第一章 勝利という名の呪い
腐った鉄の臭いが、鼻腔の粘膜にこびりついて離れない。
塹壕の底に溜まった泥水はどす黒く濁り、浮かんだ油膜が虹色に歪んでいる。それはまるで、死神の瞳のようだった。
「隊長、手が」
声をかけてきたのは、まだ産毛の残る通信兵のトビだ。
泥にまみれた軍服の袖から、私の震える右手を視線で指す。
「……武者震いだ。気にするな」
私は吐き捨てるように嘘をついた。
右目の奥が、焼けるように熱い。
眼球の裏側を焼きごてで撫でられるような激痛。それが、私の呪われた才能――『予知』の合図だ。
視界がノイズのように走る。
現実の風景に、数分後の『未来』が強引に割り込んでくる。
――左翼の瓦礫山、崩れた壁の向こう。
――敵の重戦車が履帯を軋ませて現れる。
――迎撃には、対戦車兵が飛び出すための「生きた囮」が必要だ。
――囮になった兵士は、同軸機銃で胸から上を消し飛ばされる。
――その肉片が舞う隙に、味方の砲弾が戦車の装甲を貫く。
これが『最も効率的で確実な勝利』への道筋。
そして、その囮役として脳裏に焼き付いた映像は。
私の目の前で、心配そうにこちらを覗き込んでいるトビだった。
「隊長?」
「……トビ」
喉が張り付き、砂を噛んだような音がした。
「3分後、左翼の瓦礫へ走れ。信号弾を上げろ」
トビは一瞬きょとんとして、それからパッと顔を輝かせた。頬が紅潮する。
「了解です! 重要な役目ですね!」
「ああ、最重要だ。……頼んだぞ」
トビは敬礼し、背を向けて泥を蹴った。
その背中が、私の予知の中で血煙に変わる映像と重なる。
私はポケットの中で、拳を握り潰した。
爪が皮膚を裂き、温かい液体が滲む。痛みで右目の熱をごまかす。
止められない。
彼を止めれば、部隊全員が戦車の餌食になる。
『最小の犠牲』。
その言葉が、鉛の塊となって胃の腑に落ちた。
ドォン!
空気が爆縮する音。
トビが瓦礫の山に到達した瞬間、轟音と共に敵戦車が壁を破った。
予知通りだ。一寸の狂いもない、完璧な地獄。
ダダダダッ!
乾いた破裂音。
トビの体が、糸の切れた操り人形のように宙へ踊る。
私の指示通りに。私の見た未来通りに。
「撃てぇッ!!」
私の叫びは、命令というより獣の咆哮に近かった。
味方の砲撃が戦車を貫き、爆炎が黒煙を巻き上げる。
勝利だ。
またしても、完璧な勝利。
部隊からは歓声が上がり、誰かが帽子を投げる。
私は嘔吐感を噛み殺し、足元の土を見た。
黒く変色した地面が、まるで内臓のように脈打っている。
『戦場の黄昏』。
死者の苦痛と血を吸いすぎた大地が病み、物理的に腐敗していく現象。
トビの血を吸ったその場所から、毒々しい紫色の蔦が、血管のように這い出し始めていた。
勝つたびに、大地は死んでいく。
胸ポケットから、小さなガラス瓶を取り出す。
指先ほどの『希望の小瓶』。
中に入っているひとつまみの土だけが、黄金色に輝き、微かな熱を放っている。
これだけが、私がまだ人間でいるための、唯一のよすがだった。
第二章 破滅のビジョン
司令部のテント内は、高級な葉巻の煙と、勝利の美酒に酔う将校たちの体臭で満ちていた。
だが、作戦地図が広げられたテーブルの上だけは、凍てつくような静寂がある。
「カイ大尉。君の『目』のおかげで、我々は首都への進軍ルートを確保した」
総司令官が言った。その瞳には狂信的な光が宿っている。
「次の作戦だ。敵の最終防衛ラインを突破する。見えるかね? 我々の栄光ある未来が」
私はまぶたを閉じた。
集中するまでもなく、未来が奔流となって雪崩れ込んでくる。
――敵の防衛網の配置。
――突破口となる一点の脆弱性。
――そこへ全戦力を投入し、敵兵をすり潰すタイミング。
見える。
敵国は崩壊し、我が国は完全な勝利を手にする。
だが、その先だ。
勝利のファンファーレが鳴り響く中、空がガラスのようにひび割れる。
大地が悲鳴を上げ、黒い泥流となって世界を飲み込む。
『戦場の黄昏』が臨界点を超え、この惑星そのものが壊死する光景。
「……大尉?」
総司令官の声に、私は現実に引き戻された。
全身が冷や汗で濡れている。
「……見えます。我々の勝利が」
私は乾いた唇で答えた。
