追憶のプリズム

追憶のプリズム

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第一章 追憶のガラスハウス

海沿いの崖に立つ、全寮制の『汐見崎高等学園』。僕、水無瀬 碧(みなせ あおい)にとって、そこは美しさを崇拝する巨大な祭壇に他ならなかった。

この学園の卒業条件は、ただ一つ。三年間の学園生活の中で見つけ出した「生涯で最も美しいと確信できる記憶」を、特殊な装置で『記憶の結晶』として抽出し、学校に提出すること。それだけだ。単位や試験の成績は、あくまでそのための補助的な指標に過ぎない。

卒業式を間近に控えた二月の終わり。ほとんどの同級生は、自らの結晶を手に学園を去る準備を始めていた。ある者は初恋の人と交わした口づけを、ある者は最後の大会で流した汗と涙を、またある者は仲間と夜通し語り明かした一夜を。それぞれの記憶は、所有者の感情の純度に応じて、様々な色と形を持つ光り輝く結晶となり、中庭の『追憶のガラスハウス』に奉納されていく。

ガラスハウスの中は、さながら宝石箱をひっくり返したようだった。虹色に輝く多面体、滑らかな曲線を描く真珠色の球体、燃えるような赤色の鋭い結晶。それらは卒業生たちの誇りであり、在校生たちの憧れだった。

しかし、僕の胸の内には、結晶化するほどの美しい記憶など、ひとかけらも存在しなかった。

「水無瀬。期限は、あと一週間だ」

担任の白石先生は、溜息混じりに僕に告げた。彼の背後には、僕と同じように結晶を提出できずにいる数人の生徒が、俯いて立っている。僕らは『空っぽ』と呼ばれていた。

「美しい記憶、ですか。先生、美しさの定義とは何でしょう。夕焼けの空、古典文学の修辞、完璧に調律されたピアノの旋律。それらは美しい。ですが、それは僕の『記憶』ではない。ただの知識であり、客観的な事実です」

僕は、いつも通りの皮肉を口にした。感情を揺さぶられることを、どこかで恐れていた。感動は陳腐だ。熱狂は滑稽だ。そうやって心を武装しなければ、この美しさを強制する学園で、自分を保つことはできなかった。

「お前のその捻くれた理屈は聞き飽きた。いいか、これは最後の警告だ。一週間後、お前が『空っぽ』のままなら、留年だ。もう一度、この美しさの地獄を味わうことになる」

先生の言葉は、冷たいガラスのように僕の胸を刺した。ガラスハウスに目をやると、きらきらと光を乱反射させる無数の結晶が、まるで僕の空虚さを嘲笑っているかのように見えた。

第二章 不協和音のオルゴール

残された一週間、僕は半ば自暴自棄になりながらも「美しい記憶」を人工的に作り出そうと試みた。夜の図書館で禁帯出の古書を読み漁り、その耽美な世界に没入しようとした。美術室に籠もり、完璧な光と影を持つ石膏デッサンを何枚も描いた。屋上に立ち、水平線に沈む夕日を、その色彩の変化の一瞬たりとも見逃すまいと睨みつけた。

だが、無駄だった。僕の心は、凪いだ冬の海のように静まり返ったまま、どんな感動の波も受けつけなかった。胸の中にある結晶化装置は、沈黙を保っている。

そんな焦燥の日々の中、僕は一人の風変わりな後輩と出会った。

学園の片隅にある、忘れ去られたような視聴覚室。そこで彼女は、小さなテーブルに向かい、分解されたオルゴールをいじっていた。名前は、確か一年の陽菜(ひな)といったか。肩まで伸びた髪を無造作に束ね、その指先は機械油で少し汚れている。

