止まった時計と、琥珀色の嘘

止まった時計と、琥珀色の嘘

7 3568 文字 読了目安: 約7分
文字サイズ:
表示モード:

第一章 錆びついた帰郷

廃油と、古びた紙の匂い。

実家の扉を開けた瞬間、鼻腔を突いたのは記憶そのままの空気だった。

「……何も変わってねえな」

靴を脱ぐ。

上がり框(かまち)がきしりと鳴いた。

俺、真島健司(まじま けんじ)は、埃を被ったショーケースを指でなぞる。

父が死んで、一ヶ月。

都内でのSE仕事にかまけ、葬式が終わってようやくの帰省だった。

目的は一つ。

この古臭い時計店を畳むことだ。

「健司、お前は耳がいい。時計の声が聞こえるはずだ」

父の口癖が脳裏をよぎる。

ふん、と鼻で笑った。

そんなオカルトじみた才能、あるわけがない。

ただ俺は、微細なノイズに敏感なだけだ。

サーバーの異音も、人の悪意も、すぐに察知できてしまうだけの、損な性分。

店の奥、作業場の中心に鎮座する巨大なのっぽ時計。

高さは二メートル近い。

黒檀(こくたん)のボディは艶を失い、文字盤のガラスは曇っている。

父が「これだけは売るな」と言い遺した代物だ。

「……止まってるのか」

秒針は動いていない。

ドライバーを手に取り、裏蓋を開けようとした時だった。

「おい、おっさん。触んじゃねーよ」

背後から、生意気な声がした。

ドライバーを取り落としかけ、振り返る。

そこには、半ズボンを履いた少年がいた。

作業台の上に、行儀悪く座っている。

膝には絆創膏。

鼻の頭には煤(すす)。

「……誰だ、お前。近所の子か? ここは今日、休みだぞ」

「休みじゃねーよ。じいちゃんが言ってたもん。今日、とっておきの客が来るって」

少年はニシシと笑い、俺を指差した。

「お前だろ? 出来損ないの息子って」

「あぁ?」

こめかみがピクリと跳ねる。

不法侵入に加えて、暴言。

だが、妙だ。

この少年の顔、どこかで見た覚えがある。

「じいちゃん、これ直すの待ってたんだぜ。直せねーなら、俺がやる」

少年は作業台から飛び降りると、俺の手からドライバーを奪い取ろうとした。

「よせ、子供の遊びじゃないんだ」

「遊びじゃねえよ! 俺は『時の番人』なんだ!」

「はいはい、番人さん。帰ってママにミルクでもねだってな」

俺は少年を無視し、再び時計に向き合った。

その時。

カチリ。

時計の内部から、硬質な音が響いた。

秒針が動いたわけではない。

もっと奥底。

心臓部が、拒絶するように鳴ったのだ。

第二章 歯車の迷路

それから三時間。

俺は汗だくになっていた。

「クソッ、なんで開かない」

裏蓋のネジは錆びついていない。

それなのに、まるで溶接されたかのように回らない。

「だーかーらー」

少年が、足元で飴を舐めながら言った。

「力づくじゃ無理だって。じいちゃん、言ってたぜ。『時計は正直だ。嘘つきには心を開かねぇ』って」

「うるさいな。……嘘なんてついてない」

「へえ? じゃあ、なんで葬式に出なかったの?」

手が止まる。

「……仕事が、忙しかったんだ」

「ふーん。泣くのが怖かったんじゃなくて?」

「黙れ」

声を荒げると、少年は少しも怯まずに俺を見上げた。

その瞳。

黒目がちで、生意気そうで、どこか寂しげな瞳。

記憶の蓋が、軋(きし)む。

(――お父さんなんて、大っ嫌いだ!)

