砲火のシンスタジア

砲火のシンスタジア

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第一章 鉛色の叫び

世界は、ひどく騒がしい色で満ちていた。

アルテンは泥濘(ぬかるみ)に顔を押し付け、呼吸を殺した。

頭上を掠める銃弾の音。それは彼にとって、ただの音ではない。

鋭利な刃物のような「鮮血の赤」が、視界の端を切り裂いていく。

「……くそっ、近いぞ」

隣で呻いたのは、新兵のケイルだ。

まだ髭も生え揃わぬ少年の声は、怯えを含んで震えている。

その声色は、アルテンの目には「錆びついた茶色」の靄(もや)として映った。

「頭を下げるな、上げるな、息もするな」

アルテンは自身の唇に指を当てる。

俺の声は、どんな色をしているだろうか。

きっと、この塹壕の泥と同じ、濁ったドブネズミ色に違いない。

ドォォン、と重低音が腹に響く。

着弾音。

視神経が焼き切れるような「黒い閃光」が、瞼の裏で炸裂した。

「うあぁぁッ!」

ケイルが耳を塞いで叫ぶ。

彼の絶叫は、不快な「蛍光の黄色」となってアルテンの視界を塗りつぶす。

「黙れ! 見つかるぞ!」

アルテンは少年の胸ぐらを掴み、泥壁に叩きつけた。

黄色のノイズが消え、再び鉛色の静寂が戻る。

ここは第4防衛線。

空は化学兵器の残留スモッグで、一年中、分厚い灰色に覆われている。

太陽など、もう何年も見ていない。

「アルテンさん……」

ケイルが涙目で縋ってくる。

「僕、帰れますか。母さんの待つ家に」

「運が良ければな」

「運って……そんな」

「俺を見ろ。四十年生きた。この地獄でな。コツは一つだ」

アルテンは自分の目を指差す。

「音が『見える』ようになるまで、神経を研ぎ澄ませることだ」

「……変なことを言いますね、アルテンさんは」

ケイルが僅かに笑った。

その笑い声は、久しぶりに見る「淡いオレンジ色」をしていた。

暖炉の火のような、懐かしい色。

アルテンはこの才能――共感覚を、誰にも話していない。

かつては画家を目指していた。

だが、絵筆はとうの昔に折れ、今は小銃の引き金に指を掛けている。

この忌々しい才能は、敵の砲撃位置を察知するためだけに使われていた。

「なぁ、ケイル」

「はい?」

「空の色を、覚えているか」

ふと、そんなことを訊ねてしまった。

淡いオレンジ色に、触発されたのかもしれない。

「空……ええと、図鑑で見ました。青い、んですよね?」

「ああ。目が覚めるような青だ。ラピスラズリを砕いて、光を混ぜたような」

「見てみたいなぁ……」

ケイルが天井の、汚れた雲を見上げる。

「この雲の向こうには、本当にあるんでしょうか」

「あるさ」

「アルテンさんは、見たことがあるんですか?」

「昔な」

嘘ではない。

だが、記憶の中の青は、日ごとの砲火と死体の色に埋もれ、既に色褪せている。

「行こう。部隊とはぐれたままだ。夜明けまでに合流ポイントへ向かう」

アルテンは小銃を杖代わりに立ち上がった。

視界の端に、ギザギザとした「紫色の波」が見える。

迫撃砲だ。

「走るぞ、ケイル! 三秒後にここへ落ちる!」

俺たちは泥を蹴り、色のない世界を駆け出した。

第二章 嘘と石ころ

廃墟の街は、墓標のように静まり返っていた。

崩れたコンクリートの壁。焼け焦げた鉄骨。

すべてが灰色だ。

「はぁ、はぁ……」

ケイルの息遣いが荒い。

足を引きずっている。

先ほどの爆風で、破片が太腿を掠めたのだ。

「大丈夫か」

「平気……です。血も止まりました」

嘘だ。

彼の声には「濁った緑色」が混じっている。

苦痛と、それを隠そうとする強がり。

アルテンは瓦礫の陰に身を隠し、水筒を差し出した。

中身は泥水と大差ないが、ないよりはマシだ。

「飲め」

「すみません……」

ケイルが震える手で水筒を受け取る。

その時、彼の胸ポケットから何かが落ちた。

枯れた植物の茎のようなものだ。

「なんだ、それは」

「あ……これ」

ケイルは慌ててそれを拾い上げ、愛おしそうに撫でた。

「お守りです。出征する時、妹がくれたんです。四つ葉のクローバーの押し花だって」

もはや、それは炭化して黒ずんだゴミにしか見えなかった。

だが、ケイルの瞳には、それが希望の象徴として映っているのだろう。

「緑色だったんですって。見たことありますか? 緑色の野原」

「ああ。風が吹くと、波のように揺れるんだ」

「へえぇ……」

ケイルの目が輝く。

純粋すぎる。

この戦場で、そんな目は命取りだ。

絶望を知らない人間は、真っ先に狂うか、死ぬ。

「アルテンさん。もし僕が死んだら……」

「縁起でもないことを言うな」

「聞いてください。もし僕が死んだら、これを妹に返してほしいんです」

押し花を差し出す手。

アルテンはそれを無視して、視線を逸らした。

「自分で返せ。俺は配達人じゃない」

「でも、アルテンさんは生き残るでしょう? だって、音が聞こえるから」

「……俺は臆病なだけだ」

そうだ。

俺は戦わない。

色が教えてくれる危険から、常に逃げ回ってきた。

仲間が「赤い悲鳴」を上げて死んでいくのを、ただ見ていただけだ。

ヒュンッ、と風を切る音がした。

「伏せろ!」

アルテンはケイルの頭を押さえ込む。

直後、彼らがいた場所の数メートル先で、コンクリートが弾け飛んだ。

狙撃だ。

「――っ!」

視界に走る、鋭利な「銀色の線」。

銃弾の軌道が見える。

(二発目、来るぞ)

