第一章 浮遊する解放
目が覚めたとき、俺、水島蓮は宙に浮いていた。
天井ではない。どこまでも続く、淡い乳白色の空がそこにあった。体を預けていたのは雲よりも柔らかな何かで、ゆっくりと身を起こすと、視界のすべてが非現実的な光景に支配された。巨大な水晶のような塔が空に向かって伸び、その周りを、人々が大小さまざまな高度で漂っている。ゆったりと泳ぐ魚のように、あるいは風に舞う綿毛のように。
驚くべきことに、自分の体も地面から三十センチほど浮き上がっていた。足をばたつかせても、地面に敷き詰められた苔むした石畳に爪先は届かない。パニックになるべき状況のはずなのに、心は奇妙なほど凪いでいた。むしろ、この体が重力から解放されたかのような浮遊感は、心地よくさえあった。
「忘れたい」
ここに来る前、俺はそう願っていた。大学の帰り道、横断歩道でスマートフォンから顔を上げなかった俺の目の前で、親友の拓也がトラックにはねられた。俺が呼び止めていなければ。あの時、くだらないメッセージに気を取られていなければ。後悔の念は鉛のように俺の心に沈殿し、日常のすべてを灰色に染め上げた。眠れない夜、食事の味さえしない日々。いっそ、すべて忘れてしまえたら、どれほど楽だろうか。
ふと、頭の中に靄がかかっていることに気づく。拓也の顔、声、最後に交わした会話。それらの輪郭が、少しだけぼやけている。その忘却の実感と、この体の軽さは、間違いなく繋がっているように思えた。
忘れることができる。この世界では、それが可能なのかもしれない。
俺はゆっくりと手足を動かし、漂う感覚を確かめる。少し前へ進もうと意識すると、体はゆるやかに前進した。街並みは古風で、石造りの建物には鮮やかな蔦が絡みついている。俺と同じように宙に浮かぶ者もいれば、地面にしっかりと足をつけ、重々しい足取りで歩く者もいる。彼らの表情は一様に険しく、その瞳には深い苦悩の色が滲んでいた。なぜ彼らは飛べないのだろう? 不思議に思ったが、その時の俺にとって、それは些細な疑問でしかなかった。
忘却が進むにつれて、俺の体はさらに軽くなっていった。一メートル、二メートルと高度が上がる。見下ろす街並みは美しく、地上の人々の苦悶の表情も遠ざかっていく。解放だ、と俺は思った。俺を縛り付けていた重い鎖が、一つ、また一つと断ち切られていくような感覚。拓也の記憶が薄れることは悲しいはずなのに、それ以上に、苦しみから逃れられる安堵が勝っていた。このまま高く、もっと高く。何もかもを忘れ去り、この空に溶けてしまえたなら――。そんな倒錯した願望が、俺の心を支配し始めていた。
第二章 重石屋の老婆
「そこの若いの。あまり高くに行きすぎると、もう還れなくなるよ」
しゃがれた、しかし芯のある声に呼び止められ、俺はふわりと振り返った。路地の奥、古びた店の軒先で、一人の老婆が小さな椅子に腰かけていた。その手には奇妙なほど滑らかな石が握られている。老婆の足は、まるで地面に根を張ったかのように、石畳にぴたりと吸い付いていた。
「還れなくなる?」
「ああ。忘れすぎた者は、やがてこの空の果て、——『虚無』に吸い込まれて消えてしまう。そうなったらお終いさ。あんた、ずいぶんといい浮きっぷりだ。よっぽど辛いことを忘れたいとみえる」
老婆は俺の体と、その背後にある空を交互に見ながら言った。彼女の店には「重石屋」と古風な看板が掲げられており、店内には様々な色と形の石が棚にずらりと並んでいた。どれも、静かな光を内に秘めているように見える。
俺は誘われるように高度を下げ、店の前まで漂っていった。
「ここは…一体どういう場所なんですか? なぜ記憶を忘れると体が軽くなるんです?」
「ここは『忘却の都』。忘れられた者と、忘れたい者が行き着く、世界の狭間さ。この世界ではね、記憶には重さがあるんだよ。思い出の一つ一つが、魂をこの地に繋ぎとめる錨なのさ。楽しい記憶は軽く、辛く悲しい記憶は重い。だが、どんな記憶だろうと、失えば失うほど魂は軽くなり、浮き上がっていく」
