境界線のレクイエム

境界線のレクイエム

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第一章 響くノイズと異国の旋律

リヒトは、瓦礫の匂いに慣れてしまっていた。鉄錆と、湿ったコンクリートと、そして決して消えることのない微かな死の気配。それらが混じり合った空気が、彼の仕事場である修復工房には常に満ちていた。終戦から三年。街は未だ、巨大な墓標のように静まり返っていた。彼の仕事は、戦争が遺した残骸の中から、まだ息のあるものを拾い上げ、その失われた形を取り戻すことだった。人々は彼を「修復師」と呼んだ。

リヒトには、秘密があった。彼がモノに触れると、そのモノが経てきた時間の断片が、雑音交じりの声となって流れ込んでくるのだ。割れた皿からは食事を囲む家族の喧騒が、折れた椅子の脚からは老人の穏やかなため息が、そして砲弾の破片が突き刺さった柱時計からは、けたたましいアラームと空襲警報が。それらはリヒトにとって、耐えがたいノイズの洪水であり、忌まわしい呪いでしかなかった。彼はいつも分厚い革の手袋を嵌め、自身とモノたちの記憶との間に、ささやかな壁を作っていた。

ある雨の日、軍の担当官が、錆びついた金属の箱を無造作に彼の作業台に置いた。

「激戦地だった旧国境の西地区から出てきた。敵国のものだ」

吐き捨てるような言葉だった。箱は泥にまみれ、側面には大きな凹みがある。リヒトが慎重に泥を拭うと、繊細な銀の象嵌細工が姿を現した。オルゴールだ。敵国、ヴィストリア連邦特有の意匠だった。我々の街を灰燼に帰した、憎むべき敵の。

リヒトはためらった。敵国のものに触れたくはなかった。きっと、聞くに堪えない憎悪や狂気の声が流れ込んでくるに違いない。だが、仕事は仕事だ。意を決して手袋を外し、冷たい金属の表面にそっと指を触れた。

瞬間、彼の頭を突き抜けたのは、予想していた怒声や悲鳴ではなかった。

それは、澄んだ少女の歌声だった。

そして、か細い男の子の笑い声。

ノイズの奥で、確かに聞こえる温かい旋律。知らないはずの、しかしどこか懐かしい響きを持つ異国の歌。その声は、瓦礫の街の冷たい雨音の中で、あまりにも場違いで、あまりにも美しかった。

「……なんだ、これは」

リヒトは無意識に呟いていた。このオルゴールは一体何を記憶しているのか。彼はその日、初めて自分の能力に呪い以外の何かを感じ、強く惹きつけられていた。

第二章 修復される日々の記憶

オルゴールの修復は困難を極めた。内部の櫛歯は数本が折れ、シリンダーは歪み、ゼンマイは固く錆びついていた。リヒトは、来る日も来る日も、ピンセットとルーペを手に、この小さな機械の心臓部と向き合った。

手袋を外して作業をする時間は、苦痛であると同時に、奇妙な安らぎをもたらした。修復が進むにつれて、オルゴールが聞かせる「声」もまた、鮮明になっていったのだ。

最初に聞こえた少女の歌は、どうやら子守唄のようだった。彼は、少女がその歌を歌う情景を、まるで白昼夢のように見た。陽光が差し込む小さな部屋。窓辺には素朴な花が飾られている。少女は、ベッドに横たわる幼い弟の額の汗を拭いながら、優しく歌いかける。

「大丈夫よ、エリアス。この歌が終わる頃には、きっと熱も下がるから」

弟の名はエリアスというらしい。少年は咳き込みながらも、姉の歌声に安心したように微笑む。

リヒトは、自分が憎むべき「敵」の日常を覗き見していることに、言い知れぬ罪悪感と戸惑いを覚えた。彼が教えられてきた敵国の人間は、冷酷で、野蛮で、心を持たない怪物のはずだった。だが、このオルゴールの記憶に宿る姉弟は、あまりにもありふれた、愛情深い家族の姿そのものだった。

ある時は、庭で追いかけっこをする二人の笑い声が聞こえた。またある時は、母親に叱られて、しょんぼりと俯く少女の姿が見えた。父親が、仕事から帰ってきて二人を高く抱き上げるたくましい腕の感触まで、リヒトは追体験した。それは、彼自身が戦争で失ってしまった、温かい家族の記憶を呼び覚ますかのようだった。

彼の内面で、確固たるものだったはずの「敵」と「味方」の境界線が、ゆっくりと溶け始めていた。彼はもはや、ただの依頼品としてオルゴールを修復しているのではなかった。この名も知らぬ少女と弟の失われた時間を取り戻したい。その一心で、作業に没頭した。

そして数週間後、ついにオルゴールの心臓部であるシリンダーの歪みを直し、最後の櫛歯を植え付けることに成功した。あとは、動力源であるゼンマイを巻き上げ、蓋を閉じるだけだ。リヒトはごくりと唾を飲み込んだ。このオルゴールが奏でる本当の音色を、そして、あの少女の歌声の結末を、早く聞きたかった。

