無彩色のパレットと、色の見えない家族
第一章 灰色の鑑定士
僕、相沢リヒトの仕事は、他人の家族に触れ、その関係性の色彩を視ることだ。それは一種の祝福であり、呪いでもあった。指先が肌に触れた瞬間、家族の間に流れる感情が、鮮やかなオーラとなって僕の網膜に焼き付く。深い信頼は海の底のような瑠璃色に、弾けるような喜びは陽だまりの黄金色に。人々は僕を『色彩鑑定士』と呼び、自らの家族の絆の色を知りたがった。
しかし、世界は静かに色を失いつつあった。
石畳の道を行き交う人々のオーラは、まるで洗い晒した布のように褪せている。かつて街を彩っていた鮮やかな感情の光は影を潜め、建物の輪郭も、空の色さえも、鈍い灰色のフィルター越しに見ているかのようだ。『無彩色化』と呼ばれるこの現象は、じわりと、しかし確実に世界を蝕んでいた。
公園のベンチに座る親子に、僕は依頼を受けてそっと触れた。母親の肩に置かれた幼い手のひら。そこから立ち上ったのは、かろうじて青みを保った、薄い水色の靄だった。かつてはきっと、空の青をすべて溶かしたような鮮烈な色だっただろうに。
「絆の色は、まだここにあります。大切に育んでください」
僕は乾いた声でそう告げた。母親は安堵したように微笑んだが、その笑顔の色さえも、どこか儚げだった。
仕事を終え、自宅のドアを開ける。リビングから聞こえるのは、両親の些細な口論と、妹の呆れたような溜め息。この家には、僕が視ることのできる『色』が存在しない。何度試しても、父の肩に、母の手に、妹の髪に触れても、僕の目には何も映らない。ただ、生身の人間の温かさだけがそこにある。
色彩を失っていく世界で、僕の家族だけが、初めから無色透明だった。その事実が、鉛のように重く僕の胸にのしかかっていた。
第二章 止まった時間と祖母の言葉
自室の机の上で、祖母の形見である銀の懐中時計が静かに横たわっていた。繊細な彫刻が施された蓋を開けると、止まったままの長針と短針が、永遠の沈黙を告げている。文字盤を飾る七つの小さな宝石は、本来なら虹の色彩を宿すはずなのに、今はすべてが光を失い、ただの灰色の石ころにしか見えなかった。
『本当の色はね、リヒト。目に見えないものの中にこそ宿るんだよ』
幼い頃、祖母が僕の手を握りながら言った言葉が、耳の奥で蘇る。その時の祖母の手は、とても温かかった。でも、やはり色は見えなかった。
「お兄ちゃん、またそれ見てるの?」
不意にドアが開き、妹のリナが顔を覗かせた。
「別に。……ただ、考えてただけだ」
「ふーん。ご飯できたって。またお父さんとお母さん、しょうもないことで喧嘩してるけど」
リナはそう言って笑う。彼女の屈託のなさが、時々ひどく羨ましかった。
食卓は、予期した通りの気まずい空気に満ちていた。テレビのリモコンの在り処を巡る、実にくだらない口論の残り火が燻っている。僕は黙々と食事を口に運んだ。この色のない空間で、僕だけが世界の色彩の喪失を嘆いている。なんて滑稽なんだろう。僕の家族は、世界が灰色になるずっと前から、壊れていたのかもしれない。そんな考えが、冷たい霧のように心を覆った。
第三章 完璧な家族の白金色
ある日、僕の元に一件の特別な依頼が舞い込んだ。街で最も理想的だと評判の、斎藤一家からの鑑定依頼だった。彼らの家は雑誌の切り抜きのように整然とし、家族は常に穏やかな微笑みを浮かべている。彼らの周りだけは、世界の『無彩色化』とは無縁であるかのように、輝いて見えた。
応接室に通され、僕は緊張しながら斎藤夫妻と二人の子供たちに向かい合った。彼らは完璧なハーモニーを奏でる四重奏のように、互いを見つめ、微笑み合っている。
「私たちの絆の色を、ぜひ視ていただきたいのです」
主人の穏やかな声に促され、僕は彼らが差し出した手に、そっと自分の指先を重ねた。
その瞬間、視界が灼かれた。
目も眩むような、強烈な『白金色』の光。それは青でも黄でも赤でもない、すべての色を超越したかのような、絶対的な光だった。純粋で、一点の曇りもない、神々しささえ感じる輝き。
「……素晴らしい。これほどまでに純粋な光は、見たことがありません」
僕の声は震えていた。これこそが、家族の絆の究極の形なのだ。僕の色のない家族とは、何もかもが違う。
しかし、鑑定を終えて斎藤家を辞した時、奇妙な違和感が胸に残った。あの白金色の光は、あまりにも均一で、温度がなかった。まるで、精巧に作られたガラス細工のようだ。そして、彼らの家を一歩出た瞬間、街の灰色が、ほんの少しだけ深くなったような気がした。
第四章 世界が色を失った日
その異変は、突如として世界を襲った。
