世界でいちばん重い栞

世界でいちばん重い栞

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第一章 泥濘(ぬかるみ)の翻訳官

腐った果実と、焦げた鉄。

戦場の空気は、いつだってその二つの臭いで出来ている。

「……ッ、ぐ……」

僕は泥に膝をつき、両手で耳を塞いだ。

イヤーマフなど無意味だ。

脳の血管を直接爪弾くように、死者たちの「声」が響く。

『寒い……右腕がないんだ』

『痛い痛い痛い痛い』

『母さん、ごめん、俺はまだ――』

頭蓋骨の内側で、幾千もの悲鳴が反響する。

僕はエリアス。

死者の最期の言葉を受信する、呪われた翻訳官。

ズン、と内臓を揺らす振動がした。

地面の水たまりが噴水のように跳ね上がり、僕の眼鏡を汚す。

「おい、翻訳官(トランスレーター)。さっさと仕事をしろ」

見上げると、鋼鉄の巨人がいた。

いや、人間だ。

全身を強化外骨格で覆った、我が軍のエース、ガランド少佐。

彼のブーツが地面に触れるたび、湿った土が悲鳴を上げてめり込んでいく。

物理法則「質量転換の罰(カルマ・グラビティ)」。

奪った命の数だけ、その魂の重さが体重に加算されるこの星の呪い。

彼が座れば強化椅子すら飴細工のようにひしゃげ、歩けば舗装道路が粉々に砕ける。

数百人を屠った彼の肉体は、もはや歩く要塞だ。

「て、敵の……通信兵が、さっき……」

僕は震える唇を開く。

喉が干上がり、声がかすれる。

生きた人間は怖い。

特にこの男は、重すぎる業(カルマ)をその身に纏っている。

「そいつの遺言だ。機密コードを吐いたか?」

少佐が一歩近づく。

ズブシュッ。

泥水が彼の膝までを瞬時に飲み込んだ。

このまま彼が歩みを止めれば、明日には地殻の底まで沈んでしまうだろう。

僕は視線を逸らし、そばに転がる「彼」――上半身だけの敵兵の遺体――を見た。

(……ねえ、君。怖かったね)

心で触れると、死者のノイズが止む。

『……故郷の、妹に。隠していた金貨の場所を……』

若き兵士の魂が、すがりつくように囁く。

僕はその透明な頬を撫でるように、脳内で語りかける。

(うん、僕が受け止める。安心して眠っていいよ)

兵士の気配が、満足げに霧散した。

情報を引き出す?

そんな無粋なこと、できるわけがない。

「……い、いえ。最期に呼んだのは……お母さんの名前、でした」

僕は嘘をついた。

「チッ、役立たずが」

少佐が舌打ちをして踵を返す。

ゴゥン、ゴゥン、と地面を破壊しながら遠ざかる背中。

あれだけの重さを背負って、なぜ平気な顔でいられるのか。

僕は胸ポケットに手を当てた。

生地が不自然に伸び、縫い目が悲鳴を上げている。

そこには、鉛の塊のような「栞」が入っていた。

指先で触れる。

一瞬、脳裏に白い病室がフラッシュバックする。

『ねえ、エリアス』

痩せ細った彼女が、酸素マスクの下で笑った。

『本っていいよね。どんなに重い歴史も、言葉になればこんなに軽い』

彼女の最期の言葉が封じられた、世界で一番重い栞。

僕の罪の重さは、まだ物理的な体重にはなっていない。

けれど心臓は、この小さな金属片に、ずっと押し潰されたままだ。

第二章 魂の地層

翌日の戦況は、地獄だった。

敵軍が「重力無効化鉱石」を用いた新型爆弾を投入したのだ。

爆風。

宙に舞う兵士たち。

だが次の瞬間、不自然なほどの引力が彼らを地面に叩きつける。

潰れたトマトのように、人体が弾けた。

『逃げろ!』

『熱い、熱い!』

『愛している、リサ!』

死者の数が爆発的に増える。

頭が割れそうだ。

許容量を超えた遺言の奔流が、僕の自我を削り取っていく。

「……あ、が……!」

塹壕の隅でうずくまり、僕は必死に意識を保とうとした。

その時だ。

混濁する意識の中で、奇妙な「声」の層があることに気づいたのは。

今の戦死者たちの叫びの下。

もっと深く、もっと古く、地層のように重なった声たち。

『……重すぎるんだよ、また沈むぞ』

『間引きが必要だ……バランスが……』

『星の軌道が狂う……』

(え……?)