三十年前。

母が死んだ日。

俺は父にそう叫び、作業場から逃げ出した。

母の看病より、時計の修理を優先した父。

そう思い込んでいた。

「なあ、おっさん。腹減らねえ?」

少年が唐突に言った。

「俺、ハヤシライス食いたい」

「……は?」

「じいちゃんの特製ハヤシライス。隠し味は、なんだっけ。忘れたけど、あれがないと時計は直らねーぞ」

「意味が分からん」

「いいから作れよ! 台所、勝手に使っていいからさ!」

追い出そうとしても、少年はテコでも動かない。

仕方なく、俺は店の奥にある住居スペースへと足を向けた。

台所は、時間が止まったままだった。

冷蔵庫を開ける。

しなびた玉ねぎ。

賞味期限切れの牛乳。

そして、冷凍庫の奥に、タッパーに入った茶色の塊があった。

『健司へ』

下手くそな字で書かれたラベル。

父が作り置きしていた、デミグラスソースの素だ。

「……まだ、残ってたのか」

胸の奥がチクリと痛む。

俺は無意識に、鍋を取り出していた。

玉ねぎを刻む。

涙が出るのは、玉ねぎのせいだ。

肉を炒める。

ジュウジュウという音が、静寂を埋めていく。

父は、不器用な人だった。

母が死んでから、男手一つで俺を育ててくれた。

でも、俺たちは会話らしい会話もしなかった。

いつも時計のネジを巻く音だけが、親子の共通言語だった。

ソースを溶かす。

甘く、焦げたような香りが立ち込める。

「……そうか」

俺は、ある瓶を棚の奥に見つけた。

インスタントコーヒーだ。

「隠し味は、これか」

父が入れていたのは、苦味だった。

甘ったるいルーに、ほんの少しの苦味を足す。

それが、我が家の味だった。

第三章 琥珀色の嘘

鍋を火から下ろし、皿に盛る。

湯気と共に、懐かしい香りが部屋を満たした。

「できたぞ」

作業場に戻ると、少年の姿が消えていた。

「おい、どこ行った?」

返事はない。

ただ、のっぽ時計の前に、スプーンが一本だけ落ちていた。

俺は皿を、時計の前の作業台に置いた。

その瞬間。

ボーン……ボーン……。

時計が、鳴った。

「え?」

ネジを巻いていない。

触れてもいない。

なのに、古時計の振り子が、ゆっくりと揺れ始めていた。

『カチ、コチ、カチ、コチ』

規則正しいリズム。

それは、まるで心臓の鼓動のようだった。

カチャリ。

裏蓋が、ひとりでに開いた。

中から転がり落ちてきたのは、小さなICレコーダーと、一枚の写真。

写真は、若き日の父と母。

そして、その間に挟まれて、生意気そうに笑う五歳の俺。

膝には絆創膏。

鼻の頭には煤。

「……そうか。あいつは……」

俺は震える手で、レコーダーの再生ボタンを押した。

『あー、あー。テステス』

ノイズ混じりの、父の声。

『健司。これを聴いているということは、俺はもうクタばってるってことだな』

ぶっきらぼうな口調。

『お前は、母さんが死んだ時、俺が仕事を優先したと思ってるだろう。……あれはな、嘘だ』

『母さんの病気は、もう長くないと分かってた。母さんが最期に言ったんだ。「健司が大人になった時、寂しくないように。この時計を直して」ってな』

『この時計は、母さんの嫁入り道具だ。壊れてから十年、誰も直せなかった。俺は必死だったよ。最期の約束を守るためにな』

『間に合わなくて、すまなかった。……俺は、お前が嫌いで仕事をしてたんじゃない。お前の中に、母さんを見ていたから……辛かったんだ。情けねえ親父だよな』

声が、湿り気を帯びていく。

『健司。お前は耳がいい。人の痛みが分かりすぎる。だから、心を閉ざしたんだろ? でもな、時計は直せる。止まった時間も、いつか動く』

『ハヤシライス、食ったか? 隠し味の苦味はな、人生と同じだ。苦いからこそ、甘さが引き立つんだよ』

プツン。

録音が切れた。

「……親父」

俺は、冷めかけたハヤシライスを口に運んだ。

苦い。

そして、どうしようもなく甘い。

涙が頬を伝い、皿に落ちた。

「……嘘つき野郎」

父はずっと、時間を守っていたのだ。

俺という、壊れかけた時計の時間を。

第四章 時を刻む音

翌朝。

不動産屋に電話をかけた。

『もしもし、真島様? 売却の手続きですが……』

「すいません。あれ、なしにしてください」

『えっ?』

「店は売りません。……俺が継ぎます」

『しかし、東京のお仕事は?』

「リモートでなんとかなりますよ。それに……」

俺は、作業場で時を刻むのっぽ時計を見上げた。

ガラスは磨き上げられ、朝日を反射して輝いている。

「直さなきゃいけない時計が、たくさんあるんでね」

電話を切り、シャッターを開ける。

潮風が店内に吹き込み、埃をさらう。

通りがかりの近所の老婆が、足を止めた。

「あら、健ちゃん。帰ってたの?」

「ええ、おばさん。……時計、調子悪くないですか?」

俺は笑った。

もう、ノイズは聞こえない。

聞こえるのは、穏やかな秒針の音と、これからの時間(とき)を刻む音だけだ。

作業台の隅。

あの少年が座っていた場所に、俺は古びた写真を飾った。

写真の中の少年が、ニシシと笑った気がした。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 真島健司: 主人公。35歳。繊細すぎる聴覚(感受性)を持つがゆえに、ノイズを遮断するために心を閉ざした。父への誤解を抱えたまま別れたことを悔やんでいる。
  • 少年(幻影): 健司の前に現れた不思議な子供。その正体は、過去の記憶が具現化した「幼き日の健司」自身。
  • 父(真島源三): 故人。無口で不器用な時計職人。妻との約束を守るため、そして息子を守るために、孤独に時計と向き合い続けた。

【考察】

  • 時計のメタファー: 本作における「時計」は単なる機械ではなく、「人の心」そのものを象徴している。錆びついて開かない裏蓋は、健司の閉ざされた心とリンクしている。
  • 味覚と記憶: ハヤシライスの「隠し味の苦味」は、人生における「悲しみや後悔」の暗喩である。苦味があるからこそ甘さが引き立つ(=悲しみがあるからこそ愛の深さを知る)というテーマが込められている。
  • 幻影の役割: 少年が健司に反発したのは、健司自身が「過去の自分(純粋な感情)」を否定していたからである。ハヤシライス(=父の愛の記憶)を受け入れた時、少年が消えたのは、過去と現在が統合されたことを意味する。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る