第一章 色彩の食卓
僕の家族は、少しだけ普通じゃない。僕たちは、人の感情を「色」として見ることができる。怒りは燃えるような緋色、喜びは弾ける檸檬色、悲しみは底なしの藍色。それは生まれつきの能力で、祖父母の代から続く「色彩家」の血筋なのだという。便利なこともあれば、うんざりすることもある。嘘や建前は、色の揺らぎですぐに分かってしまうからだ。
今朝の食卓も、いつものように様々な色が飛び交っていた。反抗期真っ只中の弟、陸の周りには、不機嫌な黒に近い紫色が澱んでいる。僕が彼の牛乳を間違えて飲んだだけのことで、そのオーラはまるで嵐の前の暗雲のようだ。向かいに座る母は、そんな陸を案じて、心配の色である薄い灰色を漂わせている。その灰色が僕のトーストにまで侵食してきそうで、僕はこっそり溜め息をついた。
そんな混沌とした色彩の中で、父さんだけはいつも同じ色をしていた。深く、静かで、穏やかな森の緑色。どんな時も変わらないその色は、僕にとって家族の「中心」であり、絶対的な安心感の象徴だった。父さんの緑色に包まれていると、陸の紫も母の灰色も、取るに足らない些細なことに思えた。
だから、その日の朝、僕が目にした光景は、信じがたいものだった。
「おはよう、凪」
いつものように微笑みながら席についた父さん。だが、その身体を包むはずの深い緑色が、どこにもなかった。色がない。まるで上質なクリスタルガラスのように、完全に無色透明だったのだ。背景の壁紙が透けて見えるほどの、完璧なまでの「無」。
僕は目をこすり、もう一度父さんを見た。しかし、何度見ても同じだった。感情の色が、ない。それは、僕が生まれてから十七年間、一度も見たことのない異常事態だった。
「父さん、何かあったの?」
思わず声が漏れた。僕の声に、母と陸の視線が集まる。母の灰色が少し濃くなり、陸の紫が訝しげに揺らめいた。
「ん? 何がだ?」
父さんは新聞から顔を上げ、不思議そうに僕を見る。その表情はいつも通り穏やかだ。だが、そこには何の色も伴っていない。喜びも、疑問も、愛情さえも。ただ、空っぽの透明な気配だけがそこにあった。
「いや、なんでもない……」
僕は口ごもった。母も陸も、父さんの異変に気づいていないようだった。もしかして、僕の目がおかしいのだろうか。いや、そんなはずはない。目の前の父さんは、僕たちが拠り所にしてきた、あの深い森の緑を失ってしまっていた。色のない父さんは、まるで魂を抜き取られた抜け殻のように見え、僕の胸をぞっとするような不安が駆け巡った。食卓の上のカラフルなジャムの瓶が、やけに色鮮やかに見えた。
第二章 透明な隔たり
父さんの異変は、その日を境に続いた。会社に行く時も、帰宅して食卓を囲む時も、休日に庭の手入れをする時も、父さんは常に無色透明だった。しかし、彼の言動は以前と何ら変わらない。穏やかに笑い、僕たちの話に耳を傾け、母を手伝う。その完璧な「いつも通り」が、僕を余計に混乱させた。
「母さん、最近の父さん、何か変だと思わない?」
ある晩、台所で洗い物をする母に、僕は思い切って尋ねた。母は手を止め、僕の方を振り返る。彼女の周りには、やはり心配の灰色が漂っている。
「そう? いつもと同じに見えるけど。何かあったの?」
「色だよ。父さんの感情の色が、見えないんだ。ずっと透明のままなんだ」
僕の言葉に、母は困ったように眉を寄せた。「またそんなこと言って。あなた、最近少し考えすぎじゃない? 受験のストレスかしら」。母はそう言って、再び皿洗いに戻ってしまった。彼女の灰色は、僕の言葉を真剣に受け止めてはいない色をしていた。
弟の陸にも話してみたが、彼は鼻で笑うだけだった。「はっ、透明? 兄貴、疲れてんじゃないの。俺にはいつもの親父にしか見えねえよ」。彼の紫色は、僕への侮蔑を隠そうともしなかった。
誰も信じてくれない。僕だけが、この家の静かな異常に気づいている。その事実は、僕を深い孤独に突き落とした。父さんとの間には、目に見えない、けれど確実なガラスの壁ができてしまったようだった。話しかけても、その言葉が壁に当たって虚しく響くだけで、彼の心には届いていない気がした。
僕は書斎のアルバムを引っ張り出した。幼い僕を肩車する父さんの周りには、太陽のような黄金色が輝いている。僕が熱を出した夜、心配そうに額に手を当てる父さんからは、優しい若草色が滲み出ている。どの写真の父さんも、豊かな色彩に満ち溢れていた。今の、あの無機質な透明とはあまりにも違う。
どうして父さんは色を失ってしまったのだろう。僕たちに何か隠していることがあるのだろうか。会社の仕事で、何かとんでもない失敗でもしたのだろうか。僕の頭の中を、黒々とした疑念が渦巻き始めた。父さんのあの穏やかな表情の裏に、僕たちの知らない絶望が隠されているのではないか。そう思うと、心臓が冷たくなるのを感じた。僕は、父さんの失われた緑色を取り戻す方法を、必死で探し始めていた。
第三章 白紙の告白
週末の午後、父さんは僕を自室に呼んだ。重たい木の扉を開けると、そこには書斎机の椅子に腰掛けた、無色透明の父さんがいた。窓から差し込む光が彼の身体を通り抜け、床に明るい長方形を描いている。その光景は、非現実的で、どこか神聖ですらあった。
