第一章 無味のデカダンス
千歳慧(ちとせ けい)にとって、世界は巨大な食卓だった。彼がページをめくる教科書のインクからは、あるいは教師が紡ぐ言葉の響きからは、常に「味」がした。歴史の授業は、年代物のワインのような複雑な渋みと土の香り。数学の公式は、舌を刺す唐辛子のような鋭利な辛味。そして、古典文学は、蜜のようにとろりとした芳醇な甘みを彼の口内に広げるのだ。
しかし、その美食の世界は、静かに終わりを告げようとしていた。
最近、あらゆる知識の味が薄まっている。まるで何度も水で割られた安酒のように、輪郭がぼやけ、深みが失われていた。今日の幾何学の授業などは最悪だった。かつては脳天を突き抜けるほどの清冽な辛味を誇った公理が、今では湿気た煎餅のように味気ない。活発だったはずの討論会も、気の抜けた炭酸水をごくりと飲み干すような虚しさだけが残った。
異変は、彼の舌だけではなかった。慧の視界の端で、校舎の輪郭が時折、陽炎のように揺らめく。重厚なレンガ造りの時計塔が、一瞬だけ向こうの空を透かして見せる。誰も気づかないその微かな崩壊の兆しを、慧は知識の味が消えていく恐怖と共に、確かに感じ取っていた。学び舎を満たしていた「飽くなき知的好奇心」という名の極上のスパイスが、急速に失われている。この学園は、ゆっくりと味を失い、世界から消えようとしていた。
第二章 図書館の幽霊
原因を探るなら、学園で最も濃密な「知の味」が熟成されている場所しかない。放課後の鐘の音を背に、慧は図書館へと足を向けた。古い紙とインクの匂いが混じり合った、本来ならばむせ返るほど芳醇な香りが満ちているはずの空間。しかし、今の図書館は、まるで香りの飛んだ茶葉のように、ただ物悲しい空気を漂わせているだけだった。
書架の間を彷徨う慧の背に、澄んだ声がかけられた。
「何かお探しですか?」
振り返ると、そこにいたのは図書委員の水瀬栞(みなせ しおり)。大きな瞳は好奇心そのものを宿したようにきらきらと輝いている。彼女の存在そのものが、慧にとっては久しぶりに味わう、瑞々しい柑橘のようなはっきりとした酸味を持っていた。
「…味が、しないんだ」
無意識に漏れた言葉に、栞は小首をかしげる。慧は慌てて言葉を濁したが、彼女の興味は別の方向へ向いた。
「味、といえば、この図書館には『開かずの間』があるって噂、知ってる?」
栞は声を潜め、悪戯っぽく笑った。
「その奥には、何も書かれていない真っ白な本が眠っているんですって。『無記の書(むきしょ)』って呼ばれてる、幽霊みたいな本が」
彼女の言葉が持つ爽やかな酸味に引かれるように、慧の足は自然と図書館の最も深い場所へと向かっていた。栞の好奇心は、この味気ない世界で唯一、慧を導く確かな道しるべのように思えた。
第三章 白紙の問い
栞が古びた鍵で開けた扉の先は、埃の匂いが満ちた小さな書庫だった。月光が窓から差し込み、部屋の中央に置かれた一冊の本を白く照らし出している。それが『無記の書』だった。分厚い装丁に反して、そのページは雪原のようにどこまでも真っ白だった。
慧は恐る恐る、その純白のページに指を触れた。
瞬間、襲ってきたのは完全な「無」だった。味も、香りも、温度すらもない。ただ、鉛を抱えたかのような絶望的な重さだけが、彼の腕にのしかかった。ここには知識のかけらもない。自分の味覚がついに壊れてしまったのかと、慧は唇を噛んだ。
「わあ……」
隣で、栞が感嘆の声を上げた。彼女がそっと本に触れると、真っ白だったページに、淡い光を放つ文字がすうっと浮かび上がったのだ。
『なぜ、星は歌わないの?』
それは詩的な、しかし根源的な問いだった。文字は数秒で消えてしまったが、確かな奇跡がそこにあった。
「今、見えた? なんだか、ずっと心の奥にあった疑問が、形になったみたい」
栞は興奮して言った。
慧は、雷に打たれたような衝撃を受けていた。この本は「知識」に反応するのではない。「問い」にこそ応えるのだ。そして、自分がいかに「問い」を生み出す力を失っていたかを、この白紙の本は突きつけていた。与えられた知識を味わうだけの日々の中で、彼はいつしか、自ら未知へと手を伸ばす好奇心そのものを、枯渇させてしまっていたのだ。
第四章 知恵の泉の渇き
『無記の書』は、始まりの鍵だった。慧と栞は、学園創設にまつわる古い文献を読み解き、校舎の地下に隠された動力源――「知恵の泉」の存在を突き止めた。古地図が示す秘密の階段を降りた先には、息を呑むような光景が広がっていた。