老婆は店内の棚を指差した。「あれは『記憶石』。人々が消えてしまわないよう、どうしても失いたくない記憶を預かるのがあたしの仕事さ。石に記憶を移せば、その分だけは重しになる。だが、あんたみたいに忘れることばかりを望む者は、やがて自分という輪郭さえ失ってしまう」
その言葉は、俺の胸に小さな棘のように突き刺さった。解放だと思っていた浮遊は、ただの消滅への序曲に過ぎなかったのか。俺は自分の手のひらを見つめた。以前より、少し透けているような気がした。
「でも、忘れたいんです。思い出すたびに、胸が張り裂けそうになる記憶がある。それを抱えて生きていくなんて、俺には…」
「そうかい」老婆は静かに頷いた。「忘れることは逃避だが、時にはそれが必要なこともあるだろう。だがね、若いの。重い記憶というのは、あんたが確かに生きてきた証でもある。その重さから逃げた先にあるのは、安らぎじゃない。ただの無だ」
老婆は立ち上がり、棚からひときゆは鈍く光る黒い石を取り出した。「これは、百年前にここで消えた男の最後の記憶石さ。彼は最愛の妻を亡くした悲しみを忘れようとした。忘れ、忘れ、体が浮き上がり、妻の顔さえ思い出せなくなった時、彼は初めて気づいたのさ。悲しみと共に、妻を愛した喜びや、共に過ごした温かい時間まで、すべてを失ってしまったことに。彼は泣きながら消えていったよ。妻の名を、もう思い出せない声で呼びながらね」
その話を聞いて、俺の心臓は冷たい手で掴まれたように軋んだ。忘れることは、失うこと。拓也を忘れることは、彼と過ごした時間、交わした言葉、笑い合った日々、そのすべてを俺の世界から消し去ることなのだ。本当に、それでいいのか? 俺が求めていたのは、本当にそんな空っぽの救済だったのか?
俺の体は、いつの間にか地面すれすれまで高度を下げていた。ほんの少しだけ、重くなった気がした。
第三章 空に消える面影
老婆の店を後にしてから、俺は漫然と街を漂っていた。心には迷いが生まれていた。忘れたいという気持ちと、失いたくないという気持ちがせめぎ合い、体の浮力は不安定に揺らいだ。
ふと、空を見上げた。遥か上空、雲の切れ間に、ほとんど輪郭が薄れて消えかかった人影がいくつか漂っている。虚無に吸い込まれる寸前の、魂の残滓。彼らもかつては俺と同じように、何かを忘れたいと願ったのだろうか。
その中の一つに、俺は釘付けになった。
見間違いのはずがない。シルエット、髪型、そして、微かに残る気配。それは、俺が忘れたいと願いながらも、心のどこかで決して忘れることのできなかった親友、拓也の姿だった。
「…拓也?」
声はかき消えそうなほどか細かった。なぜだ。なぜ拓也がここにいる? 彼は死んだはずだ。この世界は「忘れたい者」が行き着く場所のはずじゃ…
俺は必死に高度を上げようとした。だが、先ほど芽生えた迷いが記憶の重しになったのか、体は思うように浮き上がらない。焦りが全身を駆け巡る。
その時、背後から老婆の声がした。「思い出したかい」
いつの間にか、老婆が俺の隣に立っていた。彼女の表情は、すべてを見通すかのように静かだった。
「若いの、言ったろう。ここは『忘れられた者』と『忘れたい者』が行き着く場所だと」
老婆の言葉が、雷のように俺の脳天を撃ち抜いた。
「忘れられた者…? まさか…」
「そうさ。あんたが彼を忘れようとすればするほど、彼はこの世界で忘れられた存在として、その身を失っていく。あんたが彼に関する記憶を完全に手放した時、彼は空の果てで完全に消滅する。逆もまた然り。もし彼があんたのことを忘れれば、あんたもまた消える定めさ。二人は互いの記憶によって、かろうじてここに存在しているに過ぎない」