僕が部屋に入っても、彼女は気づかない。ピンセットを巧みに操り、小さな歯車を慎重に組み込もうとしていた。その真剣な横顔に、僕は思わず声をかけるのをためらった。

カチリ、と小さな音がして、彼女は顔を上げた。僕の存在に気づくと、少し驚いたように目を丸くする。

「あ、すみません。お邪魔でしたか?」

「いや……。何をしているんだ?」

「これです」と彼女が示したのは、古びた木製のオルゴールだった。「少し、調子が悪くて」

彼女がゼンマイを巻くと、オルゴールは途切れ途切れに、掠れた音を奏で始めた。それは誰もが知る有名なクラシック曲だったが、いくつかの音は外れ、耳障りな不協和音を立てている。

「ひどい音だ。壊れているじゃないか」僕は無意識に、そう口にしていた。完璧ではないものに対する苛立ちが、僕の心を支配する。

「そうかも。でも、いいんです」陽菜は柔らかく微笑んだ。「完璧な音色なんて、つまらないじゃないですか。この、ちょっとだけズレてるところが、愛おしいんです」

愛おしい? ガラクタ同然の、不完全な代物が? 僕には到底理解できなかった。

それから数日、僕はまるで何かに引かれるように、その視聴覚室に通った。陽菜はいつもそこにいて、飽きもせずにオルゴールを修理していた。僕たちは、とりとめのない話をした。彼女の故郷の話。僕の好きな本の話。そして、記憶の結晶の話。

「先輩は、どんな結晶を作るんですか?」

「……まだ、何も」

「そっか。でも、きっと大丈夫ですよ」彼女は屈託なく笑う。「ガラクタみたいな思い出だって、自分にとっては宝物になったりしますから」

彼女の言葉は、僕の心の壁を少しずつ、しかし確実に侵食していった。不完全さを肯定するその価値観は、僕がこれまで築き上げてきた美学の対極にあった。理解できない。理解したくない。なのに、なぜか、彼女が奏でる不協和音が、僕の耳から離れなかった。

第三章 ひび割れた完璧

提出期限の前日。焦りは頂点に達していた。僕は視聴覚室へ駆け込み、オルゴールと向き合う陽菜に、抑えきれない感情をぶつけてしまった。

「まだそんなガラクタをいじっているのか! そんな不完全なものに、何の意味がある! 美しいものは、完璧でなければならないんだ! 欠けた月や、破れた絵画に価値などない!」

僕の怒声に、陽菜の肩が小さく震えた。彼女はゆっくりと顔を上げ、その瞳には悲しみと、そして僅かな憐れみの色が浮かんでいた。

「……これは、ガラクタじゃありません」

静かだが、芯の通った声だった。

「これは、事故で亡くなった兄の形見なんです」

陽菜の告白に、僕は息を呑んだ。彼女は続けた。

「兄は、完璧主義者でした。先輩みたいに。このオルゴールの音色に満足できず、自分で改造して、世界で一番美しい音を出そうとしていた。でも、完成する前に……逝ってしまいました」

彼女の指が、オルゴールの傷を優しくなぞる。

「私がこれを直しているのは、兄の遺志を継ぐためじゃありません。私は、兄が完璧を求めて、必死にもがいて、結局は叶わなかった、その不格好な時間そのものが……どうしようもなく愛おしいんです。この不協和音は、兄が生きていた証なんです。私にとって、これ以上に美しい記憶はありません」

不協和音は、生きていた証。

その言葉は、雷となって僕の頭を撃ち抜いた。閉ざしていた記憶の扉が、軋みながら開いていく。

――幼い頃、僕はピアノを習っていた。母親の期待を一身に背負い、来る日も来る日も練習に明け暮れた。目標は、全国コンクールでの優勝。完璧な演奏。一点の曇りもない、美しい音色。

しかし、本番で僕は失敗した。緊張で指が震え、信じられないようなミスタッチをした。ホールに響き渡った、醜い不協和音。泣きじゃくる僕を、母親はただ、悲しそうな、でもどこか優しい目で見つめていた。

あの日以来、僕はピアノに触れていない。あの失敗は、僕の人生最大の汚点だった。醜く、不完全で、価値のない記憶。僕はその記憶に分厚い蓋をして、完璧な美しさだけを追い求めることで、自分を守ってきたのだ。

あれは、本当に醜いだけの記憶だったのか?

