ファインダー越しのエチュード

ファインダー越しのエチュード

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第一章 開かずの音楽室とエチュード

放課後の校舎は、まるで巨大な生き物が寝息を立てているかのように静まり返っていた。俺、桜井湊(さくらいみなと)は、その静寂が好きだった。誰の視線も、期待も、失望もない世界。使い古されたフィルムカメラを首から下げ、旧校舎の廊下をゆっくりと歩く。目的は、光と影が織りなす、誰もいない風景を切り取ること。それが俺と世界との、唯一の穏やかな関わり方だった。

カタン、と乾いた音がして足を止める。三階の突き当たりにある「開かずの音楽室」。卒業生が残した悪戯か、それとも本物の怪談か、この部屋の扉は固く閉ざされ、誰も寄り付かない。なのに、今、その扉の隙間から、微かなピアノの旋律が漏れ聞こえてきたのだ。

それは、拙く、途切れ途切れのメロディ。しかし、どこか懐かしく、心を締め付けるような切ない音色だった。誰かがいるのか? 好奇心よりも先に、自分の聖域を侵されたような苛立ちが湧く。俺は錆びたドアノブに手をかけ、力を込めた。ぎいぃ、と耳障りな音を立てて、扉は案外あっさりと開いた。

埃っぽい空気が鼻をつく。夕陽が差し込む室内には、グランドピアノが一台、静かに鎮座しているだけ。誰もいない。なのに、ピアノの音は確かに聞こえた。幻聴だったのか。俺は拍子抜けしながらも室内に足を踏み入れた。床に積もった埃の上には、俺の足跡だけがくっきりと残る。

ふと、ピアノの鍵盤蓋に置かれた一枚の楽譜が目に留まった。黄ばんだ五線譜には、手書きで『君のためのエチュード』とだけ記されている。誰が、何のために。謎だけが、夕陽に舞う埃のように、俺の心の中を漂っていた。

翌日、教室の喧騒はいつも通り俺を世界の隅へと追いやっていた。そんな時だ。担任に連れられて、彼女は現れた。

「月島陽菜(つきしまひな)さんです。みんな、仲良くしてあげてね」

色素の薄い髪が窓からの光を弾き、太陽みたいな笑顔を振りまく彼女。まるで、俺のモノクロの世界に突然、極彩色が飛び込んできたかのようだった。陽菜は空いていた席――俺の隣の席に座った。そして、信じられないことに、彼女は真っ直ぐに俺を見て、にこりと笑いかけたのだ。

「よろしくね、桜井くん」

その声は、昨日音楽室で聞いたピアノの音色のように、澄んでいて、どこか切なかった。俺はただ頷くことしかできなかった。心臓が、錆びついたドアノブのように、ぎこちなく軋むのを感じながら。

第二章 ファインダー越しの笑顔

月島陽菜は、まるで引力そのものだった。彼女がいるだけで、教室の空気が華やぎ、人の輪が自然と生まれる。俺のような日陰の住人とは対極の存在。のはずだった。

「桜井くんの写真、見せてくれないかな」

昼休み、陽菜は屈託のない笑顔で俺に話しかけてきた。断る理由を探すより早く、彼女の真っ直ぐな瞳に射抜かれてしまう。俺は戸惑いながらも、現像したばかりの数枚の写真を彼女に差し出した。誰もいない廊下、空っぽの教室、錆びた蛇口。人のいない、色のない風景ばかりだ。

「へえ……」陽菜は一枚一枚を丁寧に眺め、呟いた。「すごく、優しい写真だね。寂しいけど、温かい。この場所たちのこと、好きなんだね」

優しい? 温かい? 誰にも理解されなかった俺の世界を、彼女はたった一言で言い当ててみせた。胸の奥が、じわりと熱くなる。

「あのさ、今度、私を撮ってくれないかな」

「え?」

「桜井くんのファインダー越しに、私がどう見えるのか知りたいの」

その日から、俺のファインダーは新しい被写体を捉えるようになった。屋上で風に髪をなびかせる陽菜。中庭で猫と戯れる陽菜。図書室の窓辺で本を読む陽菜。彼女はレンズの前でくるくると表情を変え、俺の世界に鮮やかな色彩と生命を吹き込んでいった。

