第一章 色褪せた果実
朝の光が食卓に縞模様を描く頃、僕たち家族の一日は、庭にある一本の大きな楠から始まる。僕たちはそれを「家族の樹」と呼んでいた。毎朝、その枝には露に濡れた不思議な果実が一つずつ実る。琥珀色に輝く、親指ほどの大きさのその実を、僕たちは「記憶の実」と呼んだ。
「リョウタ、おはよう。さあ、今日の分よ」
母さんが、小さな白磁の皿に乗せた実を僕の前に置いた。父さんと、妹のミナの分も、それぞれの席に用意されている。これが、僕たち家族のルール。毎晩眠りにつくと、僕たちの前日一日の記憶は、あの樹に静かに吸い上げられる。そして翌朝、その記憶が凝縮された実を食べることで、僕たちは失われた昨日を取り戻し、自分自身であり続けるのだ。なぜそんなことが起きるのか、誰も知らない。ただ、この土地で暮らす僕たち家族は、物心ついた時からそうやって生きてきた。
僕はいつものように、琥珀色の実を口に放り込んだ。ふわりと広がる甘酸っぱさ。林檎の蜜のような、それでいて微かに若草の香りがする。舌の上で溶けていくと同時に、昨日の記憶が脳裏に流れ込んできた。大学の講義、友人との他愛ない会話、帰り道に見上げた夕焼けの空。うん、いつも通りだ。
「昨日のカレー、美味しかったな。また作ってよ、母さん」
僕が言うと、父さんとミナが頷いた。
「そうだな。昨日はみんなで食卓を囲んで……」
父さんがそこまで言った時、母さんが一瞬、息を呑んだのが分かった。その動きはあまりに些細で、僕以外の二人は気づいていないようだった。
「ええ、また作るわね」
母さんはすぐに微笑んだが、その笑顔はどこか薄い膜を一枚隔てたように、僕の心に届かなかった。違和感は、そこから始まった。
食後、大学へ向かう準備をしていると、玄関の隅に置いてあるミナの赤い長靴が目に入った。泥が跳ね、ひどく汚れている。昨日は一日中、気持ちのいい晴天だったはずだ。ミナが長靴を履いて泥遊びをするような天気ではなかった。
「ミナ、昨日、長靴履いたのか? すごく汚れてるぞ」
僕が尋ねると、ソファで本を読んでいたミナは、顔を上げずに小さく首を横に振った。
「ううん、履いてないよ」
その声も、どこか沈んでいる。
胸の内で、小さな棘がちくりと刺さったような感覚があった。僕は自分の記憶をもう一度たどってみる。大学から帰り、家族とカレーを食べ、自室で本を読んだ。それだけだ。ミナが長靴を履くような出来事は、僕の記憶には存在しない。
リビングに戻ると、父さんが深刻な顔で窓の外の「家族の樹」を見つめていた。その背中に、僕は声をかけるのをためらった。家族の空気が、いつもと違う。まるで、僕だけが知らない透明な壁が、僕と他の三人との間にそびえ立っているかのようだ。
僕はもう一度、今朝食べた「記憶の実」の味を思い出そうとした。甘酸っぱく、若草の香りがした。いつもと同じ味。だが、本当にそうだっただろうか。その奥に、ほんの僅かな、まるで熟しきる前の果実のような、ざらりとした渋みを感じなかっただろうか。
僕の昨日が、本当に僕の知る「昨日」だったのか。その疑念が、静かに、しかし確実に、僕の心の中で根を張り始めていた。食卓に落ちていたはずの琥珀色の輝きは、いつの間にか、色褪せたガラス玉のように見えていた。
第二章 揺らぐ根
その日から、僕の世界は微かに軋み始めた。家族は以前と同じように振る舞おうとしているのが分かった。だが、彼らの笑顔の裏には、隠しきれない影が落ちていた。母さんは時折、僕の顔を見ては悲しそうに目を伏せ、父さんは口数が減り、庭の樹を見つめる時間が増えた。ミナは、僕の視線に気づくと、怯えた小動物のように部屋に閉じこもってしまう。
僕だけが、何かが欠けたパズルの中に置き去りにされている。失われたピースは、たった一日分の記憶。しかしそれは、家族という名のパズルの中心を、がらんどうにしてしまうほど、決定的な一片らしかった。
僕は失われた一日を探ることにした。自分の部屋を隈なく調べたが、何の手がかりもない。スマートフォンの履歴にも、不審な点はなかった。まるで、誰かが意図的に僕の痕跡を消し去ったかのようだ。
ある日の午後、僕は大学を休み、家の周りを歩いてみることにした。何か思い出せるかもしれない、という淡い期待を抱いて。家の裏手には小さな森へと続く小径がある。子供の頃、よくミナと探検した場所だ。ざわめく木々の間を歩いていると、不意に足元の土が柔らかく、不自然に掘り返されている場所を見つけた。
そこには、小さな犬用の首輪が半分埋まっていた。赤くて、古びた革の首輪。見覚えがあった。ポチだ。僕たちが小学生の頃から飼っていた、老犬のポチの首輪。ポチは半月ほど前に老衰で死んだ。僕たちは家族全員で、庭の隅にポチを埋めてやったはずだ。その悲しみも、きちんと「記憶の実」を通して共有した。なのになぜ、こんな森の中にポチの首輪が?
