サイレンス・シェアリング

サイレンス・シェアリング

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第一章 誰かの涙、あるいは僕の無関心

月曜の六限目、僕たちの教室はいつも奇妙な静寂に包まれる。それは『共感演習』、通称「メモリー・シェア」の授業だからだ。全生徒に義務付けられたこの授業では、各自が専用のタブレットに「共有したい記憶の断片」をアップロードし、ランダムに選ばれた誰かの記憶をダウンロードする。学園側は「多様な価値観に触れ、共感力を養うため」と謳うが、僕、蒼井湊にとっては、趣味の悪いプライバシーの展覧会でしかなかった。

だから僕はいつも、当たり障りのない記憶を提出する。昨日の夕食のハンバーグの味。通学路で見かけた猫のあくび。感情の起伏が限りなくゼロに近い、無味無臭のデータ。他人の内面に踏み込むのも、自分の内側を覗かれるのも、等しくごめんだからだ。

今日もそのはずだった。ヘッドセットを装着し、意識をタブレットに集中させる。無機質なシステム音が鼓膜を揺らし、ダウンロードが完了したことを告げた。僕が受け取った「誰か」の記憶が、脳内に直接再生され始める。

しかし、それはいつものような退屈な日常の記録ではなかった。

視界に映ったのは、錆びついた手すりと、どこまでも広がる灰色の空。肌を撫でる風は生暖かく、微かに潮の香りが混じっている。学校の屋上だろうか。視線がゆっくりと下を向くと、チェックのスカートの裾と、きつく握りしめられた両の拳が見えた。僕のものではない、華奢な指。

そして、不意に、堰を切ったように熱い雫が頬を伝い、視界が滲んだ。嗚咽を堪える喉の震え、胸を締め付けるような、どうしようもない喪失感。悲しい、という一言では到底表現できない、心が引き裂かれるような痛みが、他人のものであるはずなのに、僕自身の感情であるかのように全身を駆け巡った。誰かが、たった一人で、空の下で泣いている。その孤独な絶望が、僕の心を容赦なく侵食してきた。

再生時間はわずか三十秒。ヘッドセットを外した時、僕の額にはじっとりと汗が滲んでいた。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。周囲を見渡せば、クラスメイトたちは何事もなかったかのようにタブレットを片付け、帰りの支度を始めていた。僕だけが、見ず知らずの誰かの慟哭を、まだ身体の奥底に抱え込んでいた。

これは一体、誰の涙なんだ?

いつもならすぐに削除するはずの記憶データを、僕はなぜか消すことができなかった。それは僕の平穏な日常に打ち込まれた、鋭利で、美しい楔のようだった。

第二章 錆びた手すりの向こう側

あの強烈な記憶を受け取ってから、僕の世界は少しずつ色合いを変え始めた。これまで風景の一部でしかなかったクラスメイトたちの横顔に、ふと、あの屋上で泣いていた誰かの面影を探してしまうようになったのだ。廊下ですれ違う女子生徒のスカートの柄、髪を撫でる風の仕草、その一つひとつが、僕の内でくすぶり続ける謎への燃料となった。

僕は、あの記憶の持ち主を探し始めた。手がかりは少ない。錆びた手すり、潮の香り、そして遠景にぼんやりと見えた、特徴的な赤い鉄塔。僕は昼休みになるたびに、校舎の窓から窓へと渡り歩き、その鉄塔が見える場所を探した。まるで探偵ごっこのようだと自嘲しながらも、足を止めることはできなかった。あの涙の理由を知らなければ、僕の中の何かが前に進めない気がした。

