を、壊れ物を扱うように、そっと抱きしめた。冷たいと思っていたカイの身体は、微かに温かかった。それは、紛れもなく自分自身の温もりだった。

「一人にはしない」湊は、自分の悲しみに語りかけるように言った。「君は、僕の一部だ。忘れたりしない。君が創ってくれたこの森も、僕が創ったこの森のことも、決して忘れはしない。でも、僕は帰らなくてはならないんだ。雫と、約束したから」

最後の約束。それは死の間際、か細い声で雫が遺した言葉だった。

『お兄ちゃんの物語、大好きだよ。だから……私の分まで、たくさんの物語を……生きてね』

僕は、妹の死を悲しむあまり、一番大切な約束を忘れかけていた。物語を生きる、ということ。それは、ただ本を読むことじゃない。自分の足で立ち、自分の心で感じ、自分の言葉で世界を紡いでいくことだ。

湊が固く決意した瞬間、奇跡が起こった。

色なき森に、初めて「色」が灯ったのだ。カイの瞳から零れ落ちた一粒の涙が、灰色の地面に吸い込まれると、そこから鮮やかな青い花が芽吹いた。勿忘草だった。それを皮切りに、世界は爆発的に色彩を取り戻していく。墨色だった幹は温かい茶色に、ガラスの葉は目に眩しいほどの新緑に。水晶の川は、空の青を映してきらきらと輝き始めた。風が吹き、木々がざわめき、鳥の歌声が響き渡る。

「……綺麗だ」カイが、生まれて初めて色を見た子供のように呟いた。その姿は、もう湊の幼い頃の幻影ではなく、一人の独立した少年に見えた。

「さようなら、僕の悲しみ。そして、ありがとう、僕の物語」

湊がそう言うと、カイは満足そうに微笑み、光の粒子となって風に溶けていった。世界が真っ白な光に包まれ、湊の意識は急速に現実へと引き戻されていった。

目を覚ますと、そこは図書館の書庫だった。天窓から差し込む夕焼けの光が、部屋中を茜色に染め上げている。今まで何度も見てきたはずの光景が、信じられないほど鮮やかで、美しく見えた。

彼の右手には、一冊の古い手帳と、まるで今しがた摘んできたかのような、瑞々しい一輪の青い勿忘草が握られていた。

湊は、もう喪失感から目を背けるだけの男ではなかった。悲しみを否定するのではなく、それも自分の一部として抱きしめ、共に生きていく強さを手に入れたのだ。

自席に戻った彼は、引き出しから真新しいノートを取り出した。そして、万年筆のキャップを外し、最初のページにインクを走らせる。

『第一章 色なき森の少年』

異世界は消えたのではない。彼の心の中で、永遠に生き続ける物語となったのだ。喪失を乗り越えるのではなく、喪失と共に新しい物語を紡いでいくこと。それこそが、人間だけが持つ、ささやかで、そして偉大な魔法なのかもしれない。窓の外では、夜の帳が下り始めていた。その深い青は、湊に、あの森で最後に見た勿忘草の色を思い出させた。

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