第一章 鈍色の遺言
父が倒れたのは、初夏の強い日差しがアスファルトをじりじりと焼く、そんな日の午後だった。知らせを受けて病院に駆けつけた僕、陽太(ようた)に、医者は淡々と、しかし残酷なほど明確に「余命三ヶ月」と告げた。癌だった。すでに全身に転移しており、手の施しようがない、と。
僕の父、正一(しょういち)は、「記憶結晶職人」だった。この世界では、人の強い思い出は脳内で微小な結晶の核を生成する。職人は特殊な技術でその核を抽出し、磨き上げることで、持ち主の記憶を半永久的に保存する「追憶のプリズム」と呼ばれる工芸品を作り上げるのだ。それは、美しい思い出ほど透明に輝き、高値で取引された。父の仕事は、その道では名の知れたものだったが、僕には古臭く、非効率な世界の遺物にしか思えなかった。デジタルで無限に記憶を保存できるこの時代に、たった一つの思い出を、わざわざ高価な石ころに変える意味が分からない。だから僕は、家業を継ぐことを頑なに拒み、都会のIT企業で働くことだけを夢見ていた。
病室のベッドで横たわる父は、驚くほど痩せていた。皺の刻まれた手が、か細く僕を招く。
「陽太……」
掠れた声だった。
「最後に、お前にしか頼めない仕事がある」
父は枕元に置かれていた桐の箱を指差した。中には、これまで僕が見たこともないほど巨大な、未加工の結晶が入っていた。だが、その輝きは奇妙だった。透明でもなく、かといって悲しみの記憶が作るという黒い澱(おり)があるわけでもない。ただひたすらに、奥深くまで曇った、鈍色の塊。まるで、分厚い霧に閉ざされた冬の湖面のようだった。
「これを……磨いてほしい。俺の道具と、俺のやり方で」
「こんなもの、何のだよ」
僕の不躾な問いに、父は一度だけ目を強く閉じ、そして静かに開いた。その瞳の奥に、今まで見たことのない深い哀しみが揺らめいた。
「お前の母親の……最後の思い出だ」
母、美咲(みさき)は、僕が五歳の頃に病気で死んだと聞かされている。父はそれ以来、母の話を一切しなかった。家には母の写真一枚すらなかった。その母の「最後の思い出」が、なぜこんなにも奇妙で、不気味な光を放っているのか。そしてなぜ、それを今になって僕に託すのか。
僕の心臓を、冷たい疑惑と、無視できない好奇心が同時に掴んだ。日常が、音を立ててひび割れていく。父の残り少ない命と、この鈍色の結晶が、僕を未知の過去へと引きずり込もうとしていた。
第二章 研磨される過去
父の工房は、ヒノキの香りと、金属を削る微かな匂いが混じり合った、独特の空気に満ちていた。壁一面に並べられた大小様々な砥石(といし)や鑿(のみ)、そして中央に鎮座する古めかしい研磨機。僕はその場所が嫌いだった。過去に縛り付けられた、父そのもののような空間だったからだ。
「結晶の表面に意識を集中しろ。だが、囚われるな。お前の記憶と混ざる。ただ、石の声を聞くんだ」
病院から一時帰宅を許された父は、車椅子の上から弱々しく、しかし厳格な口調で僕に指示した。僕は言われるがまま、鈍色の結晶を研磨機に固定し、スイッチを入れる。低いモーター音と共に、砥石が回転を始めた。
結晶の表面に、冷たい水を垂らしながら、そっと砥石を当てる。
――その瞬間、僕の脳裏に、閃光と共に映像が流れ込んできた。
桜並木の下を歩く、若い男女。男は無骨な手で、しかし優しく女の手を握っている。女は、見たこともないほど幸せそうに笑っていた。それが若き日の父と母であることに、僕はすぐに気づいた。母の笑顔は、春の陽光そのものだった。
「正一さんの作る結晶、いつか見てみたいな。きっと、世界で一番きれいなんでしょうね」
「……ああ」
ぶっきらぼうに答える父の耳が、真っ赤に染まっている。
研磨を進めるたび、次々と「僕の知らない家族の記憶」が再生された。初めて手料理を振る舞って失敗し、二人で笑い転げた日。小さなアパートで、ささやかな結婚式を挙げた日。そして、僕が生まれた日。分娩室の前で、赤ん坊の僕を抱きしめ、静かに涙を流す父の姿。その隣で、疲労の中にも満ち足りた表情で微笑む母。
結晶を削る指先に、熱がこもる。それは研磨の摩擦熱だけではなかった。僕が今まで「古臭い」と切り捨ててきた父の仕事が、どれほど尊いものを扱っていたのか、その一端に触れてしまったからだ。思い出はデータじゃない。それは温もりであり、香りであり、人の心を形作る、かけがえのない光そのものだった。
父への反発心は、少しずつ尊敬へと変わり始めていた。
しかし、結晶の中心に近づくにつれて、流れ込んでくる映像は不穏な色を帯びていった。
母が、時折ひどく頭を痛がり、何もない空間を怯えたように見つめるようになった。父が何かを隠すように、母から結晶生成用の器具を取り上げる場面もあった。母の笑顔から、少しずつ光が失われていく。父との間に、見えない壁ができていく。
一体、何があったんだ。僕の知らない過去の扉が、軋みを上げてさらに開こうとしていた。
第三章 禁忌のプリズム
結晶の核に、ついに砥石の先が触れた。
