空白の弟と、嘘つきな鏡
第一章 琥珀色の食卓と、欠けた椅子
銀色の巨大な鏡面が、琥珀色の照明をねっとりと照り返していた。
リビングルームの壁一面を占拠するその鏡には、豪奢なローストチキンにナイフを入れる父と、グラスの赤ワインを揺らす母、そして微笑む私が映っている。そこには一点の曇りも、微細な傷もない。ただひたすらに、完璧で幸福な家族の肖像が、現実よりも鮮やかに輝いていた。
咀嚼音だけが響く静寂。肉汁の旨味が舌の上に広がるはずなのに、私は砂を噛んでいるような錯覚を覚えていた。
「レン、ソースを取ってちょうだい」
母の声は、録音された音声を再生したかのように滑らかだった。
私は無言でグレービーソースのポットに手を伸ばす。銀のポットの側面に、歪んだ私の顔が映り込む。その視線が、ふとテーブルの向かい側へと滑り落ちた。
そこには、誰も座っていない椅子が一脚、置かれていた。
背もたれのニスは剥げかけ、座面の布地は擦り切れている。それなのにテーブルの上には皿一枚なく、カトラリーのセットもない。まるでその空間だけが、世界の設定から抜け落ちたエラーのようにぽっかりと空いている。
喉の奥に、魚の小骨が刺さったような違和感が走った。
「……ねえ、母さん」
私の声は乾いていた。「そこに、誰か座っていなかったっけ?」
カチャリ。
父のナイフが皿に当たる硬質な音が、やけに大きく響いた。母の口元に張り付いていた微笑みが、映像の一時停止のようにピタリと凍りつく。
「何を言っているの、レン。私たちはずっと三人家族でしょう」
母の瞳孔が、微動だにせず私を見据えていた。父もまた、機械的な動作で肉を口に運び続けている。
その瞬間、こめかみにアイスピックを突き立てられたような激痛が走った。
キィィィン――。
耳の奥で、甲高いノイズが炸裂する。視界が白く明滅し、食卓の風景がざらついた砂嵐のように乱れた。脳の奥底から何かがせり上がってくる感覚。焼けたフィルムの臭い。
嘔吐感が喉元まで込み上げる。
「ごめん、気分が」
私は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
背後で、鏡の中の「私たち」だけが、依然として優雅に食事を続けているのが見えた。鏡面の私が、青ざめて逃げ出す現実の私を、嘲るように見下ろしていた。
第二章 屋根裏の図鑑と、黒いクレヨン
屋根裏部屋は、肺に張り付くような乾いた埃の匂いで満ちていた。
薄暗い豆電球の下、私は埃を被った木箱をひっくり返していた。指先が何かに触れる。ざらりとした紙の感触。
それは、背表紙の糸がほつれた一冊のスケッチブックだった。
『かぞくずかん』。
表紙には、幼い子供の拙い筆跡でそう記されている。私の字ではない。もっと幼く、頼りない筆致だ。
心臓が早鐘を打ち始める。これは触れてはいけないものだという警鐘が、本能レベルで鳴り響いていた。だが、震える指はページをめくっていた。
最初のページ。眼鏡をかけた父。「パパは、しごとのとき、かっこいい」。
次のページ。エプロン姿の母。「ママのクッキーは、せかいいち」。
そして、次のページ。
「レンおにいちゃんは、ぼくのヒーロー」
私を描いた絵の下には、そう書かれていた。
ドクン、と脈が跳ねた。私のことを「おにいちゃん」と呼ぶ誰か。
そんなはずはない。私は一人っ子だ。ずっと、三人家族だった。この図鑑は誰かの悪戯だ。近所の子供が忘れていったものに違いない。
そう自分に言い聞かせながら、私は次のページをめくった。
息が止まった。
そのページは、黒いクレヨンで狂ったように塗りつぶされていた。
紙が破れんばかりの筆圧で、幾重にも重ねられた黒、黒、黒。憎悪すら感じるその暴力的な黒の層の下に、かろうじて読み取れる文字の凹凸があった。
――ミナト。
その名を目にした瞬間、頭蓋骨を内側からハンマーで殴打されたような衝撃が走った。
知らない。
こんな名前は知らない。
私の脳裏に、満開のひまわり畑の映像がフラッシュのように明滅する。黄金色の光の中で、私と誰かが笑い合っている。だが、その隣にいる「誰か」の顔には、モザイクがかかったようにノイズが走っている。
「嘘だ……」
私は図鑑を床に叩きつけた。
これは偽物だ。私の記憶にある完璧な家族像を汚そうとする、悪質な罠だ。
しかし、指先に残る黒いクレヨンの油分が、ぬらりと光って私を離さない。
叩きつけられた図鑑は、開いたままだった。黒く塗りつぶされたページが、まるで深淵の口のように私を見上げている。
なぜ、捨てなかった?