絶望が、俺の全身を叩きのめした。俺が求めていた「忘却」という名の解放は、拓也をこの異世界で、二度目の死に追いやる行為そのものだったのだ。俺は拓也の死から逃れるために、拓也自身をこの手で消そうとしていた。なんという身勝手で、残酷なことを。
「そんな…そんなことって…」
涙が溢れて止まらなかった。後悔が、今度は鉛どころではない、星を砕くほどの質量をもって俺の魂にのしかかってきた。俺の体は急速に重さを増し、ドスン、という鈍い音を立てて、初めてこの世界の地面に足をついた。膝から崩れ落ち、俺は石畳に額をこすりつけた。
「拓也…ごめん…ごめん…っ!」
謝罪の言葉は誰にも届かない。空の上の拓也の姿は、ますます薄く、透明になっていく。もう時間がない。俺が彼を忘れてしまった分だけ、彼は消えかけている。彼を救う方法は、ただ一つしかなかった。
忘れるのではない。思い出すんだ。
目を背けていた、あの日の記憶のすべてを。その痛みも、苦しみも、後悔も、すべて。
第四章 追憶の引力
俺は顔を上げた。涙で滲む視界の先、空に消えゆく親友の姿を焼き付ける。もう逃げない。俺は、俺の記憶を取り戻す。
「思い出すんだ…!」
俺は目を閉じ、意識を記憶の深淵へと沈めていった。まず、楽しかった思い出から。初めて拓也と会った高校の入学式。一緒に馬鹿みたいに笑い転げた放課後。彼の部屋で夜通し語り明かした将来の夢。一つ思い出すごとに、ずしり、と体に重みが増す。まるで、失っていた体の一部が戻ってくるような感覚だった。地面にひびが入り、足がわずかに沈み込む。
だが、それだけでは足りない。拓也の輪郭はまだ薄いままだ。一番重い記憶を思い出さなければ。あの日の記憶を。
俺は震える心で、事故の光景を再生する。横断歩道。青信号の点滅。俺がスマートフォンに送られてきたメッセージに気を取られ、拓也に声をかけた。「おい、これ見ろよ」。拓也が俺の方を振り向き、微笑んだ、その瞬間。左から猛スピードで突っ込んできたトラック。ブレーキの軋む音。衝撃音。俺の名前を呼ぶ、拓也の最後の声。
これまで必死に蓋をしてきた記憶の奔流が、俺の精神を激しく揺さぶる。息が詰まり、心臓が握り潰されそうになる。痛い。苦しい。今すぐまた忘れてしまいたい。だが、俺は歯を食いしばって耐えた。この痛みこそが、俺と拓也を繋ぐ絆なのだ。
そうだ。俺は聞いていなかったんじゃない。聞きたくなかったんだ。拓也の最後の言葉を。
『蓮…お前は、悪くない…』
記憶の最後のピースがはまった瞬間、俺の体は信じられないほどの重力に引かれ、地面に両膝をついた。まるで、この大地と魂が溶接されたかのような絶対的な重さ。だが、不思議と心は軽かった。後悔の鉛は、確かな絆の重さに変わっていた。
俺は力の限り、空に向かって叫んだ。
「拓也ァァァッ! 俺は忘れない! お前のことも、あの日のことも、絶対に忘れない! お前は悪くないなんて言うなよ! 俺は、お前を背負って生きていく! だから…消えないでくれッ!」
叫びは、この世界の静寂を切り裂いた。すると、空の果てで消えかけていた拓也の姿が、ほんのわずかに、しかし確かに輪郭を取り戻した。彼がこちらを見て、ふっと微笑んだような気がした。
彼を完全に元に戻すことはできないのかもしれない。俺が一度忘れてしまった事実は消えない。だが、彼はもう消えないだろう。俺がこの重さを、この記憶を、手放さない限り。
俺はゆっくりと立ち上がった。地面にめり込んだ足跡が、俺がここに存在する証だった。見上げれば、乳白色の空はどこまでも続いている。いつか俺も、この世界の理に従って消える日が来るのかもしれない。
それでもいい。
俺は拓也という重い記憶を、そして彼と共に生きた証を背負い、この忘却の都で生きていく。忘れることで得られる偽りの解放ではなく、すべてを記憶し、背負うことで得られる本物の強さを胸に。
重くなった体で踏み出す一歩は、今まで感じたことのないほど、確かで、力強かった。