その瞬間、世界が反転した。僕の意識は、激しい奔流に飲み込まれるように、記憶の最も深い場所へと引きずり込まれた。これは、追体験だ。父の、絶望の記憶の。
そこにいたのは、精神科医と向かい合う父だった。
「奥様は『記憶過多症』です。それも、極めて重篤な」
医者は冷徹に告げた。
「彼女は、あまりに美しい思い出を、高純度で生成しすぎる。常人の脳は、それに耐えられない。幸せな記憶が、毒のように彼女の精神を蝕んでいるんです。このままでは、完全に自己を失ってしまうでしょう」
記憶過多症。美しい思い出を作りすぎるがゆえに、精神が崩壊していく、この世界特有の不治の病。母は、僕が生まれたことによる幸福感の爆発が引き金となり、その病を発症したのだ。僕を愛せば愛すほど、母は壊れていく。
絶望に打ちひしがれる父。しかし彼は、ある禁忌の技術に最後の望みを託した。それは、記憶結晶学の歴史から抹消された外法――「負の記憶置換」。人の記憶から、特定の期間を丸ごと「結晶」として抜き出し、封じ込める技術。それは、被験者の魂の一部を殺すに等しい行為だった。
父は、母を救うために、その禁忌を犯した。
母の中から、「陽太が生まれてからの全ての記憶」を抜き出すことを決意したのだ。幸せで、輝かしい、しかし母を壊していく記憶の全てを。
僕は、父の視点からその施術を見た。特殊な装置につながれた母が、苦しみに顔を歪める。父は涙をこらえ、装置のレバーを引いた。母の頭から、鈍色の光がゆっくりと引きずり出され、一つの巨大な結晶へと凝縮していく。それが、今僕が磨いている、この結晶の正体だった。
施術は成功した。母は記憶過多症から解放された。しかし、代償はあまりに大きかった。彼女は、僕との記憶を完全に失った。ある日、母は僕を見て、怯えたように後ずさった。
「あなたは……誰?」
その瞳には、かつて僕に向けられた愛情の光はどこにもなかった。父は、真実を告げられなかった。自分の息子を認識できなくなった妻の姿を見せることの残酷さに耐えられなかった。数ヶ月後、母は静かに家を出て行った。父が僕に「母さんは死んだ」と嘘をついたのは、僕の心を守るための、苦渋の決断だったのだ。
そして、父が倒れた本当の理由も、この記憶の中に示されていた。禁忌の技術を使った反動は、施術者にも及ぶ。父自身の記憶もまた、少しずつ欠落し、失われていく運命にあった。父は、自分の記憶が完全に消え去る前に、この結晶を僕に託し、言葉では伝えきれない真実の全てを、身をもって体験してほしかったのだ。
全ては、僕を守るため。僕を愛するがゆえの、あまりにも哀しい選択だった。
第四章 未完成の家族写真
工房に、僕の嗚咽だけが響いていた。流れ落ちる涙が、回転する結晶に弾けて、小さな虹を作る。真実の重みに、立っていることすらできなかった。父の沈黙の意味、母の不在の理由、そしてこの鈍色の結晶に込められた、歪で、しかし本物の愛情。全てが、胸を張り裂けさせるほどの痛みとなって僕を貫いた。
それでも、僕は手を止めなかった。震える指で、最後の仕上げを施していく。父が、そして母が、僕のために犠牲にした魂の欠片を、最高の形で完成させなければならない。それはもはや、単なる作業ではなかった。失われた家族の歴史を、僕自身の手で紡ぎ直す、神聖な儀式だった。
やがて、結晶は完璧な形になった。それは、どんな宝石とも違う、不思議な輝きを放っていた。透明な部分には、若き日の両親の幸せな笑顔が。中心に近づくにつれて現れる深い霧の中には、母の苦悩と父の決断が。そして核の奥深くには、僕への愛情だけが、まるで消えない灯火のように、静かに、しかし力強く揺らめいていた。悲しみと愛しさが溶け合った、究極の追憶のプリズム。
僕は完成した結晶を手に、父の病室へ向かった。ベッドの上の父は、もう僕のことも誰だか分からないのか、虚ろな目で天井を見つめていた。
僕は、彼の枕元に、そっと結晶を置いた。
その瞬間、奇跡が起きた。父の瞳が、ゆっくりと結晶に向けられ、焦点が結ばれる。彼の唇が、微かに綻んだ。
「……美咲……」
それは、愛する妻の名を呼ぶ、青年の声だった。
「……きれいだ……とても……」
父は、穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに目を閉じた。それが、父の最期の言葉になった。
父が亡くなって一年が経った。僕は都会へは行かず、あの工房を継いだ。
父のように、ただ思い出を結晶にするだけではない。時には、依頼人の辛い記憶に寄り添い、その結晶にそっと和らぎの光を与える。時には、忘れられた愛情を、再び輝かせる手伝いをする。僕にしかできないやり方で、人の記憶と向き合っている。
工房の片隅には、今もあの鈍色の結晶が、静かに置かれている。それは、父と母と僕の、決して一枚の写真に収まることのなかった、「未完成の家族写真」だ。
完璧な幸せだけが、家族の形ではない。痛みも、犠牲も、哀しい嘘も、全てを抱きしめた先にこそ、本当の愛は存在するのかもしれない。
僕は今日も、結晶を磨く。誰かの失われた光を、この手で見つけ出すために。その鈍色の輝きは、僕にそう語りかけ続けている。