ある放課後、俺たちは自然と旧校舎の三階に来ていた。

「ここが噂の?」

陽菜は興味深そうに「開かずの音楽室」の扉を見つめる。俺が昨日の出来事を話すと、彼女は目を輝かせた。

「そのエチュード、弾いてみたいな」

二人で扉を開けると、昨日と同じ静寂が待っていた。陽菜はピアノに向かうと、埃を払って鍵盤蓋を開け、『君のためのエチュード』を譜面台に置いた。そして、ゆっくりと鍵盤に指を置く。

ポロン……。

紡ぎ出されたのは、昨日俺が聞いた、あの拙く切ないメロディだった。陽菜は時々首を傾げながら、楽譜の先を自分で作るように弾き進めていく。その横顔は真剣で、どこか遠くを見ているようだった。夕陽が彼女の輪郭を黄金色に縁取り、まるでこの世のものではないような、儚い美しさを醸し出している。

俺は無意識にカメラを構え、シャッターを切った。

カシャ。

その音に、陽菜ははっと我に返り、悪戯っぽく笑った。

「どう? 私、ピアニストになれるかな」

「……うん」

言葉を探すよりも先に、肯定が口をついて出た。陽菜と一緒にいると、閉ざしていたはずの心の扉が、少しずつ開いていくのを感じた。この時間が永遠に続けばいい。柄にもなく、そう願ってしまった。だが、彼女の笑顔の裏に、時折よぎる一瞬の翳りを、俺は見逃すことができなかった。それはまるで、遠くない別れを予感させる、夏の終わりの夕暮れのようだった。

第三章 君がいた夏、僕がいた幻

文化祭が近づき、クラスは浮き足立っていた。出し物の話し合いで、誰かが言った。

「月島さん、ピアノ弾けるんだろ? ステージで演奏とかどうだ?」

陽菜は一瞬戸惑った顔をしたが、クラスメイトたちの期待の眼差しに、やがて小さく頷いた。演目は、自然と『君のためのエチュード』に決まった。未完成のその曲を、陽菜が完成させるというのだ。

練習の日々が始まった。放課後の音楽室は、俺と陽菜だけの特別な場所になった。彼女がピアノを弾き、俺がその姿を撮る。陽菜が紡ぐメロディは日増しに豊かになり、物語を帯びていく。それは、出会いの喜びと、共に過ごす時間の愛おしさ、そして、避けられない別れの予感を歌っているようだった。

文化祭を二日後に控えた、蒸し暑い午後だった。練習を終えた陽菜が、少し疲れたようにピアノに寄りかかっていた。彼女のカバンから、一枚の古い写真がはみ出しているのが見えた。何気なくそれを手に取った俺は、息を呑んだ。

色褪せた写真には、ピアノの前に座る二人の子供が写っていた。満面の笑みを浮かべる、幼い陽菜。そして、その隣で照れくさそうに俯いている少年は――紛れもなく、小学生の頃の俺だった。

「それ……」

陽菜の声が震えていた。俺は混乱する頭で、記憶の欠片を必死にかき集める。そうだ、昔、家の隣に住んでいた女の子。病弱で、学校を休みがちだったけど、ピアノが上手で……。そうだ、彼女の名前は、陽菜。

「思い、出した……? 湊」

「どうして……。陽菜は、病気で……あの夏に……」

言葉が続かない。俺の記憶が正しければ、彼女は小学四年生の夏、遠い町の病院で亡くなったはずだ。では、目の前にいる彼女は、一体誰なんだ?

