空白の弟と、嘘つきな鏡
0 4761 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:
表示モード:

空白の弟と、嘘つきな鏡

第一章 琥珀色の食卓と、欠けた椅子

銀色の巨大な鏡面が、琥珀色の照明をねっとりと照り返していた。

リビングルームの壁一面を占拠するその鏡には、豪奢なローストチキンにナイフを入れる父と、グラスの赤ワインを揺らす母、そして微笑む私が映っている。そこには一点の曇りも、微細な傷もない。ただひたすらに、完璧で幸福な家族の肖像が、現実よりも鮮やかに輝いていた。

咀嚼音だけが響く静寂。肉汁の旨味が舌の上に広がるはずなのに、私は砂を噛んでいるような錯覚を覚えていた。

「レン、ソースを取ってちょうだい」

母の声は、録音された音声を再生したかのように滑らかだった。

私は無言でグレービーソースのポットに手を伸ばす。銀のポットの側面に、歪んだ私の顔が映り込む。その視線が、ふとテーブルの向かい側へと滑り落ちた。

そこには、誰も座っていない椅子が一脚、置かれていた。

背もたれのニスは剥げかけ、座面の布地は擦り切れている。それなのにテーブルの上には皿一枚なく、カトラリーのセットもない。まるでその空間だけが、世界の設定から抜け落ちたエラーのようにぽっかりと空いている。

喉の奥に、魚の小骨が刺さったような違和感が走った。

「……ねえ、母さん」

私の声は乾いていた。「そこに、誰か座っていなかったっけ?」

カチャリ。

父のナイフが皿に当たる硬質な音が、やけに大きく響いた。母の口元に張り付いていた微笑みが、映像の一時停止のようにピタリと凍りつく。

「何を言っているの、レン。私たちはずっと三人家族でしょう」

母の瞳孔が、微動だにせず私を見据えていた。父もまた、機械的な動作で肉を口に運び続けている。

その瞬間、こめかみにアイスピックを突き立てられたような激痛が走った。

キィィィン――。

耳の奥で、甲高いノイズが炸裂する。視界が白く明滅し、食卓の風景がざらついた砂嵐のように乱れた。脳の奥底から何かがせり上がってくる感覚。焼けたフィルムの臭い。

嘔吐感が喉元まで込み上げる。

「ごめん、気分が」

私は椅子を蹴るようにして立ち上がった。

背後で、鏡の中の「私たち」だけが、依然として優雅に食事を続けているのが見えた。鏡面の私が、青ざめて逃げ出す現実の私を、嘲るように見下ろしていた。

第二章 屋根裏の図鑑と、黒いクレヨン

屋根裏部屋は、肺に張り付くような乾いた埃の匂いで満ちていた。

薄暗い豆電球の下、私は埃を被った木箱をひっくり返していた。指先が何かに触れる。ざらりとした紙の感触。

それは、背表紙の糸がほつれた一冊のスケッチブックだった。

『かぞくずかん』。

表紙には、幼い子供の拙い筆跡でそう記されている。私の字ではない。もっと幼く、頼りない筆致だ。

心臓が早鐘を打ち始める。これは触れてはいけないものだという警鐘が、本能レベルで鳴り響いていた。だが、震える指はページをめくっていた。

最初のページ。眼鏡をかけた父。「パパは、しごとのとき、かっこいい」。

次のページ。エプロン姿の母。「ママのクッキーは、せかいいち」。

そして、次のページ。

「レンおにいちゃんは、ぼくのヒーロー」

私を描いた絵の下には、そう書かれていた。

ドクン、と脈が跳ねた。私のことを「おにいちゃん」と呼ぶ誰か。

そんなはずはない。私は一人っ子だ。ずっと、三人家族だった。この図鑑は誰かの悪戯だ。近所の子供が忘れていったものに違いない。

そう自分に言い聞かせながら、私は次のページをめくった。

息が止まった。

そのページは、黒いクレヨンで狂ったように塗りつぶされていた。

紙が破れんばかりの筆圧で、幾重にも重ねられた黒、黒、黒。憎悪すら感じるその暴力的な黒の層の下に、かろうじて読み取れる文字の凹凸があった。

――ミナト。

その名を目にした瞬間、頭蓋骨を内側からハンマーで殴打されたような衝撃が走った。

知らない。

こんな名前は知らない。

私の脳裏に、満開のひまわり畑の映像がフラッシュのように明滅する。黄金色の光の中で、私と誰かが笑い合っている。だが、その隣にいる「誰か」の顔には、モザイクがかかったようにノイズが走っている。

「嘘だ……」

私は図鑑を床に叩きつけた。

これは偽物だ。私の記憶にある完璧な家族像を汚そうとする、悪質な罠だ。

しかし、指先に残る黒いクレヨンの油分が、ぬらりと光って私を離さない。

叩きつけられた図鑑は、開いたままだった。黒く塗りつぶされたページが、まるで深淵の口のように私を見上げている。

なぜ、捨てなかった?