そんな僕の奇妙な行動に、最初に気づいたのは日向葵だった。彼女はクラスの中心にいて、太陽みたいによく笑う、僕とは対極の存在だ。

「蒼井くん、最近ずっと窓の外見てるけど、何か面白いものでも見つけた?」

ある日の放課後、誰もいなくなった教室で、彼女は屈託のない笑顔で話しかけてきた。その手には、僕と同じ型のタブレットが握られている。

「……別に」

僕は素っ気なく答え、視線を逸らした。彼女のような人間とは、関わるべきではない。そう思っていた。

「そっか。でも、もし何か探してるなら、手伝おうか?」

葵は諦めずに言った。その真っ直ぐな瞳に、一瞬、あの記憶の中の悲しみとは似ても似つかない、深い光が宿ったように見えたのは気のせいだろうか。

「余計なお世話だ」

僕は突き放すように言って、教室を後にした。だが、彼女の言葉は棘のように心に刺さったままだった。

数日後、僕はついに赤い鉄塔がはっきりと見える場所を発見した。それは、今は使われていない旧校舎の最上階の窓からだった。立ち入り禁止の札を無視して、軋む階段を上る。埃っぽい空気と、黴の匂いが鼻をついた。記憶の中の潮の香りは、おそらく海が近いこの街の、どこにでもある風の匂いだったのだろう。

最上階の廊下の突き当たり、固く閉ざされた扉に手をかける。鍵はかかっていなかった。ぎい、と重い音を立てて開いた扉の向こうに、僕は見た。

灰色のコンクリート。錆びた手すり。そして、どこまでも広がる空。

記憶と寸分違わぬ風景が、そこに広がっていた。

第三章 共鳴するサイレンス

屋上の真ん中に、誰かが立っていた。夕陽を背にしたそのシルエットは、僕がずっと探していたはずの、しかし最も予想していなかった人物だった。

「……日向さん」

僕の声は、自分でも驚くほど掠れていた。振り返った葵の表情は、いつもの太陽のような笑顔ではなく、静かな湖面のように穏やかで、そしてどこか哀しげだった。

「やっぱり、来たんだね。蒼井くん」

彼女の足元には、花が数本、供えられていた。僕は確信した。あの涙は、彼女のものだったのだ。誰かを弔う、悲しみの記憶。

「あのメモリー・シェアの記憶……あれは、君のものだったのか」

僕は問い詰めるように言った。僕の平穏を乱した張本人を、ようやく見つけ出したのだ。安堵と、説明のつかない苛立ちが入り混じる。

「どうしてあんなものを共有したんだ。あれは……ただの日常の断片じゃない。他人に無理やり背負わせるようなものじゃないだろ」

僕の言葉に、葵はゆっくりと首を振った。その瞳が、僕を真っ直ぐに捉える。

「違うよ、蒼井くん」

「何が違うんだ」

「あの記憶は、私のじゃない」

彼女の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。葵のものではない? では、一体誰の? 僕が混乱していると、彼女は信じがたい言葉を続けた。

「あれは、あなたの記憶よ。蒼井くん、あなた自身の」

頭を鈍器で殴られたような衝撃。思考が停止する。僕の、記憶? 馬鹿なことを言うな。僕が、あんな風に泣くはずがない。僕は、誰かを失ったことなんて……。

「嘘だ」

「嘘じゃない。この学園の『共感演習』の本当の目的を知ってる? 共感力の育成なんて、表向きの理由。本当は、生徒が抱える強い精神的負荷……特に、トラウマになるような強烈な記憶を、本人に気づかれないように少しずつ抜き取って、他の生徒に分配することで希釈化する。それが、このシステムの正体なの」

葵の告白は、僕がよじ登ってきた常識の梯子を、根元からへし折った。僕が受け取ったあの悲しみは、僕自身が過去に経験し、この忌まわしいシステムによって抜き取られ、そして忘れ去っていた記憶の断片だったというのか。

「私のお兄ちゃんも、この学校の生徒だった。卒業してすぐに、自分がおかしくなっていくって言って……結局、自分で命を絶った。私は、その理由を突き止めるためにここに来たの」

葵の声は、静かだが、鋼のような意志が貫かれていた。

「そして、突き止めた。システムが、兄の心を少しずつ削り取っていったんだって。蒼井くん、あなたは覚えてない? 一年前、この屋上から……あなたのたった一人の親友が、足を滑らせて……」