「しかし、閣下。この作戦を実行すれば、大地はもう耐えられません。勝利と引き換えに、我々は立つべき場所を失います」
「だからどうしたと言うのだ」
総司令官は眉一つ動かさず、氷のような声で告げた。
「敵を殲滅せねば、我々が奴隷となる。国家が消滅すれば、大地の保全など何の意味もない。それが『軍事合理的』というものだ」
「なりませぬ! 見えるのです、世界の終わりが! 敵も味方も、等しく泥に沈む未来が!」
「ならば沈む前に敵を殺せ! 予言者は黙って勝つ方法だけを示せばいい!」
机が叩かれ、インク瓶が跳ねる。
誰も理解しようとしない。
『勝利』という名の麻薬が、彼らの理性を蝕んでいる。
私は逃げるようにテントを出た。
夜風が冷たい。だが、その風からも腐臭がする。
空を見上げると、星々の配置がいびつに歪んでいた。時間の流れすら狂い始めている。
「カイ」
背後から掛けられた声に、振り返る。
幼馴染であり、副官のエレナだ。
彼女の美しい銀髪も、砂埃と煤で汚れている。
「また、誰かが死ぬの?」
彼女の声は震えていた。
「……いや、違う。今回は全員だ。敵も、味方も」
私はポケットの小瓶を握りしめた。
ガラス越しに伝わる微かな脈動。
「エレナ。俺が今まで見てきた『勝利』は、全部間違いだったのかもしれない」
「間違い?」
「勝てば勝つほど、この星の寿命を削り取っている。俺の目は、破滅への最短ルートをナビゲートしているだけだ」
エレナは何も言わず、私の強張った指に、自分の冷たい指を絡めた。
その感触だけが、ここにある確かな現実だった。
第三章 未来からの警告
決戦の朝。
荒野は、墓場のような静寂に包まれていた。
空は内出血した皮膚のような紫色に染まり、太陽は病んだ臓器のように赤黒く腫れ上がっている。
最前線。
私の右目が、激しく疼き始めた。
数時間後の『完全なる勝利』と、その直後に訪れる『世界の終焉』が、同時に明滅する。
その時だ。
世界の色が反転した。
時間は凍りつき、舞い上がる砂塵が空中で静止する。
私の意識だけが、肉体から剥がれ落ち、光の渦へと吸い込まれた。
言葉ではない。
音でもない。
圧倒的な『イメージ』の奔流が、脳髄に直接叩きつけられる。
――灰色の荒野に立つ、人ではない何か。
――肉体を捨て、光の粒子へと進化した、遥か未来の生命体。
彼らの悲しみが、津波のように私の胸に押し寄せた。
呼吸ができなくなるほどの喪失感。
かつて緑だった星が、私の『勝利』の積み重ねによって死の砂漠へと変わる歴史が、走馬灯のように駆け巡る。
『……』
声なき声が響く。
それは警告であり、懇願だった。
私の右目が熱を帯びる。
脳内に直接、映像が浮かぶ。
私が持っている『小瓶』。
その中の土が、黄金色の粒子となって舞い上がるビジョン。
それは、武器を捨て、手を取り合った『あり得たかもしれない過去』の結晶。
光の存在が、私の右目に触れる感覚があった。
激痛ではない。
だが、明確な『代償』の提示。
――その目を閉じよ。
――未来を見る力を捨てれば、確定した破滅は『不確定な希望』へと変わる。
「……そうか」
私は理解した。
説明などいらない。
ただ、その悲しみの深さが、私に決断を迫っていた。
凍りついた時間が、再び動き出す。
風が吹き、砂が頬を打つ。
「総員、突撃準備!」
無線から総司令官の命令が響く。
敵陣の向こう、塹壕から無数の銃口がこちらを狙っているのが見えた。
このまま号令を下せば、全てが終わる。
勝利し、そして滅びる。
私は震える手で、小瓶を取り出した。
第四章 黄昏を裂く産声
「カイ大尉! 指示を! 突撃のタイミングは今ですか!?」
部下の叫び声が鼓膜を打つ。
私は小瓶のコルクを、親指で弾き飛ばした。
「全軍、待機!!」
私の裂帛の気合いは、無線を通じて全軍に、そして傍受していた敵軍にすら届いたはずだ。
「大尉!? 何を言って――」
私はライフルを地面に叩きつけた。
そして、塹壕を飛び出した。
「カイ!?」
エレナの悲鳴を背に、私は敵軍との中間地帯、死臭漂う無人地帯(ノーマンズランド)へと駆け出した。
「撃つな! 味方だ!」
「敵だ、殺せ!」
両軍から罵声が飛ぶ。
ヒュンッ!
