虹喰らいの魂
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虹喰らいの魂

第一章 灰色の残響

カイの視界に、色はなかった。あるのはただ、過去の染みついた残響だけだ。

五年前に終結した「赤錆の平原」。今は静寂に包まれたその場所に立ち、カイは目を細める。彼の網膜には、常人には見えぬ光景が焼き付いていた。大地から立ち上る、おびただしい数の色彩。それは、ここで散った兵士たちの感情の残滓だった。恐怖が染みた深い藍、憎悪が燃え盛る黒ずんだ赤、そして狂信的な高揚感が放つ、目に痛いほどの黄金色。

この能力は、彼から彼自身の感情を奪っていった。他人の強烈な感情を浴び続けるうち、カイの内面はすり減り、今では静かな湖面のように何も映さない。喜びも、悲しみも、すべてが遠い世界の出来事のようだ。

「……また、ここに来ていたのか」

背後からの声に、カイはゆっくりと振り返る。皺深い顔の老人、歴史家のエリオットが、杖を突きながら立っていた。彼はカイの唯一の理解者であり、この呪われた能力の秘密を共に追う者だった。

「エルム渓谷で、また『虹』が出たそうだ」

エリオットの言葉に、カイの眉が微かに動く。不滅の虹。戦争が始まると空にかかり、兵士たちから痛覚を奪い、獣に変える呪いの光。

エリオットは古びた革袋から、手のひらに収まるほどの小さな砂時計を取り出した。「これを持って行け、カイ。古代文明の遺物、『色彩の砂時計』だ。それは虹の光と、お前が見る『残響』を吸収するらしい。もし、この砂時計が満たされた時、我々は虹の真実に辿り着けるかもしれん」

カイは無言で砂時計を受け取った。硝子の中で、一粒の砂も動かずに静止している。それはまるで、時が止まったカイ自身の心のようだった。彼はただ、静かに頷いた。

第二章 不滅のプリズム

エルム渓谷は、地獄を煮詰めたような場所だった。

空には巨大な七色のアーチが架かり、その光は大地を奇妙なほど明るく照らし出している。虹の光の下、兵士たちの絶叫が木霊していた。しかし、その声に苦痛の色はない。腕を失っても、腹を裂かれても、彼らは恍惚とした表情で笑いながら剣を振るう。痛みという枷を外された彼らは、もはや人ではなかった。

カイは丘の上からその光景を見下ろしていた。彼の目には、戦場が狂った色彩の渦となって映る。兵士たちの体から噴き出す、アドレナリンが放つ白熱した黄金色。敵を殺す瞬間に爆発する、純粋な歓喜のオレンジ。虹の光がそれらの感情を増幅させ、より濃く、より鮮やかにしていた。

あまりに強烈な色彩の濁流に、カイは思わず目眩を覚えて膝をつく。頭の奥が、他人の感情で満たされていく感覚。自分という存在が、薄まって消えてしまいそうだ。

彼は懐から「色彩の砂時計」を取り出した。硝子の工芸品が、虹の光を浴びて淡く輝き始める。そして、カイの網膜に映る戦場の色彩が、陽炎のように揺らめき、細い糸となって砂時計へと吸い込まれていった。

静止していたはずの砂が、さらさらと、しかし極めてゆっくりと落ち始める。その一粒一粒が、悲鳴のような色を帯びていた。

第三章 砂時計の囁き

戦場の喧騒から少し離れた森の奥、小さな泉のほとりで、カイは一人の女性と出会った。彼女はリラと名乗り、戦火から逃れた数人の子供たちを庇うようにして身を寄せていた。

「あなたも、兵士……?」

リラの問いかける声には、警戒と、それ以上の深い哀れみが滲んでいた。カイは何も答えず、ただ彼女の瞳を見つめた。その澄んだ瞳の色に、彼は既視感を覚えた。それは、彼がとうの昔に失った、純粋な「懸念」の色だった。

カイは砂時計に視線を落とす。戦場の色彩を吸い続け、中の砂は三分の一ほどが鈍い緋色に染まっていた。リラはその奇妙な砂時計に気づき、不思議そうに首を傾げた。

「綺麗な……でも、なんだかとても悲しい色ね」

その言葉に、カイの胸の奥で何かが微かに軋んだ。感情のないはずの心臓が、冷たい指で掴まれたような感覚。彼は咄嗟に砂時計を隠した。

リラはそれ以上何も聞かず、子供たちに分け与えていた木の実の一つをカイに差し出した。「お腹、空いているでしょう」

その夜、カイはリラたちの焚き火のそばで、久しぶりに温かい食事をとった。子供たちの無邪気な笑い声が、彼の灰色の世界をわずかに震わせる。リラが時折向ける、穏やかな眼差し。それは、カイが今まで見てきたどんな色彩の残響とも違う、温かく、確かな「色」を持っていた。

第四章 集う虚ろな影

三日後、エルム渓谷の戦いは唐突に終わった。片方の軍が壊滅し、空を覆っていた不滅の虹が、陽炎のように揺らめいて消える。

途端に、世界から音が消えたかのような静寂が訪れた。勝利したはずの兵士たちは、武器を取り落とし、その場に崩れ落ちる。彼らの瞳から狂気の光が消え、底なしの虚無が宿った。ついさっきまで獣のように猛っていた者たちが、今は魂を抜かれた抜け殻のように、ただ呆然と空を見上げている。