巨大な洞窟の中央に、青白い光を放つ巨大な水晶体が鎮座していた。それが『知恵の泉』。そして、その水晶体に向かって、天井から無数の光の糸がゆっくりと引き寄せられ、吸い込まれている。それは、学園の生徒たち一人ひとりから伸びる「問い」の輝きだった。
「ようやくたどり着いたかね」
背後から響いた静かな声に、二人は飛び上がった。そこに立っていたのは、穏やかな笑みを浮かべた学園長だった。
「驚くことはない。これが、我々の学び舎の心臓だ」
学園長はすべてを語り始めた。創設者たちは、生徒が未熟な「問い」で道を誤ることを何よりも恐れた。だから、彼らの心に芽生える純粋な好奇心――「問い」のエネルギーを泉に吸収させ、代わりに泉が濾過した完璧な「答え=知識」だけを生徒に与えるシステムを構築したのだと。
「完璧な知識の伝承。それこそが、創設者たちの掲げた崇高な理想だった」
しかし、その理想は歪んでいた。問いを奪われ続けた生徒たちは、いつしか答えを与えられるだけの器となり、自ら問う力を失っていった。好奇心の枯渇。それが泉の渇き、そして学園の崩壊を招いていたのだ。学園長の顔には、理想の果てにある破滅を前にした、深い疲労の色が浮かんでいた。
第五章 味覚の再構築
ゴウ、と地鳴りのような音が響き、地下空間の壁の一部が砂のように崩れ落ち、透明な向こう側が覗いた。崩壊は、もう止められない段階にまで来ていた。学園長は、ただ立ち尽くすばかりだ。
慧は決意した。
彼の脳裏に、今まで味わってきた無数の「知識の味」が駆け巡る。数学の辛味も、歴史の渋みも、文学の甘みも、その源流には必ず、誰かの「なぜ?」という素朴で、しかし燃えるような問いがあったはずだ。味の記憶を遡り、その根源にある「問いの味」を、この舌で、この心で、再構築するのだ。
慧は栞から『無記の書』を受け取ると、泉の水晶体へと歩み寄った。そして、真っ白な本を祭壇のようにその上に掲げる。
目を閉じ、意識を集中させる。
『なぜ、数は世界を記述できるのか?』――脳髄を焼くような、純粋な辛味の奔流。
『なぜ、人は物語を求めるのか?』――胸を締め付ける、甘く切ない芳香。
『なぜ、我々はここに存在するのか?』――大地を揺るがすような、深く重い渋み。
慧が自身の記憶から紡ぎ出した「始まりの問い」の味が、彼の全身から溢れ出し、『無記の書』を通して『知恵の泉』へと逆流していく。それは、乾いた大地に注がれる恵みの雨のようだった。
第六章 問う者たちの学び舎
泉が、脈動を始めた。青白い光は、より温かみのある黄金色へと変わっていく。システムが反転したのだ。泉はもはや問いを吸い上げるのではなく、生徒たちの心に眠る小さな「なぜ?」を見つけ出し、それを増幅させ、無限の可能性として返す存在へと生まれ変わった。
崩壊していた学園が、その実体を取り戻していく。だが、それは以前のような固定された建造物ではなかった。生徒たちの「なぜ?」という問いの響きに応じて、教室の壁が巨大な数式を描き、図書館の天井が満天の星空となり、廊下が古代遺跡へと姿を変える。学び舎は、答えが眠る場所から、未知を問い続けるための、流動的な空間へと変貌を遂げたのだ。
その変化の奔流の中で、慧は、自分の舌から「味」が消えていくのを感じていた。数学も、歴史も、文学も、もう何も味がしない。ただの記号と情報の羅列になった。長年連れ添った感覚を失う、激しい喪失感が彼を襲う。
だが、その時だった。
「ねえ、千歳くん」
隣に立つ栞が、生まれ変わった校舎を見上げて目を輝かせた。
「この学園、次はどんな形になるんだろう? どんなことが、私たちを待ってるんだろう?」
彼女の言葉が響いた瞬間、慧の心に、味ではない、まったく新しい感覚が流れ込んできた。それは、未来に生まれるであろう無数の「問い」のきらめき。温かい光の粒子のような、希望の予感だった。
第七章 未来の味
味覚を失った慧の世界は、以前より静かになった。だが、彼は寂しくなかった。
生まれ変わった学び舎を、慧は栞と並んで歩く。彼の耳には、生徒たちの「なぜ?」「どうして?」という囁きが、心地よい音楽のように聞こえていた。そして、その声に呼応するように、彼の中の新しい感覚が、まだ誰も見ぬ「問い」の気配を、未来の知識の種子の芽吹きを、確かに感じ取っていた。
それは、答えという完成された果実を味わうのとは違う、問いという種を蒔き、その成長を見守る喜びに満ちていた。
「さあ」
慧は栞に微笑みかけた。
「どんな味の未来を、探しに行こうか」
彼の言葉は、もはや比喩ではなかった。彼の前には、これから生まれるであろう、無限の問いが織りなす、未知のフルコースが広がっていたのだ。