第一章 影の相続
水島湊(みなと)にとって、父親は遠い存在だった。最後に顔を合わせたのはいつだったか、もう思い出せない。東京でグラフィックデザイナーとして独立し、ミニマルな生活を信条とする湊にとって、感情の起伏が激しく、事業に失敗しては酒に溺れる父は、理解不能な過去の遺物でしかなかった。だから、叔母からの電話で父の死を知らされた時も、胸を突くような悲しみはなかった。ただ、空虚な静けさが心を支配しただけだった。
「湊、お前が喪主をやらなきゃならん」
受話器の向こうで、叔母が事務的な声で言った。断る理由もなく、湊は数年ぶりに実家の町へと向かう新幹線に乗った。
通夜は、古びた実家でひっそりと執り行われた。線香の匂いが立ち込める六畳間に安置された父の遺影は、湊の知らない穏やかな顔で笑っている。その写真を見つめる親戚たちの背後に、湊はそれらを見ていた。水島家に生まれた者だけが見ることのできる、特異な現象――『感情の影』を。
それは、人の感情が可視化された黒い霧のようなものだ。喜びや愛情は淡く温かい影となり、悲しみや怒りは濃く冷たい影となって、持ち主の背後に揺らめく。湊自身の影は、常に薄く、形をほとんどなさなかった。感情を抑制することに長けた彼の、ある種のプライドでもあった。
だが、その夜、湊は生まれて初めて見る光景に息を呑んだ。
遺影のすぐそば。父がいたはずの場所に、それは渦巻いていた。今まで見たどんな人間の影よりも巨大で、複雑怪奇な影だった。タールのように粘つき、深く沈んだ悲しみが底なしの沼のように広がるかと思えば、次の瞬間には無数の棘を突き出す激しい怒りが燃え上がる。それは単一の感情ではなく、いくつもの、何十年分もの激情が煮詰められ、絡み合ったキメラのような代物だった。
「なんて……悍(おぞ)ましい遺産だ」
湊が無意識に呟いた、その時だった。巨大な影が、まるで意思を持った生き物のように蠢き、ゆっくりと湊の方へとその先端を伸ばしてきた。逃げようとしたが、足が床に縫い付けられたように動かない。冷たい霧が足元から這い上がり、背筋を駆け上る。そして、ずしりとした重みが、彼の背中にのしかかった。
父の影が、湊に「相続」された瞬間だった。背負ったことのない質量が、湊の身体と、そして彼の空虚だったはずの心を軋ませ始めた。
第二章 不協和音の遺産
東京に戻った湊の日常は、父の影によって侵食されていった。それは、湊の意思とは全く無関係に、独自の感情を垂れ流し続けた。
クライアントとの重要なオンライン会議の最中、背後の影が突然、深い絶望に沈み込み、重く冷たい悲しみのオーラを放ち始める。湊自身は冷静にプレゼンをしているにもかかわらず、画面越しの相手はどこか訝しげな表情を浮かべた。影は家族にしか見えないはずだが、その強烈な情念は、目に見えない圧力となって周囲の空気を歪ませるのだ。
「水島さん、何か……悩み事でも?」
「いえ、何も」
湊は平静を装って答えるが、背中では父の影が嗚咽するように震えている。集中力は削がれ、言葉が上滑りしていく。
またある時は、恋人と穏やかな夕食を楽しんでいる最中に、影が沸騰するような怒りに燃え上がった。棘のような形状に変化し、殺気にも似た威圧感を放つ。恋人はフォークを持つ手を止め、怯えたように湊を見た。
「どうしたの、急に。何か怒ってる?」
「怒ってない。何でもないんだ」
湊は苛立ちを隠して否定する。自分の感情ではない。これは俺じゃない。これは、あの無責任で感情的な男が遺した、厄介な負債だ。そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、影は湊を嘲笑うかのように、より一層激しく脈動した。
湊は父の影を憎んだ。それは彼のミニマルな世界を破壊する、無秩序なノイズだった。彼は父の遺品を整理するという名目で、再び実家を訪れた。この忌々しい影の正体を突き止め、消し去る方法を見つけるために。
書斎だった部屋は、埃と古紙の匂いがした。父がつけていたという日記帳が、机の引き出しの奥から出てきた。パラパラとページをめくる。そこには、湊の知らない父の姿があった。事業の失敗を嘆く言葉。若くして亡くなった妻、つまり湊の母への尽きせぬ後悔。そして、たまに帰省してはすぐに都会へ戻っていく息子への、不器用な愛情の言葉が、走り書きで記されていた。
『湊は俺に似ず、賢くて冷静な子だ。それが誇らしい。だが、あいつは笑わなすぎる。俺のせいだろうか』
湊は日記を閉じた。同情など湧かなかった。これはただの感傷だ。自分を正当化するための言い訳だ。彼は、この影を生み出した父の弱さを、心の底から軽蔑していた。
第三章 影の真実
「その影は、お前の父親だけのものじゃないんじゃよ」