「凪、少し話があるんだ」
父さんの声は、凪いだ水面のように静かだった。僕は黙って向かいの椅子に座る。何を言われるのだろう。ついに、あの日の朝からの謎が解けるのかもしれない。僕は固唾を飲んで父さんの次の言葉を待った。
「お前が、私の色のことで悩んでいるのは知っている」
その言葉に、僕は息を呑んだ。気づいていたのか。僕の不安も、孤独も、全部。
「説明しなければ、と思っていた。これは……私たち『色彩家』の一族に、ごく稀に起こることなんだ」
父さんは、ゆっくりと語り始めた。それは、僕が今まで一度も聞いたことのない、一族の暗い秘密だった。
「私たちは、強い感情を色として放出することで、精神のバランスを保っている。だが、許容量を超えるほどの強いストレスや悲しみを長期間抱え続けると、魂が自分を守るために、感情の蛇口を完全に閉じてしまうことがある。色を生み出す源泉が、枯渇してしまうんだ。私たちはこれを、『白化(はっか)』と呼んでいる」
白化。その言葉の響きは、雪のように冷たく、無機質だった。
「感情を失ったわけじゃない。心の中には、嵐が吹き荒れている。だが、それを色として表現する力が、もう残っていないんだ。燃え尽きた炭のようなものだ」
父さんは、会社のプロジェクトで大きな失敗を犯し、その責任を一人で背負い込んでいたことを打ち明けた。僕や母、陸に心配をかけたくない一心で、いつも通りの穏やかな父を演じ続けていた。しかし、その仮面の下で、彼の心は静かに蝕まれていたのだ。僕がずっと見てきたあの深い森の緑色は、彼の必死の平静さが見せていた、最後の色だったのかもしれない。
「じゃあ、あの透明は……感情がないんじゃなくて、感情が燃え尽きた後の……」
「そうだ。無じゃない。『無』なんだ」
父さんの言葉が、僕の胸に突き刺さった。僕は、なんて愚かだったのだろう。父さんの色が見えないことにばかり気を取られ、その透明の奥にある彼の苦しみに、全く気づけていなかった。僕たちは感情の色が見えることに胡坐をかき、言葉で、心で、相手を理解しようとする努力を怠っていたのだ。見えるものだけが真実だと思い込んでいた。父さんの無色は、そんな僕たち家族への、声なき告発のようにも思えた。
愕然とする僕の目の前で、父さんは初めて、その無色の表情をわずかに歪めた。それは泣いているようにも、笑っているようにも見えた。僕にはもう、その感情を色で読み取ることはできなかった。
第四章 心を描くということ
父さんの告白は、僕たちの家族を根底から揺さぶった。僕は母と陸に全てを話した。母は泣き崩れ、その身体からは今まで見たこともないほど濃い、後悔の鉛色が滲み出ていた。いつも反抗的だった陸は、黙って唇を噛み締め、その紫色のオーラは悲しみの青へと静かに変わっていった。
僕たちは変わらなければならなかった。色に頼ることをやめ、本当の意味で家族として向き合うことを決めた。
僕たちは、父さんの話をたくさん聞くようになった。彼の言葉の一つ一つに耳を傾け、その微かな表情の変化を見逃さないように努めた。母は父さんの好きな料理を作り、陸は黙って父さんの肩を揉んだ。僕は、ただそばにいて、手を握った。色が見えなくても、その手の温もりは確かに父さんの心を伝えてくれた。
ある日、僕は古いスケッチブックと絵の具を引っ張り出してきた。そして、父さんが好きだった故郷の海の絵を描き始めた。色を失った父さんに、もう一度、世界の美しさを伝えたかったからだ。青、緑、白、金色。僕はチューブから絵の具を絞り出し、記憶の中にある鮮やかな色彩をキャンバスにぶつけていった。それは祈りにも似た行為だった。
絵が完成した日、僕はそれを父さんの部屋に運んだ。父さんはしばらくの間、黙ってその絵を見つめていた。夕日が差し込む部屋で、彼の輪郭がオレンジ色に縁取られている。僕は、ただ静かにその横顔を見ていた。
その時だった。
父さんの透明な身体の、その中心。心臓のあたりから、ふわりと、ごく淡い光が灯ったのが見えた。それは、僕が今まで見たことのない色だった。何色と呼べばいいのか分からない。夜明けの空のようでもあり、生まれたばかりの生命のようでもあった。それはとても暖かく、そして信じられないほど儚い光だった。
「……きれいな、色だな」
父さんが、ぽつりと呟いた。
涙が、僕の頬を伝った。父さんの心が、ほんの少しだけ、色を取り戻したのだ。それは完全な回復ではないかもしれない。深い森の緑が戻ってくることは、もうないのかもしれない。
でも、それでいいと思った。僕たちは、失われた色を追い求めるのではなく、これから生まれる新しい色を、一緒に育てていけばいいのだ。
本当の意味で人と繋がることは、目に見える色を読み取ることじゃない。見えない心を想像し、理解しようと手を伸ばし、寄り添い続けることなんだ。父さんの白化が、皮肉にも僕たち家族にその一番大切なことを教えてくれた。
窓の外では、世界が豊かな色彩に満ちていた。僕は、父さんの隣で灯った小さな光を、決して見失わないようにと、強く心に誓った。それは、僕たちの家族がこれから紡いでいく、新しい物語の始まりを告げる、希望の色だった。