もし私が何かを忘れているのだとして、なぜこの図鑑だけが残っている?
あのダイニングの空席もそうだ。完全に消去したいなら、椅子ごと処分すればいい。図鑑など燃やしてしまえばいい。
まるで、誰かが――あるいは私自身が、忘れることを許さなかったかのように。
私は逃げるように屋根裏を飛び出した。シャツの下に、その図鑑を隠し持って。
第三章 階段の傷跡
真夜中。リビングの鏡は、月光を浴びて冷たく青白い光を放っていた。
私は鏡の前ではなく、そこから続く階段の下に座り込んでいた。手には『かぞくずかん』がある。
開かれたページ。黒いクレヨンの塊。
私は人差し指の爪を、その黒い層に突き立てた。
カリッ、と乾いた音がする。
力を込める。爪の間に黒い蝋のカスが入り込み、鈍い痛みが走る。それでも私は削り続けた。この下にあるものを見たくないという恐怖と、見なければならないという衝動が、身体を引き裂きそうだった。
カリカリ、カリカリ。
蝋の独特な油臭さが鼻をつく。
黒い欠片がパラパラと膝の上に落ちる。塗りつぶされた層が削れ、下の絵がわずかに顔を覗かせた。
笑っている男の子の目。泣きぼくろ。
その目を見た瞬間、鼻腔をくすぐっていたクレヨンの匂いが、鉄錆の匂いへと変貌した。
――違う。
この匂いは、クレヨンじゃない。
私は弾かれたように顔を上げ、階段を見上げた。
視線が吸い寄せられたのは、下から三段目の角にある、古い傷跡だった。木材がえぐれ、黒ずんでいるその場所。
身体が勝手に動いた。私は這うようにして階段に近づき、その傷跡に指を触れた。
ささくれた木材が指の腹を刺す。
その痛みが、トリガーだった。
ドクンッ!
世界が反転する。
ひまわり畑の映像がガラスのように砕け散り、どす黒い記憶が濁流となって脳内に雪崩れ込んできた。
『おにいちゃん、まって!』
幼い声。ミナトの声。
『うるさいな、ついてくるなって言ってるだろ!』
私の声だ。今よりずっと幼く、そして残酷なほどに苛立った声。
私は隠し持っていた何かを、後ろ手で庇っている。友達に見せるつもりだった、自慢の『かぞくずかん』だ。
だが、ミナトは無邪気に手を伸ばしてきた。
『ぼくもみる! みせて!』
『やめろよ! お前なんかに!』
私は反射的に、その小さな手を振り払った。
いや、振り払っただけではない。胸を、強く突き飛ばしたのだ。
――ドンッ。
鈍く、重い感触が掌に残る。
ミナトの身体が宙に浮く。スローモーションの中で、彼の瞳が見開かれ、私を捉えた。
驚愕。恐怖。そして信愛の裏切りに対する絶望。
ガッ、ゴッ、ガンッ!