銃弾が頬を掠め、熱い血が飛ぶ。
足元の土が跳ねる。
構うものか。
予知が――最後の予知が見えた。
敵の塹壕の中。銃を構える少年兵の姿。
震える手。その懐には、家族の写真が抱かれている。
彼もまた、トビと同じだ。怯え、震え、ただ生きたいと願う人間だ。
私は大地の中心、最も腐敗が進み、黒い瘴気を上げているクレーターの縁に立った。
「これで……最後だ!!」
私は『希望の小瓶』を逆さにし、中身の土をぶちまけた。
その瞬間、右目に灼熱の杭を打ち込まれたような激痛が走った。
「ぐあああああっ!!」
視界が真っ白に染まる。
私の『予知能力』が、物理的な回路として焼き切れていく。
未来を見通す神経が、代償として消滅していく感覚。
だが、失われていく視界の端で、私は見た。
小瓶から落ちたわずかな土が、黒い大地に触れた瞬間。
爆発的な緑の閃光が、世界を覆い尽くしたのを。
ドクンッ!
大地が脈打った。
それは腐敗の鼓動ではない。力強い、生命の産声だ。
黒い瘴気が瞬時に浄化され、乾いた地面から太い蔦が槍のように噴き出した。
「な、なんだこれは!?」
銃弾が止む。
蔦は生き物のようにうねり、兵士たちの持つ銃に絡みついた。
鋼鉄の銃身に緑が侵食し、引き金の隙間に根が張り、銃口からは色鮮やかな花が開く。
「銃が……撃てない!」
「戦車が動かないぞ!」
敵の戦車も、私の足元から伸びた巨大な樹木によって、そのキャタピラを空中に持ち上げられていた。
物理的な強制力。
圧倒的な自然の力が、人間の争いを強引に封じ込めたのだ。
そして、その場にいる全員の脳裏に、あの光のイメージが流れ込んだ。
子供たちが笑い、老人が日向ぼっこをし、敵同士だった者が同じテーブルでパンを分かち合う情景。
言葉はいらない。
それは『予知』ではない。
私たちが武器を捨てれば、必ず辿り着けるという『約束』だった。
カチャン。
誰かがナイフを落とした音がした。
それを合図に、連鎖が起きる。
ライフルが、ヘルメットが、次々と地面に投げ捨てられる。
私は膝から崩れ落ちた。
右目はもう光を失った。左目も涙で滲んで霞んでいる。
だが、頬を撫でる風が、腐臭ではなく、甘い花の香りを運んでいることだけは分かった。
「カイ!」
駆け寄ってきたエレナが、私を強く抱きしめた。
彼女の涙が、私の血と泥を洗い流していく。
「馬鹿よ、あなたって人は……」
「……ああ。でも、見えたんだ」
私は見えない目で、空を見上げた。
「……本当の未来が」
終章 予言のいらない世界
あれから三年が過ぎた。
国境線だった鉄条網は錆びつき、蔦に覆われている。
兵士たちは銃を溶かして鋤や鍬を作り、『戦場の黄昏』が消えた大地を耕した。
私は、小さな畑に立っていた。
予知能力を失った私は、明日の天気さえ分からない。
雨が降るか、晴れるか。
この苗が育つか、枯れるか。
何も分からない。
だが、分からないということが、こんなにも自由で、愛おしいとは思わなかった。
「あなた、お昼よ」
丘の下から、エレナが手を振っている。
彼女の腹部は、柔らかく膨らんでいた。
新しい命。
予知では決して見ることのなかった、私の子供。
私はスコップを突き立て、額の汗を拭った。
土の匂いがする。
血でも、油でもない。
太陽と、生命の匂いだ。
エレナの元へ歩み寄り、彼女のお腹に耳を当てる。
ドクン、ドクンと、力強い音が聞こえる。
この子が生きる未来には、何の道筋も決まっていない。
だからこそ、私たちは自分の足で、どこへでも歩いていける。
「……聞こえるか?」
私はお腹の子に語りかけた。
「世界は、こんなにも静かで、美しいんだ」
風が吹き抜け、金色の小麦畑が波のように揺れた。
かつて散っていったトビや、敵味方を問わず眠る魂たちが、その風に乗って空へ還っていく。
見上げた空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
もう、黄昏ではない。
これは、長い夜の果てに訪れた、まばゆい夜明けの光だ。