そして、それは始まった。

虚ろな瞳の兵士たちが、まるで何かに引き寄せられるように、一人、また一人と立ち上がる。彼らは意思も目的もない足取りで、皆一様に北へ、霧に閉ざされた「霧深き峰」の方角へ向かって、よろめきながら歩き始めた。

「待って! ダニエル!」

リラの悲痛な叫びが響いた。カイが振り返ると、彼女が保護していた一番年長の少年、ダニエルがその行列に加わろうとしていた。彼は戦闘には加わっていなかったが、虹の光を遠くからでも浴び続けていたのだ。

「やめて、どこへ行くの!」リラが少年の腕を掴むが、ダニエルは虚ろな瞳で彼女を見返すだけだ。その手は振り払われ、彼は無感情な人形のように、他の兵士たちの後を追っていく。

「頼む、あの子を……あの子を連れ戻して!」

リラが涙ながらにカイに懇願する。彼女の瞳から溢れる悲しみの色は、カイの胸を強く打った。カイは頷き、懐の砂時計を握りしめる。砂は今や、ほとんどがおぞましいほどの色で満たされていた。彼は、虚ろな影たちの列を追い、霧深き峰へと足を踏み出した。

第五章 魂の炉

霧深き峰の頂には、天を突くほどの巨大な古代遺跡がそびえ立っていた。兵士たちの行列は、その遺跡の中心にある巨大な空洞へと吸い込まれていく。カイが後を追うと、そこは巨大な儀式場のような空間だった。

中央には、巨大な黒水晶の柱が脈動するように明滅している。そして、兵士たちの体から抜け出た青白い光——魂とも呼ぶべきエネルギーが、その水晶に吸い込まれていく光景を目の当たりにした。

ここが、魂の炉。集められた兵士たちの虚無と絶望を糧とし、次の戦場に不滅の虹を生み出すための、巨大な精神兵器の心臓部。

その時、カイの持つ砂時計が激しい光を放った。完全に満たされた砂が逆流を始め、記録された色彩がカイの脳内に奔流となって流れ込む。無数の兵士たちの最後の記憶、絶望、そして虹が生まれた瞬間の古代文明の光景が、彼を貫いた。

虹は、兵士たちの感情を操作し、戦いを永続させるために作られた。そして、カイの能力——「色彩の残響」を見る力は、この炉に捧げるべき、最も純粋で濃密な感情の残滓を見つけ出すためのものだった。

彼は視認者であり、案内人であり、そして——。

記憶の最後に、カイは自らの運命を知った。彼自身が、この炉を完成させるための最後の鍵。あらゆる感情の残滓を受け止め、浄化し、新たな虹の核となるべく生み出された「器」だったのだ。

水晶がカイを呼んでいる。抗いがたい引力に、彼の身体がゆっくりと引き寄せられていった。

第六章 色彩の果て

運命を受け入れようとした、その瞬間だった。

「カイ!」

背後から、息を切らしたリラの声が響いた。彼女が、ここまで追いかけてきたのだ。カイが振り返ると、リラの瞳が真っ直ぐに彼を射抜いていた。その瞳には、恐怖と、懇願と、そしてカイが決して見ることのなかった強い「意志」の色が宿っていた。

「行かないで!」

その声が、カイの灰色の世界に、鮮やかな一筋の亀裂を入れた。彼女の存在そのものが、この呪われた運命に対する明確な「否」を突きつけている。

炉の引力が強まり、カイの体が宙に浮く。だが、彼は最後の力を振り絞り、腕を上げた。その手には、眩い光を放つ「色彩の砂時計」が握られている。

運命に従うか、それとも。

カイは、生まれて初めて、自らの意志で選択した。

彼は砂時計を、脈打つ黒水晶の炉心へと全力で投げつけた。硝子が砕け散り、記録されていた幾千幾万の戦場の記憶と、凝縮された感情の奔流が炉心へと逆流する。憎悪、恐怖、狂喜、そして悲哀。純粋なエネルギーではない、あまりに生々しい人間の感情に耐えきれず、炉は甲高い悲鳴を上げた。

巨大な水晶に亀裂が走り、遺跡全体が崩壊を始める。

「リラ、行け!」

カイは叫んだ。彼の体は、暴走するエネルギーの渦に引き込まれていく。リラは涙を流しながらも、カイの最後の言葉に従って踵を返した。

薄れゆく意識の中、カイの視界に映ったのは、崩れる天井の隙間から見えた、本物の夜明けの空だった。それは、偽りの虹とは違う、どこまでも優しく、淡い青色をしていた。

彼の世界に、ようやく本当の色が戻ってきた。

リラが遺跡から脱出した時、霧深き峰は轟音と共に崩れ落ちた。彼女が見上げた空には、もう二度と、あの忌まわしい不滅の虹がかかることはなかった。ただ、静かな夜明けの光が、新しい世界を照らし始めていた。


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