朝、目を覚ますと、窓の外の景色から一切の色が消え失せていた。空は濃淡の異なる灰色が塗りたくられ、木々の葉は鉛色に、咲き誇るはずだった花々は、まるで古い写真のようにモノクロームと化していた。街中から人々の悲鳴が聞こえる。テレビはどのチャンネルも、この世界的現象を報じるアナウンサーの青ざめた顔を映し出していた。
『無彩色化』の、最終段階。
僕の胸を、得体の知れない恐怖が鷲掴みにした。そして、直感が叫んでいた。この異変の中心は、あの斎藤家だと。僕はコートを羽織ると、家を飛び出した。
斎藤家の屋敷に近づくにつれて、空気が冷たく張り詰めていくのを感じた。そして、見た。屋敷全体が、あの冷たい『白金色』の光に包まれている。光は巨大な奔流となって天に昇り、周囲の風景から、最後の色彩さえも貪欲に吸い上げていた。
庭に、斎藤一家が佇んでいた。彼らの顔には能面のような完璧な笑顔が貼り付いている。
「見てください、リヒトさん」主人が僕に気づき、恍惚とした表情で言った。「私たちの愛が、世界を浄化しているのです。不純な感情、不揃いな色彩はもう必要ありません。すべてがこの完璧な白金色に統一され、世界は真の調和を迎えるのです」
彼らの過剰なまでの『完璧』への執着が、多様な感情のグラデーションを否定し、世界を一つの色――『無色透明』な理想――へと塗り潰そうとしていたのだ。絶望が、僕の足元から這い上がってきた。
第五章 透明な盾
「リヒト!」
背後から、母の切羽詰まった声がした。振り返ると、父と母、そしてリナが、息を切らして駆け寄ってくる。
「こんな危ないところに一人で!」
「馬鹿お兄ちゃん、心配したんだから!」
父は何も言わず、僕の肩に無言で手を置いた。その手は、かすかに震えていた。
彼らが僕の前に立った、その瞬間だった。世界の見え方が、反転した。
斎藤家から放たれる白金色の光が、僕の家族にぶつかり、まるで硬いガラスに当たったかのように、その軌道をしなやかに歪ませたのだ。色は見えない。しかし、確かにそこに、何か強大な『力』が存在していた。それは、白金色の侵食を阻む、不可視の障壁。
透明な、盾。
喧嘩もする。すれ違いもする。完璧とはほど遠い、僕の家族。そのだらしなくて、格好悪くて、ありのままの日常。そのごちゃ混ぜで不完全な感情のすべてが、単一の色に染まることを、本能で拒絶していたのだ。
第六章 懐中時計の鼓動
僕は悟った。僕の家族の色が見えなかったのは、『無色』だったからじゃない。
喜びの黄色、悲しみの藍色、怒りの赤、安らぎの緑。そのすべてがあまりにも複雑に、あまりにも豊かに混ざり合っていたからだ。無数の絵の具をパレットの上で混ぜ合わせると、最終的に黒に近い無彩色になるように。僕の家族の愛は、あまりにも多様な色彩を内包していたために、僕の目にはただの『透明』としてしか映らなかったのだ。
『本当の色は、目に見えないものの中にこそ宿る』
祖母の言葉が、雷鳴のように頭の中で響き渡った。この『透明』こそが、すべての色を内包し、守り抜くことができる、最強の色だったのだ。
僕はポケットから、冷たくなっていた懐中時計を取り出した。そして、震える手で、僕を囲む家族の手に、そっと触れた。父の武骨な手、母の少し荒れた手、リナの小さな手。温かい。ああ、これが僕の家族だ。
その愛を、生まれて初めて、能力ではなく心で感じた。
カチリ、と小さな音がした。
見ると、懐中時計の止まっていた針が、微かに動き出していた。そして、文字盤に嵌め込まれた灰色の宝石が、一つ、また一つと、本来の輝きを取り戻していく。情熱のルビー、慈愛のサファイア、希望のエメラルド……。七つの宝石が、鮮やかな虹色の光を放ち始めた。
第七章 ありのままの色彩を
懐中時計から溢れ出した七色の光は、優しい光の帯となって空へと伸び、斎藤家を包む冷たい白金色の光を、春の雪を溶かすように打ち消していった。能面のような笑顔を浮かべていた斎藤一家は、光が消えると同時に、はっと我に返ったように互いの顔を見つめ、泣き崩れた。
灰色の空に、大きな、大きな虹がかかる。
その光が地上に降り注ぐと、モノクロームだった世界は、まるで洗い立てのように鮮やかな色彩を取り戻していった。道端の草花が、家々の屋根が、人々の衣服が、それぞれの固有の色を取り戻していく。世界は再び、不完全で、不揃いな、美しいグラデーションに満たされた。
僕はもう、他人の家族の色を鑑定する必要はないだろう。大切なのは、見ることじゃない。感じることだ。
隣で、リナが僕の手を握っていた。母が僕の頭をそっと撫で、父が照れくさそうに顔を背けている。色は見えない。でも、僕にはわかった。この温もりこそが、僕の家族の、世界で一番美しい色なのだ。
僕の手の中で、祖母の懐中時計は、確かなリズムで時を刻み続けている。世界は、まだ始まったばかりだ。僕たち家族のように、不格好で、不完全で、それでも愛おしい色彩を、これからゆっくりと紡いでいくのだろう。