その瞬間、脳裏に断片的な映像がフラッシュバックした。雨。激しい雨音。ずぶ濡れのミナの泣き顔。そして、僕の絶望したような叫び声。
「……っ!」
頭痛と共に、映像は霧散した。だが、胸を締め付けるような悲しみの感触だけが生々しく残った。僕の失われた一日は、雨が降っていたのかもしれない。そして、そこには泣いているミナがいた。
家に帰り、僕はまっすぐにミナの部屋へ向かった。
「ミナ、話がある」
ドアをノックすると、中からか細い声が返ってきた。
「……なんでもない」
「なんでもなくないだろ! 教えてくれ、僕が忘れている日に、何があったんだ?」
僕はドアノブに手をかけたが、鍵がかかっていた。ドアの向こうで、ミナが息を殺しているのが分かる。
「お兄ちゃんのせいじゃない……お兄ちゃんは、悪くないから……」
途切れ途切れの、泣き声混じりの言葉が漏れてきた。その言葉は、僕を慰めるどころか、さらに深い闇へと突き落とした。僕が何かをしたのか? 僕のせいで、ミナを泣かせるようなことが起きたのか?
その夜、僕は眠ることができなかった。家族が共有するはずの記憶から、僕だけが排除されている。それは、家族からの拒絶に他ならなかった。愛情ゆえの隠し事だとしても、それは僕の存在を根底から揺るがす行為だった。
窓の外では、「家族の樹」が月光を浴びて、銀色に輝いている。あの樹は、僕たちの喜びも悲しみも、全て吸い上げてきた。あの樹だけが、真実を知っている。僕は固く決意した。この手で、偽りの朝を終わらせる。何が起ころうと、真実を知らなければならない。僕が僕であるために。家族が、本当の家族であるために。
第三章 真実の味
午前二時。家中の誰もが寝静まった頃、僕はそっとベッドを抜け出した。息を殺して階段を下り、庭へと続くガラス戸を滑らせる。ひんやりとした夜気が肌を撫でた。月明かりの下、「家族の樹」は巨大な影絵のように静まり返っている。
僕は樹の陰に身を潜め、家の方を見つめた。もし僕の推測が正しければ、もうすぐ誰かが現れるはずだ。僕の記憶を、すり替えるために。時間は、蝋燭の炎が揺れるように、ゆっくりと、そして不確かに過ぎていった。心臓の音が、やけに大きく耳に響く。
明け方が近づき、東の空が白み始めた頃、家のガラス戸が静かに開いた。現れたのは、父さんだった。その後ろから、母さんも、そしてミナも姿を見せた。三人はパジャマ姿のまま、まるで儀式を執り行うかのように、音もなく樹に近づいてきた。
父さんの手には、小さな麻の袋があった。父さんは慣れた手つきで樹に登り、僕の名前が刻まれた枝に実ろうとしている琥珀色の実をそっと摘み取った。そして、麻の袋から、別の実を取り出した。それは、僕が毎朝食べている実とそっくりだったが、月光の下で見ると、その輝きが明らかに鈍く、色も僅かに褪せているのが分かった。父さんは、その偽りの実を、僕の枝に慎重に取り付けた。
僕の全身から、血の気が引いていくのが分かった。やはり、そうだったのか。怒りよりも先に、深い、底なしの悲しみが込み上げてきた。樹から下りてきた父さんを、母さんとミナが心配そうな顔で見ていた。三人の顔には、罪悪感と、僕を想うが故の苦悩が色濃く浮かんでいる。
僕は、影から姿を現した。
「……どうして」
僕の声は、自分でも驚くほど静かに、夜の空気に響いた。三人は凍りついたように僕を見た。母さんの手から、本物の「記憶の実」が入った袋が滑り落ちる。
「リョウタ……どうして、起きて……」
父さんの声が震えていた。