三〇〇年前の古語だ。

この戦場は、かつての古戦場の上に位置している。

古い死者たちの声が、パズルのピースのように僕の脳内で組み合わさっていく。

なぜ、人を殺すと重くなる?

なぜ、戦争はなくならない?

なぜ、こんな残酷な物理法則が存在する?

ドォォォォン!!

至近距離で砲弾が炸裂し、土砂が僕の背中を打つ。

その衝撃で、思考のピースがカチリと嵌った。

(そうか……これは、罰なんかじゃない)

ただの物理現象だ。

増えすぎた人類の魂。

その総質量が、この惑星の自転すら危うくしているとしたら?

戦争は、増えすぎた魂を「死体」という重石に変え、地面に縫い付けるための杭打ち作業。

僕たちは正義のために戦っているんじゃない。

ただの「バラスト(船の重り)」調整をさせられているだけだ。

『気づいたか、翻訳官』

不意に、地底から響くような集合的無意識の声がした。

『我々は重い。もう、これ以上は支えきれない』

大地そのものが悲鳴を上げている。

このままでは、星ごと砕け散る。

僕の手が、ポケットの栞を握りしめた。

指の骨がきしむほどの重力。

彼女は言った。「言葉になれば軽い」と。

(書き換えるんだ……)

雷に打たれたような衝撃が走った。

魂が質量を持つなら、それを質量ゼロの「概念」に変換すればいい。

死者の未練を「重力」として地面に縛るのではなく、「物語」として空へ解き放つ。

それができるのは、死者の声を聞き、言葉に変えられる僕だけだ。

(痛いだろうな)

本能が警告する。

数万人の魂を翻訳する負荷に、僕の肉体は耐えられない。

でも。

ポケットの中で、あの重たい栞が、トクリと脈打った気がした。

第三章 物語への昇華

「撃てぇ!! 撃ち尽くせぇ!!」

ガランド少佐の絶叫が響く。

彼の体は、腰まで地面に埋まっていた。

蟻地獄のように、大地が彼を飲み込もうとしている。

彼だけじゃない。

戦場のあちこちで、重さに耐えかねた兵士たちが沈んでいく。

空が、暗い。

物理的に空が落ちてきているかのような圧迫感。

神が、この星を見限ろうとしている。

「……もう、たくさんだ」

僕は立ち上がった。

膝が笑っている。

歯の根が合わない。

目の前には、殺戮の化身である少佐。

普段なら目も合わせられない相手だ。

でも、不思議と恐怖よりも怒りが勝った。

こんなシステムのために、彼女は死んだんじゃない。

僕は一歩、泥を踏みしめた。

そして、能力のリミッターをすべて外す。

「聞け!! すべての彷徨える魂たちよ!!」

喉が裂けたかと思うほどの激痛が走った。

口から溢れたのは音波ではない。

純粋な意味の奔流だ。

戦場を覆う数万の「遺言」。

それら一つ一つを、僕は猛烈な速度で「翻訳」し、上書きしていく。

『死にたくない』という重力(物理)を、『生きたかった』という物語(概念)へ。

『殺してやる』という鉛の重さを、『守りたかった』という悲劇の詩へ。

バチッ、バチバチッ!