階段を転がり落ちる音は、肉と骨が硬い木材にぶつかる音だった。それはあまりに生々しく、生理的な嫌悪感を催させるリズムで鼓膜を叩いた。
そして、最下段の角――今、私が触れているこの傷跡に、ミナトの頭が激突した。
動かなくなる小さな身体。広がる赤。
「あ……が……ッ」
私は喉を掻きむしった。
酸素が吸えない。
そうだ。事故じゃなかった。私が殺したんだ。
いや、死んではいない。病院のベッドで、何本ものチューブに繋がれ、ピクリとも動かない弟。
両親の悲鳴。母の慟哭。父のうつろな目。そして私に向けられる、言葉にならぬ非難の視線。
耐えられなかった。
自分の罪の重さに。壊れてしまった日常に。
だから私は能力を使った。
私の特異体質。人の認識に干渉し、記憶を改ざんする力。
――ミナトなんて、最初からいなかった。
そう念じることで、私は両親の記憶を書き換え、自分自身の記憶すら封印した。あの完璧な鏡は、私の虚偽を映し出す装置に過ぎなかった。
椅子を残したのも、図鑑を捨てられなかったのも、能力の不完全さではない。
それは私の無意識の処罰願望だ。
いつかこの偽りの楽園が破綻し、断罪される日を、心のどこかで待ち望んでいたのだ。
第四章 真実の破片
胃の内容物が逆流し、私は床にぶちまけた。
酸っぱい臭いが充満する中、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして嗚咽した。
頭痛は消えていた。代わりに、胸を引き裂くような鮮烈な痛みがそこにあった。
指先には、まだあの時の「突き飛ばした感触」が焼き付いている。一生消えない、罪の感触。
パリンッ。
鋭い音がして、リビングの鏡に亀裂が入った。
蜘蛛の巣状に広がったひび割れから、美しい琥珀色の光が剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、光沢のない、濁った灰色の鏡面だった。
鏡の崩壊と共に、二階からドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
両親だ。私の能力による暗示が解けたのだ。
リビングに駆け込んできた父と母は、異様な光景に立ち尽くした。
砕けた鏡。汚物まみれで泣きじゃくる息子。
「……ッ」
母が口元を押さえ、その場に崩れ落ちた。
洗脳が解けた反動か、激しい嘔吐きが彼女を襲う。父は青ざめた顔で壁に手をつき、荒い息を吐きながら私を凝視した。
その目は、いつもの穏やかな父のものではない。
見知らぬ化け物を見るような、恐怖と困惑に満ちた目だ。
「レン……お前……今まで、何を……」
父の声が震えている。記憶の整合性が取れず、脳が悲鳴を上げているのだ。
「ミナトは……あの子は、病院に……どうして私たちは、こんな……」
母が狂乱したように髪を掻きむしる。
私は這いつくばったまま、額を床に擦り付けた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
謝罪の言葉など、何の意味もなさないことは分かっていた。
私が奪ったのは弟の健康だけではない。両親が弟を想い、悲しみ、祈る時間さえも、私は「幸せな食卓」という偽りの上書きで奪い取っていたのだ。
長い沈黙の後、父の足音が近づいてきた。
殴られるかもしれない。そう覚悟して身を縮こまらせた。
だが、父の手は、震えながら私の肩に置かれた。その手は冷たく、そして強かった。
「……行くぞ」
絞り出すような声だった。「ミナトのところに。今すぐ」
許しではない。それは、現実への回帰命令だった。
私はふらつく足で立ち上がった。
砕け散った鏡の破片に、私の顔が映っている。
苦悶に歪み、涙と汚物で汚れた、酷く醜い顔だ。
けれど、あの能面のような穏やかな笑顔よりも、ずっと人間らしく見えた。
私は『かぞくずかん』を拾い上げ、胸に抱いた。
窓の外では、夜明け前の空が重苦しい群青色に沈んでいる。
それは決して希望に満ちた朝ではない。
これから向かうのは、機械音だけが響く冷たい病室であり、一生償いきれない罪の檻だ。
だが、私はドアノブに手をかけた。
黒く塗りつぶされた後悔を抱きしめて、私たちは、痛いほど鮮明な現実へと歩き出した。