「教えてよ、父さん。僕が忘れてる日に、何があったの。僕が、何かしたのか?」
重い沈黙が落ちた。やがて、父さんが観念したように、深く息を吐いた。
「お前は、何も悪くない。ただ……あまりにも辛い出来事だったんだ」
父さんは語り始めた。僕が失ったあの日。天気予報に反して、午後から激しい雷雨になったこと。庭で遊んでいたミナが、雷の音に驚いて、死んだはずのポチを探して森へ走り込んでしまったこと。僕がミナを追いかけて森に入り、ずぶ濡れになりながら彼女を見つけ出したこと。
「お前はミナを庇って、倒れてきた枝から守ったんだ。だが、その時……お前は見てしまった。雨で土が流された崖の下に、埋めたはずのポチの姿が……半分、見えてしまっていたのを」
半月前に死んだと思っていたポチは、実はあの日、雷に驚いて家を飛び出し、森で事故に遭って死んでいたのだ。僕たちが埋めたのは、ポチによく似た、別の何かだったのか、あるいは僕たちの記憶そのものが、ポチの死を受け入れきれずに改変されていたのか。真実はもう分からない。ただ、あの日、僕は二重の喪失に直面した。愛犬の本当の、そして残酷な死の姿を。
「お前はひどくショックを受けて、高熱を出して三日も寝込んだ。そして、その日の記憶だけを、綺麗に失くしてしまった。医者は、心因性の健忘だと言った」
父さんは続けた。
「私たちは、お前をこれ以上苦しませたくなかった。お前が忘れることを選んだ辛い記憶を、もう一度思い出させるなんて、できなかったんだ。だから……毎朝、私たちが前日に作った、当たり障りのない偽りの記憶の実と、すり替えていた」
優しい嘘。僕を守るための、家族の愛。だが、その愛は、僕を真実から遠ざけ、孤独な子供のままにしていた。
僕は、地面に落ちた麻の袋を拾い上げた。中には、本当の僕の昨日が詰まった、琥珀色の実が一つ入っていた。それは、他の三人の実よりも、僅かに大きく、そして深く輝いているように見えた。
「ありがとう、父さん、母さん。ミナも。僕のために、辛かったんだね」
僕は涙を堪えながら、三人の顔をまっすぐに見た。
「でも、もういいんだ。辛いことも、悲しいことも、全部含めて、僕たちの家族の記憶だよ。僕だけ知らないなんて、嫌だ。これからは、どんな味の実だって、みんなで一緒に食べる」
僕の言葉に、母さんは泣き崩れ、父さんは黙って僕の肩を抱いた。ミナが、僕の服の裾をぎゅっと握りしめていた。
その朝、僕たちは食卓で、四つの本物の「記憶の実」を分け合った。僕が口にした実からは、雨の冷たさ、泥の匂い、ミナの泣き声、そして、崖の下で見た光景のどうしようもない絶望感が、苦い味と共に流れ込んできた。涙が、後から後から溢れた。
でも、僕は一人ではなかった。向かいに座る父さんが、隣に座る母さんが、そしてミナが、同じ痛みを分かち合うように、静かに涙を流していた。僕たちは、ただ黙って、互いの存在を感じていた。
食事が終わると、僕たちは四人で庭に出た。見上げた「家族の樹」は、朝日に照らされて、これまで見たどんな時よりも力強く、その葉を青々と輝かせているように見えた。悲しみを乗り越えたのではなく、悲しみと共に生きていくことを選んだ僕たちの根は、きっと、昨日よりもずっと深く、強く、この大地に張っているのだろう。記憶とは、幸福な日々の記録であるだけでなく、痛みや喪失を分かち合うための、家族を繋ぐための絆そのものなのかもしれない。僕たちは、言葉もなく、ただ静かに、僕たちの樹を見上げていた。