もし私が何かを忘れているのだとして、なぜこの図鑑だけが残っている?

あのダイニングの空席もそうだ。完全に消去したいなら、椅子ごと処分すればいい。図鑑など燃やしてしまえばいい。

まるで、誰かが――あるいは私自身が、忘れることを許さなかったかのように。

私は逃げるように屋根裏を飛び出した。シャツの下に、その図鑑を隠し持って。

第三章 階段の傷跡

真夜中。リビングの鏡は、月光を浴びて冷たく青白い光を放っていた。

私は鏡の前ではなく、そこから続く階段の下に座り込んでいた。手には『かぞくずかん』がある。

開かれたページ。黒いクレヨンの塊。

私は人差し指の爪を、その黒い層に突き立てた。

カリッ、と乾いた音がする。

力を込める。爪の間に黒い蝋のカスが入り込み、鈍い痛みが走る。それでも私は削り続けた。この下にあるものを見たくないという恐怖と、見なければならないという衝動が、身体を引き裂きそうだった。

カリカリ、カリカリ。

蝋の独特な油臭さが鼻をつく。

黒い欠片がパラパラと膝の上に落ちる。塗りつぶされた層が削れ、下の絵がわずかに顔を覗かせた。

笑っている男の子の目。泣きぼくろ。

その目を見た瞬間、鼻腔をくすぐっていたクレヨンの匂いが、鉄錆の匂いへと変貌した。

――違う。

この匂いは、クレヨンじゃない。

私は弾かれたように顔を上げ、階段を見上げた。

視線が吸い寄せられたのは、下から三段目の角にある、古い傷跡だった。木材がえぐれ、黒ずんでいるその場所。

身体が勝手に動いた。私は這うようにして階段に近づき、その傷跡に指を触れた。

ささくれた木材が指の腹を刺す。

その痛みが、トリガーだった。

ドクンッ!

世界が反転する。

ひまわり畑の映像がガラスのように砕け散り、どす黒い記憶が濁流となって脳内に雪崩れ込んできた。

『おにいちゃん、まって!』

幼い声。ミナトの声。

『うるさいな、ついてくるなって言ってるだろ!』

私の声だ。今よりずっと幼く、そして残酷なほどに苛立った声。

私は隠し持っていた何かを、後ろ手で庇っている。友達に見せるつもりだった、自慢の『かぞくずかん』だ。

だが、ミナトは無邪気に手を伸ばしてきた。

『ぼくもみる! みせて!』

『やめろよ! お前なんかに!』

私は反射的に、その小さな手を振り払った。

いや、振り払っただけではない。胸を、強く突き飛ばしたのだ。

――ドンッ。

鈍く、重い感触が掌に残る。

ミナトの身体が宙に浮く。スローモーションの中で、彼の瞳が見開かれ、私を捉えた。

驚愕。恐怖。そして信愛の裏切りに対する絶望。

ガッ、ゴッ、ガンッ!