縁側で茶をすすりながら、祖母が静かに言った。実家での調査に行き詰まった湊が、唯一、影の秘密を知るであろう祖母を訪ねた時のことだ。
「どういう意味です?」
「水島家の『感情の影』はな、ただ自分の感情を映すだけのものではない。本当は……愛する者の痛みを、代わりに引き受けるための器なんじゃ」
湊は祖母の顔をまじまじと見た。皺の刻まれた穏やかな表情は、冗談を言っているようには見えなかった。
「昔々、うちの先祖がの。病に苦しむ妻の痛みを少しでも和らげたくて、神に祈ったそうじゃ。『どうか、あの人の苦しみを私にお与えください』と。その時からじゃよ。水島家の人間は、愛する者の悲しみや苦しみを、自分の影として背負えるようになった。それは呪いであり、そして、何より深い愛情の証なんじゃ」
祖母の話は、湊の理解を遥かに超えていた。痛みを引き受ける器? 愛情の証? 馬鹿馬鹿しい。父が誰かの痛みを引き受けるものか。彼はいつだって自分のことしか考えていなかった。
「あいつは……父さんは、自分勝手な人でした。母さんが病気で苦しんでいる時も、事業のことばかりで……」
「そう見えるかのう」と祖母は目を伏せた。「お前の父さんは不器用な男じゃったからな。お前の母さんが亡くなった時、あいつの影は、それこそ世界が終わったかのように泣き叫んでおったよ。そして、お前が一人で寂しさを抱え込んでいるのを見ては、その影はまた一段と大きくなっていった。あいつは、お前の母親の痛みも、そしてお前が感じるはずだった寂しさも、全部自分の影に吸い取ろうとしておったんじゃ」
湊は言葉を失った。全身の血が逆流するような感覚に襲われる。まさか。そんなはずはない。
東京へ逃げ帰るように戻った湊は、あの日投げ出した父の日記を、もう一度手に取った。震える指で、最後の方のページを開く。そこには、以前は気づかなかった、鉛筆で書かれた弱々しい文字があった。おそらく、死を目前にして書かれたものだろう。
『湊。お前がこれを読む頃、父さんはもういないだろう。ずっと言えなかったことがある。お前に背負わせたこの影は、父さんの人生そのものだ。失敗ばかりの、格好悪い人生だった。だが、この影の中には、お前の母さんの痛みも入っている。俺が事業で迷惑をかけた人たちへの罪悪感も入っている。そして……お前が幼い頃から、たった一人で耐えてきた孤独も、父さんが勝手に引き受けて、ここに閉じ込めた』
ページが、湊の目からこぼれた涙で滲んだ。
『お前は、感情を出すのが下手な子だった。それは、父さんのせいだ。だから、お前が背負うはずだった悲しみや苦しみは、全部この影に詰め込んでおく。お前は、何も背負わず、お前の人生を軽やかに生きてくれ。これが、父さんがお前にできる、たった一つの、最後の愛情だ』
湊は嗚咽した。背中の影が、まるで彼の慟哭に呼応するように、静かに、しかし深く、大きく揺れた。それはもはや、悍ましい怪物ではなかった。不器用で、歪で、どうしようもなく巨大な、父の愛の塊だった。軽蔑していた父は、誰よりも深く自分を愛し、湊が見ていない場所で、彼の痛みをずっと肩代わりしてくれていたのだ。
第四章 光を編む者
それから、湊の世界は変わった。父の影は、もはや厄介な遺産ではなく、温かい守護者のように感じられた。
仕事でプレッシャーを感じる時、背中の影はどっしりと構え、父の「大丈夫だ」という声が聞こえるようだった。街角で楽しそうな家族連れを見て、ふと寂しさが胸をよぎると、影はそっと彼を包み込み、その寂しさを吸収してくれた。父の影は、父自身の感情だけでなく、湊の感情にも寄り添い、彼を支える存在へと変化していた。
湊はもう、感情を抑制しなかった。嬉しい時は笑い、悲しい時は泣いた。彼の薄っぺらだった影は、少しずつだが、確かな輪郭と色を持ち始めていた。
ある晴れた朝、湊は鏡の前に立った。背後には、父から受け継いだ、穏やかに揺らめく巨大な影が寄り添っている。そして、その巨大な影の胸のあたりに、彼は小さな光を見つけた。
それは、蛍のように儚く、しかし確かな温もりを放つ、新しい光の点だった。
湊自身の『感情の影』が、父の影の中から、新たに生まれ始めていたのだ。それは、父への感謝と愛情、亡き母への思慕、そして、これから出会うであろう誰かの痛みを、今度は自分が引き受けてもいいという、静かな覚悟の光だった。
家族とは、血が繋がっていることだけを指すのではない。互いの痛みを引き受け、見えないところで支え合い、影と光を織りなしていく、果てしない継承の物語なのだ。
湊は鏡の中の自分に、そして背後の巨大な愛の影に、そっと微笑みかけた。彼の人生はもはやミニマルではなかった。それは、父が遺してくれた無数の感情と共に、どこまでも豊かで、複雑で、そして温かいものになっていた。背負うものができた彼の足取りは、不思議なほど、軽やかだった。