空中に文字を記述しようとした指先が、高熱に焼かれて黒く炭化する。

「あ、がぁっ……!」

激痛に視界が白む。

喉の奥から鉄の味が込み上げる。

それでも、僕は指を振るうのを止めない。

「な、なんだ!? 体が……浮く!?」

ガランド少佐が驚愕の声を上げた。

彼の体を縛り付けていた数トンもの罪の重さが、光る文字となって剥がれ落ち、空へ舞い上がっていく。

空が、文字で埋め尽くされていく。

美しい、光の雪のような文章。

全人類の罪と悲しみが、一冊の巨大な書物へと編纂されていく。

(ああ、綺麗だ)

焼ける手で、僕は空を仰いだ。

魂を物理的な重りにしておくから、星が歪むのだ。

物語にしてしまえばいい。

物語に質量はない。

どれだけ悲惨で、どれだけ重厚な歴史でも、本になれば子供の手でも持ち運べる。

僕の足元が、ふわりと浮いた。

指先から、腕、そして肩へ。

僕自身の肉体がインクのように滲み、空中に溶け始めていた。

翻訳者である僕自身もまた、この物語の一部にならなければ、この術は完成しない。

「構わないさ」

血に濡れた口元で、僕は笑った。

対人恐怖症の引きこもりが、全人類を救う物語の結びになる。

悪くない皮肉だ。

世界中の重力が消えていく。

兵士たちが武器を取り落とし、呆然と空を見上げている。

憎しみも、殺意も、すべては美しい文章となって成層圏を覆っていく。

意識が薄れる中、僕は最後に残った左手で、ポケットから「鉛の栞」を取り出した。

これは、僕と彼女の記憶。

この物語を閉じるための、最後のピース。

「これで、おしまい」

僕は最後の力を振り絞り、空中に浮かぶ巨大な光のページの末尾に、その栞を挟み込んだ。

カチリ。

硬質な音が響いた瞬間、世界のシステムは完全に停止した。

重力という呪縛からの解放。

そして僕の意識は、文字の羅列の中に静かに溶けていった。

エピローグ 名もなき本

陽の光が、埃の舞う書架を照らしている。

そこは、世界の片隅にある古びた図書館。

戦争が終わってから、もう数十年が経つ。

なぜ戦争が終わったのか、正確に覚えている者はいない。

ある日突然、空が光る文字で埋め尽くされ、すべての武器が意味を失った――歴史の教科書には、そう曖昧に記されているだけだ。

「おや?」

老いた司書が、一冊の本を手に取った。

背表紙にタイトルのない、奇妙な本だ。

真っ黒な装丁は、まるで夜空のよう。

ページをめくると、そこには世界中のありとあらゆる言語で、無数の人々の人生が綴られていた。

兵士の嘆き、母の祈り、恋人たちの囁き。

そして、その本の最後のページには、鉛色をした古びた栞が挟まれている。

不思議なことに、その栞の周りだけ、ページの文字が滲んでいるように見えた。

司書は首を傾げ、パタンと本を閉じた。

その瞬間、本から微かに、満足げな吐息のような音が漏れた気がした。

それは、羽のように軽く、そしてどこか懐かしい響きだった。

AIによる物語の考察

【深掘り解説:世界でいちばん重い栞】

1. 登場人物の心理
主人公エリアスを動かしているのは、亡き少女に対する「贖罪」と、他者と関わる恐怖を「翻訳」という壁で隔てていた孤独です。彼は生者の重圧を恐れ、死者の声に安らぎを見出すことで、自らも物語の一部(インク)になるという自己犠牲的な結末を、救いとして選びました。

2. 伏線の解説
第一章の「言葉になれば軽い」という少女の言葉が最大の伏線です。彼女の最期の言葉が宿る栞が物理的に重いのは、まだ「物語」として完結していない未練(質量)があったから。最後にその栞を空のページへ挟む行為は、彼女の魂を解き放つと同時に、世界を物理法則から意味の次元へ移行させる「完結の儀式」となりました。

3. テーマ
本作は「人生の重みをいかにして救うか」を問うています。凄惨な歴史や罪を「重力(罰)」として背負い沈むのではなく、「物語(言葉)」に昇華することで、次世代が持ち運べるほど軽くできるという、言葉による救済と継承を描いています。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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