音の色が、次の着弾点を予告している。

だが、体が動かない。

恐怖が足を縫い止めている。

「アルテンさん!」

動けないアルテンを、怪我人のケイルが庇うように覆いかぶさった。

ドスッ。

鈍い音がした。

肉が裂ける音。

それは、ひどく重たく、悲しい「濃紺」の色をしていた。

第三章 最期の色彩

「ケイル……?」

少年の体が、ずるりと崩れ落ちる。

胸から広がる赤黒い染みが、灰色の軍服を侵食していく。

「あ……れ……?」

ケイルが虚ろな目で空を見上げる。

「痛く、ない……です。ただ、寒い」

致命傷だ。

見なくてもわかる。

彼の「命の音」が、急速に弱まっている。

鼓動の音が、小さく、頼りない「灰色の点滅」へと変わっていく。

「しっかりしろ! 止血を……」

「いいんです、アルテンさん」

ケイルが血に濡れた手で、アルテンの袖を掴んだ。

「それより……空」

「空?」

「雲が……切れそうです。ほら……」

ケイルの視線の先。

分厚いスモッグの切れ間から、僅かに光が差し込んでいる。

だが、それは夕暮れの薄暗い光でしかない。

青空など、どこにもない。

しかし、ケイルの目はもう焦点が合っていない。

「見えますか……? 青……」

彼は幻覚を見ているのだ。

死の間際に見る、甘美な夢。

アルテンは唇を噛んだ。

ここで「見えない」と言うのは、あまりに残酷だ。

嘘だ。

俺の人生はずっと嘘だった。

臆病をごまかし、逃げ続け、最後には子供に庇われた。

なら、最期くらい、最高の嘘をつくべきだ。

かつて画家を目指した、この目で見た色彩のすべてを使って。

「ああ……見えるぞ、ケイル」

アルテンはケイルの手を握り締めた。

「すごい青だ。お前が言っていたラピスラズリなんかより、ずっと深い」

「ほん、とう……?」

「ああ。上の方は透き通るようなアクアマリンだ。それが地平線に近づくにつれて、濃いコバルトブルーに変わっていく」

アルテンは言葉を紡ぐ。

脳内で、記憶の中の絵の具をぶちまける。

「雲の切れ間から、光の柱が降り注いでいる。それは金色の粉をまぶしたみたいにキラキラして……街の廃墟を照らしているんだ」

「きれい……だろうなぁ……」

「ああ、綺麗だ。灰色の瓦礫が、まるで宝石箱みたいに見える。お前が守りたかった世界は、こんなに美しかったんだな」

ケイルの表情が緩む。

安心したような、子供のような顔。

「よかった……見れて、よかっ……」

言葉が途切れる。

握りしめていた手の力が抜けた。

同時に、アルテンの視界から「灰色の点滅」が消えた。

完全な静寂。

無色透明な、死の沈黙。

「……ああ、本当に綺麗だ」

アルテンは涙で滲む視界のまま、動かなくなった少年の頭を撫でた。

その時。

瓦礫の向こうから、複数の足音が近づいてくる。

ザッ、ザッ、ザッ。

規則正しい軍靴の音。

それは、無慈悲な「鉄錆色」の波として押し寄せてくる。

敵の掃討部隊だ。

第四章 静寂の青

アルテンは逃げなかった。

いつもなら、音の色が見えた瞬間に背を向けていただろう。

だが、今はケイルの体がここにある。

置いていけば、彼らはこの亡骸をただの肉塊として踏み荒らすだろう。

「……配達人は、廃業だ」

アルテンはケイルの胸ポケットから、あの黒ずんだ押し花を抜き取った。

自分の胸ポケットにしまう。

そして、小銃を拾い上げた。

(敵は3人。右翼から2、左翼から1)

足音が色となって位置を教える。

恐怖はある。

心臓が早鐘を打ち、視界がチカチカと明滅している。

