第一章 獣の眼
鉄錆と硝煙の匂いが、カイの肺を満たしていた。彼の視界の端で、対峙する傭兵たちの身体から、赤黒い幾何学模様がオーラのように立ち昇っている。三角形が鋭角的に交差し、歪んだ円が神経質に震える。それは『敵意』の可視化された形であり、カイにのみ許された呪われた光景だった。
「化け物が……!」
一人が吼え、銃口が火を噴く。その瞬間、敵意の模様は爆発的に複雑化し、万華鏡さながらにカイの世界を塗り潰した。呼応するように、カイの心臓が獣の太鼓のように打ち鳴らされる。筋繊維が軋みをあげて膨張し、皮膚の下を何かが駆け巡る感覚。思考は単純化され、ただ目の前の『脅威』を排除するという本能だけが研ぎ澄まされていく。
地を蹴る。銃弾が頬を掠める熱さえも、今は心地よい刺激に過ぎない。コンクリートの壁を蹴り、宙を舞い、敵意の発生源へと肉薄する。ナイフを握る手に力がこもり、指の関節が白く浮き出た。男の驚愕に見開かれた瞳に、獣じみた笑みを浮かべる自分の顔が映り込んでいるのを、カイはどこか遠くで認識していた。
戦闘は、あっけなく終わった。地に伏した男たちから立ち昇っていた幾何学模様は、まるで陽炎のように揺らめき、やがて消え失せていく。後に残されたのは、血の匂いと、カイ自身の荒い息遣いだけ。喉の奥から、乾いた獣の唸り声が漏れそうになるのを、彼は必死に押し殺した。覚醒した身体能力の代償として、人間性の縁に立つこの感覚に、彼はいつまで耐えられるのだろうか。
第二章 無音の噂
「『無音の空間』。知っているかね」
依頼主の老婆、歴史学者のエマは、皺深い指で古びた地図をなぞりながら言った。彼女の身体からは、敵意のオーラは一切出ていない。ただ、好奇心を示すかのように、淡い琥珀色の光が穏やかに揺らめいているだけだった。
「旧大戦の激戦地。本来なら、最大級の『記憶の鉱石』が眠っているはずの場所だ。だが、そこからは砂粒一つ見つからん。それどころか、足を踏み入れた者は皆、記憶の一部を失って戻ってくる」
エマは乾いた咳を一つして、カイの目をじっと見つめた。その瞳は、彼の能力の本質までも見透かしているかのようだった。
「あんたのその『眼』なら、何かが見えるかもしれん」
カイは黙って頷いた。高額な報酬もさることながら、彼自身もその場所に惹かれていた。争いが満ちるこの世界で、唯一『争いの記憶』が存在しない場所。そこに行けば、自分を苛むこの呪いから解放される手がかりが見つかるかもしれない。そんな淡い期待が、胸の奥で燻っていた。
乾いた大地を、旧式の装甲車が進んでいく。車窓の外には、かつての戦争が生み出した大小様々な『記憶の鉱石』が、墓標のように点在していた。それらは憎悪や悲しみの記憶を宿し、鈍い光を放ちながら、新たな争いの火種となるのをただ待っている。世界は、終わらない記憶の循環に囚われていた。
第三章 境界線
『無音の空間』は、あまりにも静かだった。
車を降りた瞬間、空気が変わったことに気づく。風が草を揺らす音も、遠くで鳴く虫の声も、何もかもが薄い膜に覆われたように遠い。足元の枯れ草は、踏みしめてもパリパリという乾いた音を立てなかった。まるで世界から音が奪われたかのような、異様な静寂が支配していた。
カイが視界に集中すると、そこには奇妙な光景が広がっていた。敵意の幾何学模様はどこにもない。代わりに、空間全体が、純白の光の粒子で満たされていた。それは穏やかで、優しく、しかしどうしようもなく物悲しい光だった。カイが今まで感じたことのない、清浄なオーラ。しかし、その清浄さはあまりに完璧すぎて、むしろ死の気配すら感じさせた。
その時、エマの肩に、ふわりと何かが止まった。見ると、翅がガラスのように透き通った、一匹の蝶だった。色という概念が存在しないかのような、完全な無色透明の蝶。
「……おや、綺麗な」
エマが指を伸ばし、蝶に触れようとした瞬間。蝶は静かに飛び立った。エマは、何かを思い出すかのように宙をしばらく見つめていたが、やがて不思議そうな顔で首を傾げた。
「……いけない。何を話そうとしていたか、忘れてしまったよ」
「故郷の話では?」
「故郷……?ああ、そうだったかね。なんだか、どうでもよくなってしまった……。まるで、遠い誰かの話のようだ」
エマは寂しげに微笑んだ。その笑顔を見て、カイの胸に冷たい何かが流れ込んだ。無色の蝶が羽ばたいた軌跡に、大切な記憶が吸い取られて消えていく幻を見た気がした。
第四章 隔離された真実