必死に鍵盤に向かった日々。母親の期待。指先の痺れ。そして、失敗した瞬間の絶望と、その後に訪れた奇妙な解放感。母親の、あの眼差し。

「……そうか」

僕の口から、乾いた声が漏れた。

「僕にも、あったんだ。不協和音が」

陽菜が、心配そうに僕を見つめている。僕は彼女に背を向け、視聴覚室を飛び出した。向かう先は、一つしかなかった。

第四章 最も醜く、最も美しい光

提出期限、最終日の夕暮れ。僕は、何も持たずに『追憶のガラスハウス』の前に立っていた。白石先生が、諦めと憐憫の入り混じった表情で僕を見ている。

「水無瀬……やはり、ダメだったか」

「いえ」僕は、静かに首を振った。「これから、提出します」

僕はガラスハウスの中央に設置された『記憶結晶化装置』の前に進み出た。周囲にいた生徒たちが、訝しげに僕を見つめる。僕はゆっくりと目を閉じ、意識を集中させた。

思い出すのは、あのピアノコンクールの日。

舞台袖の埃っぽい匂い。スポットライトの熱。冷たく汗ばんだ、象牙の鍵盤の感触。そして、僕の指が奏でてしまった、あの絶望的な不協和音。聴衆のどよめき。頭が真っ白になる感覚。悔しさと恥ずかしさで、涙が溢れた。舞台から逃げるように去った僕を、母親は何も言わずに抱きしめてくれた。その腕の温かさ。

醜い記憶。不完全な記憶。僕がずっと目を背けてきた、僕だけのガラクタ。

でも、今ならわかる。あの失敗があったから、僕はいる。不完全さを受け入れられず、もがき続けてきた時間そのものが、僕の人生だった。

その瞬間、僕の胸の中心が、じんわりと熱くなった。

目を開けると、僕の胸から、おぼろげな光が生まれ、ゆっくりと装置の中へと吸い込まれていった。そして、結晶化ポッドの中に現れたのは――他の誰のとも違う、異質な物体だった。

それは、虹色にも、真珠色にも輝いてはいなかった。

濁った水晶のように不透明で、全体が歪にねじ曲がり、表面にはいくつもの深いひびが入っている。まるで、強い衝撃を受けて砕け散る寸前のような、痛々しい姿だった。

先生も、周りの生徒たちも、息を呑んでそれを見つめている。こんな結晶は、誰も見たことがなかった。

「水無瀬……これが、お前の記憶か」先生が、かすれた声で尋ねた。

僕は、その歪な結晶から目を離さずに、頷いた。

「はい。僕の、最も醜く、そして最も美しい記憶です」

その時、僕の目に、結晶の奥で灯る、小さな光が見えた。数多のひび割れの、その中心で、まるで嵐の中の蝋燭の炎のように、温かい橙色の光が、静かに、しかし確かに揺らめいていた。

僕は、生まれて初めて、自分の不完全さを、心の底から受け入れることができた。口元に、自然な笑みが浮かんでいた。

僕が卒業した後、追憶のガラスハウスに奉納された僕の結晶は、完璧な美しさを誇る他の結晶たちの中で、異質な存在感を放ち続けた。ある者はそれを「失敗作」と呼び、ある者は「不吉だ」と囁いた。

けれど、いつからか、一つの噂が学園に流れるようになった。

どうしようもない失敗をしてしまった者、自分の不完全さに打ちのめされた者、完璧な美しさを見つけられずに苦しんでいる者が、夜、こっそりとガラスハウスを訪れる。そして、ひび割れた僕の結晶を見つめていると、その奥に灯る小さな光に、心が救われるのだ、と。

美しさは、一つではない。完璧さだけが価値を持つわけではない。

ガラスハウスの中で静かに灯り続ける、ひび割れた光。それは、僕が手に入れた、たった一つの、不完全で、愛おしい真実のプリズムだった。

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