だが、不思議と足は震えていなかった。

「ここには、色がない」

アルテンは呟く。

「だから、俺が描いてやる」

彼は瓦礫の上に飛び出した。

「そこだッ!」

敵兵が叫ぶ。

一斉に放たれる銃火。

タタタタタッ!

銃声が、マズルフラッシュが、アルテンの感覚を刺激する。

それは彼にとって、もはや暴力ではなかった。

(鮮やかな真紅(クリムゾン)!)

敵の第一撃を、色の軌道を見て紙一重でかわす。

(深い藍色(インディゴ)!)

自分の放った銃弾が、空気を切り裂く音。

敵兵の一人が倒れる。

その悲鳴は「濁った黄土色」だ。

世界が色彩の洪水になる。

アルテンは笑っていたかもしれない。

四十年生きて、初めて、自分の才能が「絵筆」になった気がした。

ドンッ、と肩に衝撃が走る。

熱い。

撃たれた。

だが、痛みよりも先に、視界いっぱいに「純白」が広がった。

(ああ、これが……)

体から力が抜けていく。

アルテンは仰向けに倒れ込んだ。

泥の地面ではなく、何か柔らかいものの上に倒れた気がした。

見上げると、そこには空があった。

スモッグが完全に晴れているわけではない。

だが、分厚い雲の隙間から、本当に、ほんのわずかだけ、星が見えた。

それは、ケイルに見せたかった「青」ではなかった。

深く、暗く、どこまでも続く「夜の黒」。

しかし、その中に光る星の瞬きは、どんな宝石よりも澄んだ「銀色」をしていた。

「……悪くない、色だ」

アルテンは胸ポケットの上から、押し花の感触を確かめる。

騒がしい銃声が遠のいていく。

視界から色が消えていく。

赤も、黄色も、紫も、全てが溶け合い、静かな透明へと変わっていく。

最後に残ったのは、あの日のケイルの笑い声のような、暖かなオレンジ色。

(土産話には、十分だろう)

アルテンはゆっくりと瞼を閉じた。

世界は、静寂という名の色彩に満たされた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • アルテン: 音が「色」に見える共感覚(シナスタジア)を持つ中年兵士。その能力で危険を回避し、臆病に生き延びてきた。かつては画家志望。戦争という「汚い色」の世界に絶望していたが、ケイルとの出会いで変化する。
  • ケイル: 配属されたばかりの少年兵。純粋で、戦争を知らない無垢な存在。図鑑で見た「青い空」に憧れを抱いている。アルテンに「守るべきもの」の美しさを思い出させる触媒となる。

【考察】

  • 色彩の対比: 本作は「灰色の現実(戦争)」と「鮮やかな知覚(共感覚・嘘)」の対比を主軸にしている。アルテンにとって戦争は騒音(汚い色)だったが、最期の戦闘シーンではそれを「絵画」として昇華し、死を受け入れるプロセスが描かれている。
  • 「嘘」の救済: アルテンが臨終のケイルに語った「青い空」は嘘であったが、それは事実よりも真実味を帯びた「救い」として機能する。フィクション(物語)が持つ、過酷な現実を上書きする力を示唆している。
  • タイトルの意味: 『砲火のシンスタジア』は、破壊の象徴である砲火と、芸術的感性である共感覚を並列させ、極限状態における人間の精神の輝きを表現している。
  • 静寂という色: 最後にアルテンが到達した「透明」や「静寂」は、彼がずっと求めていた平穏であり、死そのものでもある。彼にとって死は終わりではなく、騒がしい世界からの解放として肯定的に描かれている。
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