階段を転がり落ちる音は、肉と骨が硬い木材にぶつかる音だった。それはあまりに生々しく、生理的な嫌悪感を催させるリズムで鼓膜を叩いた。

そして、最下段の角――今、私が触れているこの傷跡に、ミナトの頭が激突した。

動かなくなる小さな身体。広がる赤。

「あ……が……ッ」

私は喉を掻きむしった。

酸素が吸えない。

そうだ。事故じゃなかった。私が殺したんだ。

いや、死んではいない。病院のベッドで、何本ものチューブに繋がれ、ピクリとも動かない弟。

両親の悲鳴。母の慟哭。父のうつろな目。そして私に向けられる、言葉にならぬ非難の視線。

耐えられなかった。

自分の罪の重さに。壊れてしまった日常に。

だから私は能力を使った。

私の特異体質。人の認識に干渉し、記憶を改ざんする力。

――ミナトなんて、最初からいなかった。

そう念じることで、私は両親の記憶を書き換え、自分自身の記憶すら封印した。あの完璧な鏡は、私の虚偽を映し出す装置に過ぎなかった。

椅子を残したのも、図鑑を捨てられなかったのも、能力の不完全さではない。

それは私の無意識の処罰願望だ。

いつかこの偽りの楽園が破綻し、断罪される日を、心のどこかで待ち望んでいたのだ。

第四章 真実の破片

胃の内容物が逆流し、私は床にぶちまけた。

酸っぱい臭いが充満する中、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして嗚咽した。

頭痛は消えていた。代わりに、胸を引き裂くような鮮烈な痛みがそこにあった。

指先には、まだあの時の「突き飛ばした感触」が焼き付いている。一生消えない、罪の感触。

パリンッ。

鋭い音がして、リビングの鏡に亀裂が入った。

蜘蛛の巣状に広がったひび割れから、美しい琥珀色の光が剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、光沢のない、濁った灰色の鏡面だった。

鏡の崩壊と共に、二階からドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。

両親だ。私の能力による暗示が解けたのだ。

リビングに駆け込んできた父と母は、異様な光景に立ち尽くした。

砕けた鏡。汚物まみれで泣きじゃくる息子。

「……ッ」

母が口元を押さえ、その場に崩れ落ちた。

洗脳が解けた反動か、激しい嘔吐きが彼女を襲う。父は青ざめた顔で壁に手をつき、荒い息を吐きながら私を凝視した。

その目は、いつもの穏やかな父のものではない。

見知らぬ化け物を見るような、恐怖と困惑に満ちた目だ。

「レン……お前……今まで、何を……」

父の声が震えている。記憶の整合性が取れず、脳が悲鳴を上げているのだ。

「ミナトは……あの子は、病院に……どうして私たちは、こんな……」

母が狂乱したように髪を掻きむしる。

私は這いつくばったまま、額を床に擦り付けた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

謝罪の言葉など、何の意味もなさないことは分かっていた。

私が奪ったのは弟の健康だけではない。両親が弟を想い、悲しみ、祈る時間さえも、私は「幸せな食卓」という偽りの上書きで奪い取っていたのだ。

長い沈黙の後、父の足音が近づいてきた。

殴られるかもしれない。そう覚悟して身を縮こまらせた。

だが、父の手は、震えながら私の肩に置かれた。その手は冷たく、そして強かった。

「……行くぞ」

絞り出すような声だった。「ミナトのところに。今すぐ」

許しではない。それは、現実への回帰命令だった。

私はふらつく足で立ち上がった。

砕け散った鏡の破片に、私の顔が映っている。

苦悶に歪み、涙と汚物で汚れた、酷く醜い顔だ。

けれど、あの能面のような穏やかな笑顔よりも、ずっと人間らしく見えた。

私は『かぞくずかん』を拾い上げ、胸に抱いた。

窓の外では、夜明け前の空が重苦しい群青色に沈んでいる。

それは決して希望に満ちた朝ではない。

これから向かうのは、機械音だけが響く冷たい病室であり、一生償いきれない罪の檻だ。

だが、私はドアノブに手をかけた。

黒く塗りつぶされた後悔を抱きしめて、私たちは、痛いほど鮮明な現実へと歩き出した。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
主人公レンは、弟を傷つけた罪悪感と自己保身の狭間で能力を使い、家族から弟の存在と悲しみの記憶を消し去る。しかし、その「完璧な幸福」はレン自身の罪の意識によって常に脅かされていた。無意識に残された「欠けた椅子」や「かぞくずかん」は、彼が断罪を求め、真実の回帰を渇望していた証拠であり、「嘘つきな鏡」はレン自身の心理状態を映し出している。

**伏線の解説**
物語の随所に巧妙な伏線が散りばめられている。「完璧な食卓」の「欠けた椅子」は、存在しないはずの弟の不在を示唆。黒く塗りつぶされた「かぞくずかん」は、レンの記憶改ざんの不完全さと、消し去れない罪の痕跡を象徴する。特に、クレヨンの油臭さが鉄錆の匂いへと変貌し、「階段の傷跡」へと繋がる描写は、鮮烈なトリガーとして機能し、物語の核心を一気に露呈させる。

**テーマ**
本作は、自己欺瞞の末に辿り着く真実の痛み、そしてその痛みを伴う現実こそが、真の人間性を取り戻す道であると問いかける。完璧な虚偽の中で得られる安寧は、決して本物の幸福ではない。過去の過ちと向き合い、償いの道を歩むことの重要性、そして家族が共に悲しみ、共に未来へと進むことの尊さを描いている。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る