第一章 陽だまりと焦げ付いた記憶
調香師である僕、水島湊のアトリエには、秘密の棚がある。壁一面を覆うその棚には、アンティークの薬品棚のように整然と、無数の小さなガラス瓶が並んでいる。ラベルには日付と短いメモが記されているだけ。しかし、僕にとって、それらは単なる液体のコレクションではなかった。ひとつひとつが、失われた時間のかけら、封じ込められた家族の記憶そのものだった。
僕には、物心ついた頃から奇妙な能力があった。強い感情を伴う記憶を、「香り」として抽出し、保存できるのだ。蓋を開けてひと嗅ぎすれば、その瞬間の光景、音、肌触りまでが、幻灯のように鮮やかに心の中に蘇る。
指先が、ひときわ大切にしている一本の瓶に触れた。『母・向日葵の庭』と記されたラベル。コルク栓をそっと抜くと、ふわりと温かく、甘い香りが立ち上った。干したてのシーツと、ミルクティーの湯気、そして微かに混じるカモミールの香り。それは、僕が七つの頃、病床の母と縁側で日向ぼっこをした記憶の香りだった。
「湊の髪は、お日様の匂いがするね」。そう言って僕の頭を撫でた母の、少し乾いた指先の感触。白いブラウスに落ちる柔らかな陽光。この香りは、僕の世界で最も安全で、満たされた場所だった。母が亡くなって十年以上経つ今も、この瓶だけが、母の温もりを僕に与え続けてくれる。
父との記憶は『書斎のインクと古い紙』の香り。姉・遥との記憶は『金木犀と雨』の香り。どれもが僕を形作ってきた、愛おしい時間の断片だ。しかし、その日、僕の聖域に異変が起きた。
いつものように棚の埃を払っていた時、ふと指が止まった。『姉・秋祭りの夜』とラベルが貼られた瓶。これは、遥と二人で内緒で抜け出した近所の神社の、甘い綿菓子とりんご飴の香りのはずだった。だが、ガラス越しに見える液体は、澄んだ琥珀色から、澱んだ泥のような色に変色している。
まさか。
胸騒ぎを覚えながら、震える手で栓を抜いた。途端、鼻腔を突き刺したのは、甘い記憶とは似ても似つかぬ、鋭く不快な匂いだった。それは、何か大事なものが焦げ付いてしまったかのような、苦く、ひりつくような香り。煙たさと、金属が擦れるような軋む音さえ連想させた。そこには、楽しかった秋祭りの夜の面影はひとかけらもなかった。
これは何だ? 幸せな記憶の香りが、なぜこんな絶望を凝縮したような悪臭に変わってしまったんだ? ガラス瓶を握りしめたまま、僕はその場に立ち尽くした。それは、僕の過去が、僕の家族の歴史が、根底から汚され、書き換えられてしまったかのような、冒涜的な感覚だった。棚に並んだ他の瓶たちが、まるで時限爆弾のように見えた。
第二章 亀裂の在り処
姉の記憶の香りが変質して以来、僕のアトリエは静かな悪夢に包まれた。棚に並ぶ瓶の一つ一つが、いつか腐臭を放つのではないかという恐怖に苛まれ、僕は自分の能力そのものを呪い始めていた。家族の記憶は、僕にとって揺るぎない聖域だったはずだ。その一部が、何の前触れもなく崩れ落ちた。
焦げ付いた香りの瓶を実験台に載せ、僕は原因の究明を試みた。成分を分析しようとしても、僕の能力で生み出された香りは、科学の物差しでは測れない。それは物質でありながら、魂の写し身のようなものだったからだ。
考えられる可能性は二つ。僕の能力に異常が生じたか、それとも、この香りの持ち主である姉・遥の身に何かがあったか。
最後に遥と会ったのはいつだったか。記憶を辿れば、三年前に祖母の法事で顔を合わせたのが最後だ。大学進学を機に家を出た姉は、卒業後も実家には戻らず、遠い街で一人暮らしをしていた。昔はあんなに仲が良かったのに、いつからか僕たちの間には、言葉にできない距離が生まれていた。
スマートフォンの連絡先から、何年も動かしていない「姉」の名前をタップする。呼び出し音が、やけに大きくアトリエに響いた。だが、コール音は虚しく続くだけで、留守番電話に切り替わってしまった。メッセージを残す気にもなれず、僕は通話を切った。
その時、ふと数週間前の出来事が脳裏をよぎった。出張先の父から届いた、短いメッセージだ。『遥が結婚するらしい。相手は会ったことがないが、良い人だそうだ』。たったそれだけ。僕は、自分に何の相談もなかったことに、子供じみた寂しさと、微かな裏切りにも似た感情を抱いたのを覚えている。姉さん、僕を家族だと思っていないのか。そんな黒い感情が胸の奥で渦巻いた、まさにその日の夜に、僕は香りの異変に気づいたのだ。
まさか、僕の嫉妬心が、姉の幸せな記憶を汚してしまったというのか?