第三章 瓦礫の下の真実

リヒトは深呼吸をし、修復を終えたばかりのゼンマイを、ゆっくりと、祈るように巻いた。カチ、カチ、と心地よい音が工房に響く。彼は静かにオルゴールの蓋を開けた。

――その瞬間、彼の脳裏に流れ込んできたのは、予想していた穏やかな子守唄ではなかった。

『兄ちゃん、もっと歌って』

それは、舌足らずな、幼い少年の声だった。懐かしくて、忘れるはずのない響き。

――リヒト自身の、声だった。

全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。混乱する頭で、記憶の奔流に抗うことができない。目の前に、陽光の差す部屋の光景が、かつてないほど鮮明に広がる。しかし、それは敵国の少女の部屋ではなかった。窓の外に見えるのは、自分が育った故郷の街並みだ。

そして、ベッドに横たわっている病弱な少年は、エリアスではない。幼い頃の自分自身だ。

彼に歌いかけているのは、見知らぬ敵国の少女ではなかった。

鳶色の髪を揺らし、優しく微笑む、十代半ばの姉。

「……姉さん?」

掠れた声が、喉から漏れた。そうだ、姉がいた。病弱だった自分を、いつも気遣ってくれた。このオルゴールは、姉が誕生日に贈ってくれたものだ。この子守唄は、ヴィストリア連邦の歌などではない。姉さんが、僕だけのために作ってくれた、世界でたった一つの歌だった。

戦争が始まる直前の混乱。国境線が引き直され、街は分断された。父親の仕事の都合で、一家は新しい国境線のこちら側へと移り住んだが、ちょうど親戚の家に預けられていた姉は、向こう側…ヴィストリア連邦に取り残されてしまったのだ。幼かったリヒトは、その事実の重みを理解できず、いつか姉は帰ってくるものだと信じていた。だが、戦争が始まり、姉との連絡は完全に途絶えた。長い年月のうちに、悲しい記憶は心の奥底に封印され、いつしか彼は、姉がいたことさえ意識の底に沈めてしまっていた。

彼が「敵国」と憎んでいた場所は、姉がたった一人で生きていた場所だったのだ。

リヒトは震える手でオルゴールを掴んだ。最後の記憶が、洪水となって彼に襲いかかる。

鳴り響く空襲警報。窓の外がオレンジ色に染まり、地面が激しく揺れる。

『リヒト…!』

瓦礫が降り注ぐ中、姉はベッドの下に蹲り、このオルゴールをきつく、きつく抱きしめていた。

『リヒト、無事でいて。お願い、生きて……!』

それは、弟の無事を祈る、姉の最後の絶叫だった。その声は、建物の崩れる轟音と共に、ぷつりと途絶えた。

リヒトは、作業台の上に崩れ落ちた。嗚咽が止まらなかった。

自分が修復していたのは、敵の遺物などではなかった。

それは、引き裂かれた家族の絆であり、姉が命を懸けて守ろうとした、自分への想いそのものだった。憎しみと無関心の壁の向こう側で、姉はずっと自分のことを想い続けてくれていた。その事実に、彼は打ちのめされた。

第四章 君のための鎮魂歌

どれくらいの時間、そうしていただろうか。工房の窓から差し込む光が、夕暮れの色を帯び始めた頃、リヒトはゆっくりと顔を上げた。涙でぐしょぐしょになった顔のまま、彼はもう一度、オルゴールを手に取った。

そして、再びゼンマイを巻いた。

工房に、澄んだメロディが響き渡る。

それはもはや、異国の旋律でも、ノイズ交じりの声でもなかった。姉が自分だけのために歌ってくれた、優しく、そして少しだけ切ない子守唄だった。一音一音が、リヒトの心の最も柔らかい場所に染み込んでいく。

彼は、自分の能力を初めて受け入れることができた。これは呪いなどではない。モノに宿る声を聞く力は、戦争によって無慈悲に断ち切られ、忘れ去られた物語を拾い集め、繋ぎ合わせるための力なのだと。国境や、主義や、憎しみといった人間が勝手に作り出した境界線がいかに脆く、無意味なものであるかを、姉のオルゴールは教えてくれた。

翌日、リヒトは修復したオルゴールを抱え、街外れの丘に登った。そこからは、再建が始まった街と、その向こうに広がる旧国境、ヴィストリア連邦の地平線までが見渡せた。彼は、姉がいたであろう方角に向かって、オルゴールの前に小さな野の花を供えた。

そして、静かに蓋を開ける。

姉の子守唄が、風に乗って、瓦礫の街へと流れていく。

それは、たった一人の姉のための鎮魂歌(レクイエム)であり、分断された世界に生きる全ての人々のための、ささやかな祈りのようにも聞こえた。

リヒトは、これからも修復師として生きていくだろう。だが、彼の仕事はもう以前とは違う。彼はただモノを直すだけではない。壊されたモノたちの声に耳を傾け、失われた記憶を紡ぎ、引き裂かれた人々の心を繋ぐために。

空はどこまでも青く、オルゴールの音色は、まるで境界線など初めから存在しなかったかのように、二つの国を隔てることなく、どこまでも、どこまでも響き渡っていった。

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