その言葉が引き金になった。

脳の奥底で固く閉ざされていた扉が、激しい音を立ててこじ開けられる。

そうだ。僕は忘れていたんじゃない。忘れさせられていたんだ。

一年前のあの日。親友の和希と、この屋上でふざけ合っていたこと。錆びた手すりに寄りかかった彼が、バランスを崩したこと。僕が伸ばした手が、空を切ったこと。僕のせいだ、と自分を責め、ここで泣き崩れたこと。その記憶のすべてを。

僕が共有されたと思っていた涙は、僕自身の涙だった。

僕が感じていた喪失感は、僕自身が抱えていた絶望だった。

学園は、僕の心を救うために、僕の心そのものを奪い去ったのだ。

足元から地面が崩れ落ちていく感覚。僕は、その場に膝から崩れ落ちた。

第四章 僕たちが選ぶ未来の断片

僕の沈黙は、どれくらい続いただろうか。夕陽が校舎の影に沈み、屋上は藍色の闇に染まっていた。隣に座る葵の体温だけが、かろうじて僕をこの世界に繋ぎとめていた。失われた記憶の奔流は、僕の精神を一度ばらばらに引き裂き、そして、痛みと共に再構築を始めていた。和希の笑い声、交わしたくだらない約束、そして、最期の瞬間の彼の驚いた顔。すべてが、鮮明に蘇っていた。

悲しみは、確かにあった。しかし、それだけではなかった。和希と共に過ごした時間の温かさ、楽しかった思い出。システムが「負荷」として切り捨てた記憶は、僕という人間を形成する、かけがえのない一部だったのだ。

「僕は……逃げてたんだな」

絞り出した声は、自分のものではないように聞こえた。

「悲しみからだけじゃない。他人と関わることから、ずっと。自分の殻に閉じこもっていれば、傷つかなくて済むと思ってた」

他人の記憶を覗くことをあれほど嫌悪していたのは、無意識下で、自分自身の記憶を覗かれることを恐れていたからだったのかもしれない。

「逃げてたんじゃない。逃がされていたのよ」

葵が静かに言った。「でも、もう違う。あなたは思い出した。これからどうするかは、蒼井くんが選べる」

その言葉に、僕は顔を上げた。闇に慣れた目に、葵の真摯な瞳が映る。彼女もまた、兄を失った悲しみを抱えながら、たった一人でこの巨大なシステムと戦おうとしていたのだ。

僕たちは、孤独ではなかった。

翌日、僕は葵と共に、彼女が密かに集めていた仲間たちと合流した。彼らもまた、システムの歪さに気づき、違和感を抱いていた生徒たちだった。僕たちは、それぞれの経験と情報を持ち寄った。メモリー・シェアによって受け取った不可解な記憶の断片。システムの僅かな綻び。それらをパズルのように組み合わせ、学園が行っている非人道的な精神操作の実態を暴くための計画を練り始めた。

もう、月曜の六限目は怖くなかった。僕は、もう無味無臭の記憶を提出しない。代わりに、和希との楽しかった思い出の断片を、そっとアップロードした。誰かにこの温かさが届けばいい、と願いながら。たとえシステムに歪められても、記憶の本質は消えないと信じたかった。

僕たちの戦いが、この学園を、世界を、劇的に変えることができるかは分からない。巨大なシステムの前では、僕たちの行動はあまりに無力かもしれない。

でも、確かなことが一つだけある。

僕はもう、一人で泣くことはない。

再び、葵と二人で旧校舎の屋上に立っていた。あの時と同じ、錆びた手すりの向こうに広がる街の灯りを見つめる。

「ありがとう、日向さん。君が、僕の記憶を見つけてくれた」

「ううん」と葵は微笑んだ。「見つけたのは、蒼井くん自身だよ」

僕たちは、他者の記憶をデータとして共有するのではなく、こうして隣に立ち、同じ景色を見て、言葉を交わすことで、心を分かち合うべきだったんだ。痛みも、喜びも、悲しみも。その全てを抱きしめてこそ、人は本当の意味で強くなれる。

僕の手はもう、空を切ることはない。隣にいる誰かの手を、しっかりと握ることができるのだから。風が僕たちの間を吹き抜けていく。それはもう、ただの潮の香りではなく、明日への希望を運ぶ、優しい風の匂いがした。

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