慌てて、他の瓶を手に取った。父の『書斎のインクと古い紙』の香り。嗅いでみると、確かにいつもの、知性と安らぎを感じる香りだ。しかし、その奥に、これまで感じたことのない希薄さ、インクが掠れていくような頼りなさを感じ取った。家族の記憶が、僕の心を映す鏡のように、その姿を変え始めているのかもしれない。僕が家族を信じられなくなれば、この美しい香りのクロニクルもまた、色褪せて崩壊していくのだろうか。
胸を締め付けるような孤独感が押し寄せる。僕は、確かめなければならなかった。この亀裂が、僕の内側から生まれたものなのか、それとも、僕の知らない外側の世界で起きていることなのかを。
僕は上着を羽織ると、焦げ付いた香りの瓶をカバンの奥にしまい込み、アトリエの扉を開けた。行き先は決まっている。姉が住む、北の街だ。
第三章 金木犀と未来の香り
新幹線と在来線を乗り継ぎ、半日以上かけてたどり着いた姉の街は、潮の香りがする寂れた港町だった。父から聞き出した古いアパートの住所を頼りに、錆びついた階段を上る。ドアの前に立ち、深呼吸を一つ。インターホンを押す指が、微かに震えた。
数秒の沈黙の後、ドアがゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、記憶の中よりも少し大人びた、しかし紛れもない姉の遥だった。
「……湊? どうしてここに……」
驚きに目を見開く遥に、僕は言葉を詰まらせた。何と言えばいい? 昔の思い出が腐った匂いになったから、心配で来た、なんて。
僕が言い淀んでいると、遥は何かを察したように僕を部屋に招き入れた。ワンルームの小さな部屋は、ダンボール箱がいくつか積まれているものの、清潔に片付いていた。
「ごめん、急に。電話も繋がらなかったから」
「ああ……ごめん。携帯、海に落としちゃって。それより、本当にどうしたの? 何かあった?」
心配そうに僕の顔を覗き込む遥の瞳は、昔と変わらず優しかった。僕は意を決して、カバンから例の瓶を取り出した。
「姉さん、これを覚えてる?」
瓶を見た瞬間、遥の表情が凍りついた。彼女はゆっくりとそれを手に取ると、恐る恐る栓を開け、そして眉をひそめた。
「……ああ、やっぱり。あなたのところにも届いちゃったんだね。ごめんなさい、湊」
「届いたって……どういうこと? この香りは、僕たちの記憶じゃなかったのか?」
僕の問いに、遥は静かに首を振った。そして、彼女の口から語られたのは、僕の想像を遥かに超える、衝撃的な事実だった。
「私にもね、あなたと同じような力があるの。でも、少しだけ違う」
遥は言った。僕が「過去の記憶を香りにする」能力なのに対し、彼女は「未来に起こる出来事の感情を、香りで予知する」能力なのだと。
「その瓶はね、私が作ったものなのよ。湊が生まれる前、お母さんのお腹にいるあなたを想って、『未来の弟との、幸せな記憶』を願って作った、未来の香りだったの」
だから、金木犀の香りがしたんだ。僕が生まれた季節の香り。それは、僕の過去の記憶などではなく、姉が僕のために紡いでくれた、未来への祈りそのものだったのだ。
「じゃあ、この焦げ付いた香りは……」
「私の、今の気持ち」と遥は小さな声で言った。「結婚が決まって、すごく嬉しい。彼も、私の力のことを理解してくれている。でも……同時に、怖くなったの。新しい家族を作ることで、湊や、お父さんとの繋がりが、このまま消えてしまうんじゃないかって。あなたを置いていってしまうような罪悪感と、未来への不安がごちゃ混ぜになって……私のその気持ちが、時を超えて、あなたの持っている瓶に影響を与えてしまったんだと思う」