陽菜は、泣き出しそうな顔で微笑んだ。その笑顔は、ファインダー越しに見てきたどの笑顔よりも、儚く、美しかった。

「ごめんね、ずっと黙ってて。私は、幽霊、みたいなものなのかな」

彼女の声は、風に溶けてしまいそうなくらい、か細かった。

「湊にもう一度会いたくて、湊に聴いてほしくて……。この曲、あの夏、湊のために作ってた曲なの。でも、完成させられなかったから……。どうしても、心残りで」

強い想いが、彼女をこの場所に留まらせていた。開かずの音楽室は、幼い俺たちが将来一緒に演奏しようと約束した、思い出の場所だった。あの日のピアノの音は、彼女が俺に送っていた、必死の合図だったのだ。

目の前の世界が、音を立てて崩れていく。俺が過ごしたこの数ヶ月は、全て幻だったのか? 彼女の笑顔も、温もりも、俺の心を溶かした言葉も、全部。

「幻なんかじゃないよ」

俺の心を見透かしたように、陽菜が言った。彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

「湊が撮ってくれた写真の中の私は、ちゃんと笑ってる。湊が感じてくれた温かさは、本物だよ。……でも、もう、時間がないの」

見ると、陽菜の指先が、夕陽の光に溶けるように、少しずつ透け始めていた。曲が完成に近づくにつれて、彼女の存在そのものが、この世から消えようとしていたのだ。俺は、幽霊であるという事実よりも、彼女を再び失うという恐怖に、全身が凍りつくのを感じた。

第四章 光の中のレクイエム

文化祭当日。体育館のステージに置かれたグランドピアノの前に、月島陽菜は静かに座っていた。スポットライトを浴びた彼女の姿は、昨日よりもさらに透き通って見えた。客席の片隅で、俺はカメラを構える。ファインダーの中の彼女は、覚悟を決めたように、穏やかに微笑んでいた。

やがて、彼女の指が鍵盤の上を滑り始める。『君のためのエチュード』が、体育館いっぱいに響き渡った。

それは、完成された、完璧な曲だった。出会いの日の拙いメロディから始まり、共に過ごした日々の輝き、そして、胸を締め付けるような切ない別れの旋律へと続いていく。一音一音が、陽菜の想いの結晶となって、聴く者の心に降り注いだ。

俺は、涙で滲むファインダーを覗きながら、必死でシャッターを切り続けた。彼女が生きた証を、彼女がここにいたという事実を、一枚でも多く、このフィルムに焼き付けたかった。

曲がクライマックスに達した時、陽菜の身体が、柔らかな光の粒子となって、キラキラと舞い始めた。演奏は止まらない。彼女は、その魂のすべてを音に変えているかのようだった。

最後の一音が、優しい余韻を残して消える。同時に、ピアノの前にあった陽菜の姿は、完全に光の中に溶けて消えていた。客席から、割れんばかりの拍手が湧き起こる。でも、俺の耳には届かなかった。ただ、光の粒子が消える間際、彼女が俺に向かって微笑み、「ありがとう」と唇を動かしたのが、はっきりと見えた。

季節は巡り、俺は卒業の日を迎えた。

陽菜がいなくなってから、俺の世界は変わった。もう、人を避けることはない。陽菜がこじ開けてくれた心の扉から、新しい光や風が入ってくることを、恐れなくなった。写真部の仲間と笑い合い、他愛のない話で盛り上がる。そんな当たり前の日常が、今はとても愛おしい。

卒業式の後、俺は一人で、あの音楽室を訪れた。扉を開けると、あの夏の日と同じように、午後の柔らかな光がグランドピアノを照らしていた。埃っぽかった部屋はきれいに掃除され、まるで誰かが今でも大切に使っているかのようだ。

俺はピアノの前に立ち、そっと鍵盤に触れる。冷たい感触。でも、目を閉じると、今でも聞こえる気がした。陽菜が奏でた、あのエチュードが。

俺は首に下げた愛用のカメラを構えた。ファインダーを覗くと、光に満ちた音楽室が、鮮やかな色彩で輝いて見えた。もう、モノクロの世界じゃない。

カシャ。

シャッター音が高く、澄み渡った空に響いた。俺の心の中には、ファインダー越しの君の笑顔が、永遠に焼き付いている。ありがとう、陽菜。君がくれたこの世界で、俺はもう少し、生きてみるよ。

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