空間の中心には、巨大な水晶の塔が天を突くように聳え立っていた。近づくにつれて、カイの眼に映る白い光の粒子は密度を増し、まるで吹雪の中にいるかのようだ。これが『無音の空間』の正体だと、直感が告げていた。
カイがおそるおそる水晶の表面に手を触れた、その瞬間。
奔流のようなイメージが、彼の脳内に流れ込んできた。それは、遥か過去の文明の記憶だった。彼らは争いの連鎖を断ち切るため、この巨大な『記憶の隔離装置』を建造した。世界中の憎悪、悲しみ、怒り、あらゆる『争いの記憶』をここに封じ込め、永遠の平和を創り出そうとしたのだ。
だが、計画は失敗した。争いの記憶と共に、それを乗り越えるために生まれた愛や友情、希望といった強烈な感情もまた、この装置に封じられてしまった。感情の起伏を失った人々は生きる意味を見失い、ただ静かに滅びていった。
そして、カイは自らの能力の真実を知る。彼の眼が捉えていたのは、純粋な『敵意』ではなかった。それは、争いを止めたい、平和でありたいという強烈な『意志』の裏返しの形だったのだ。この装置から微かに漏れ出す、封じられた『平和への希求』の残滓を、彼は最も敏感に感じ取る特異体質だったのだ。
その時、足元が激しく揺れた。見ると、水晶の塔に巨大な亀裂が走り、そこから黒い霧のようなオーラが噴き出し始めた。封じ込められていた、数千年分の『争いの記憶』が、限界を超えた装置から漏れ出しているのだ。黒いオーラは、おぞましい幾何学模様を空に描きながら、世界を覆い尽くさんと広がっていく。遠くの街から、絶叫と怒号が聞こえ始めた。
第五章 獣の選択
世界が、壊れる音がした。
カイの視界は、もはや純粋な地獄だった。漏れ出した憎悪のオーラは、天を覆う巨大で複雑怪奇な幾何学模様を形成し、彼の精神を直接焼き付けた。全身の血管が沸騰し、骨が内側から砕け散りそうなほどの力が、彼の身体に宿っていく。神にも等しい身体能力。そして、完全な獣への精神の退行。もはや思考はなく、ただ破壊の衝動だけが彼の全てを支配しようとしていた。
「カイ!」
背後から、エマのかすれた声が聞こえた。彼女の記憶も、この空間の影響で虫食いのように失われているはずだった。それでも、彼女はカイの名を呼んだ。
「お前さんは……獣じゃない……。その力は、何かを壊すためじゃないはずだ……。何かを……守るために……」
その言葉が、獣の闇に沈みかけていたカイの意識の最後の欠片を、強く引き留めた。守る?何を?この、争いに満ちた世界を?いや、違う。守るべきは、エマが今、必死に思い出そうとしている、故郷の記憶のような、ささやかで、しかし何よりも尊いものだ。
カイは、最後の人間性で選択した。
彼は咆哮をあげ、水晶の塔へと向かって跳んだ。亀裂の中心へと、自らの身体を投げ出す。俺が、新しいコアになる。この覚醒した全ての力を使って、世界中の争いの記憶を、そして、それに付随する全ての強い感情を、この身に受け止め、再び封じ込める。
眩い光がカイの身体から放たれ、黒いオーラを飲み込んでいく。それはまるで、自らの身を燃やして闇を払う、最後の星のようだった。
第六章 無色の世界
世界から、争いは消えた。
かつて『記憶の鉱石』と呼ばれたものは、道端の石ころと変わらなくなった。国境線で睨み合っていた兵士たちは、なぜ自分がここにいるのかも忘れ、静かに武器を置いた。街から怒号は消え、憎しみの視線はどこにもなくなった。世界は、かつてないほどの静寂と平和に包まれた。
ただ、世界から『色』が失われていた。
人々は争いを忘れた。しかし同時に、愛する人を想う胸の熱も、友と分かち合った夜の馬鹿げた笑い声も、大切な人を失った時の引き裂かれるような悲しみも、全て忘れてしまった。喜びも悲しみも知らない彼らの瞳は虚ろで、その顔に表情が浮かぶことはない。ただ、生きるために食べ、眠るだけの、穏やかで無気力な日々が続くだけだった。
歴史学者のエマは、丘の上で一人、灰色の空を見上げていた。彼女は、カイという青年のことも、彼が世界のために何をしたのかも、もう覚えてはいない。ただ、時折、理由も分からずに胸が締め付けられ、頬に一筋の涙が伝うことがあった。それが、かつて失われた感情の、最後の残響であることを、彼女は知る由もなかった。
彼女の視線の先で、一匹の無色透明の蝶が、音もなく舞っていた。その静かな羽ばたきが、かつてこの世界に存在した、一人の男の英雄的な選択と、その代償として失われた無数の輝かしい記憶を、永遠の忘却の彼方へと運び去っていくようだった。