姉の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「ごめんね、湊。私の不安が、あなたの宝物を壊してしまった」
僕は言葉を失った。香りの変質は、僕の嫉妬心のせいでも、姉の裏切りでもなかった。それは、僕たち姉弟が、離れていても、言葉を交わさなくても、魂の深いところで繋がっている証だったのだ。焦げ付くような香りは、僕を拒絶するものではなく、助けを求める姉の悲鳴だった。僕は、その悲鳴に気づけずに、一人で孤独に怯えていただけだったのだ。
第四章 新しい瓶に注がれる光
姉の告白を聞き、僕は自分の胸のつかえが、すっと溶けていくのを感じた。僕たちはずっと繋がっていた。ただ、その繋がり方が、僕の知らない形に変わっていただけだったのだ。
その夜、僕は遥の婚約者である悟さんを紹介された。彼は穏やかで誠実そうな人で、遥を心から大切にしていることが伝わってきた。僕が調香師であること、そして僕たちの持つ不思議な力について話すと、彼は驚きながらも、真摯に耳を傾けてくれた。
アパートに戻り、僕はカバンから携帯用の調香キットを取り出した。
「姉さん、新しい香りを作らせてほしい。姉さんの、新しい門出のための香りを」
僕は、持参していたいくつかの香りのエッセンスをテーブルに並べた。中心に置いたのは、母の記憶が詰まった『陽だまりの香り』の小瓶。そこへ、父の知性と安定を象徴する『書斎のインクと古い紙』の香りを数滴。そして最後に、僕自身の「未来への祝福」の想いを込めて、夜明けの空気のような、澄んだベルガモットの香りを加えた。
それは過去と現在、そして未来を繋ぐ香り。バラバラになった家族の想いを、再び一つに束ねるための香りだった。
出来上がったばかりの香水を染み込ませたムエット(試香紙)を、僕はそっと遥に手渡した。彼女がそれを静かに鼻先へ持っていく。
途端に、遥の瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに涙で潤んでいった。
「……お母さんの匂いがする。でも、懐かしいだけじゃない……新しい匂い。すごく、暖かい……」
それは、陽だまりの中で、古い本のページをめくりながら、新しい朝の光を迎えるような、希望に満ちた香りだった。姉を縛り付けていた、焦げ付くような不安の香りが、その優しく力強い光に照らされて、霧散していくのが分かった。
悟さんが、そっと遥の肩を抱き寄せる。部屋を満たす新しい香りが、三人を優しく包み込んでいた。
数日後、自宅のアトリエに戻った僕は、秘密の棚へと向かった。そして、あの『姉・秋祭りの夜』と記された瓶を手に取る。
栓を抜くと、驚いたことに、あの不快な焦げ付いた香りは完全に消え失せていた。代わりに鼻腔をくすぐったのは、懐かしい金木犀の甘い香りに、僕が姉のために作った祝福の香りが、まるでリボンのように寄り添う、より複雑で、より豊かで、美しい香りだった。
記憶は、過去に固定された剥製などではない。それは生きている。現在と繋がり、未来に向かって絶えず姿を変え、成長していくものなのだ。
僕は、棚の一番よく光が当たる場所に、新しい空のガラス瓶を一つ、そっと置いた。
そこには、まだ名前のない、未来の家族の記憶が注がれるのを待つ、無限の可能性が広がっていた。窓から差し込む午後の光が、その空っぽの瓶を内側から照らし、虹色の輝きを放っている。僕のクロニクルに、新しいページが加えられた瞬間だった。