第七番目の休戦協定

第七番目の休戦協定

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第一章 歪な子守唄

泥と硝煙の匂いが染みついた塹壕の中で、僕、リヒトの仕事は「音」を作ることだった。巨大なスピーカーを通して、司令部から送られてくる敵国を罵る言葉や、士気を鼓舞する勇ましい軍歌を、前線へと流し続ける。スピーカーから吐き出される音の槍が、鉄条網の向こう側に潜む名もなき敵兵の心を突き刺し、蝕んでいく。それが僕の戦いであり、この陰鬱な戦争に勝利するための、誇るべき任務だと信じていた。

「リヒト、音量を上げろ。奴らの夕食が不味くなるくらいにな」

受話器の向こうで、上官が苛立った声で言う。僕は命令に従い、コンソールのツマミを捻った。スピーカーが唸りを上げ、耳障りなプロパガンダ放送が、黄昏の空気を引き裂くように響き渡る。これが日常。これが正義。そう自分に言い聞かせる。心の中に芽生え始めた小さな違和感には、気づかないふりをした。

その夜だった。いつものように放送が終わり、一瞬の静寂が戦場を支配した。虫の声すら聞こえない、重苦しい沈黙。それは、次なる砲撃か、あるいは夜襲の前触れを意味する、息詰まる時間だ。僕も固唾を飲んで、受話器に耳を澄ませていた。

その時だ。不意に、音がした。

それは僕たちのスピーカーからではなかった。鉄条網の向こう、敵陣からだった。しかし、それは勇ましい軍歌でも、我々を罵倒するプロパガンダでもない。

ピアノの旋律だった。

たどたどしいが、驚くほど澄んだ音色。攻撃的な和音は一つもなく、ただ静かに、悲しげに、鍵盤の上を指が彷徨っているかのようなメロディー。まるで、迷子になった子供が母親を探して歌う、歪な子守唄のようだった。

「なんだ、あれは……?」

僕は思わず呟いた。敵の新たな心理作戦か? しかし、その音楽からは、敵意や悪意といったものが一切感じられない。むしろ、その逆だ。それは、聴く者の胸の奥にある、柔らかくて傷つきやすい部分を、そっと撫でるような響きを持っていた。凍てついた塹壕の空気が、その一音一音に、わずかに震えているようにさえ感じられた。

数分後、音楽はふっと途切れ、戦場は再び元の沈黙に戻った。しかし、僕の中の何かが、決定的に変わってしまった。あの音は、僕の信じていた「日常」と「正義」に、小さな、しかし消えることのない亀裂を入れたのだ。あのピアノを弾いているのは、一体、誰なのだろう。その問いが、プロパガンダの騒音よりも大きく、僕の頭の中で鳴り響いていた。

第二章 スピーカー越しの対話

次の日から、僕は敵陣から流れてくるピアノの音を待つようになった。それは決まって、両軍のプロパガンダ放送が終わった後の、短い静寂の間にだけ現れた。上官に報告するべきか迷ったが、言い出せなかった。報告すれば、あの音楽は「敵性音源」として分析され、妨害電波で無慈悲に掻き消されるに違いない。それを想像すると、胸が奇妙に痛んだ。

ピアノの旋律は、日によって違った。ある日は明るく軽快なリズムを刻み、またある日は、深い溜息のような重い和音を響かせた。僕は通信室の隅で息を潜め、スピーカーの向こう側にいる「誰か」の感情を、音を通して受け取っていた。顔も、名前も、声さえ知らない。だが、彼が僕と同じように、この泥濘の中で息をし、何かを感じている人間なのだということだけは、痛いほど伝わってきた。

僕の中の何かが、疼き始めた。応えたい。僕もここにいると、君の音楽を聴いていると、伝えたい。

僕には、幼い頃に少しだけ習ったフルートがあった。戦場に持ち込むようなものではなかったが、故郷に残してきた姉が、お守りだと言って荷物の底に忍ばせてくれたものだ。震える手でケースを開け、冷たい銀色の管を握りしめる。何年も触れていなかったせいで、指はぎこちなかった。

ある月の綺麗な夜、いつものようにピアノの旋律が終わり、静寂が訪れた。僕は意を決した。マイクのスイッチを入れ、スピーカーに繋ぐ。そして、唇にフルートを当て、錆びついた記憶を頼りに、一音をそっと吹いた。

ポー、という情けないほどか細い音が、夜の闇に吸い込まれていく。

しまった、と後悔が襲う。なんて馬鹿なことをしたんだ。敵にこちらの位置を知らせるようなものだ。すぐにマイクを切ろうとした、その瞬間だった。

再び、ピアノの音がした。

それは、僕が吹いたフルートの音を、優しく包み込むような和音だった。驚いて、僕はもう一音、別の音を吹いてみる。するとピアノは、まるで僕の拙い旋律を導くように、美しい伴奏を奏で始めたのだ。

言葉のない、音だけの対話が始まった。

僕のフルートが問いを投げかけると、ピアノがそれに答える。ピアノが悲しげな旋律を奏でれば、僕のフルートが寄り添うように慰める。それは、国境も、鉄条網も、憎しみも越えて、二つの魂が直接触れ合うような、奇跡的な時間だった。僕たちは敵同士であることさえ忘れ、ただの音楽家になっていた。このスピーカーは、憎しみを拡散するための兵器ではなかった。たった一人の友人と繋がるための、世界で唯一の楽器だった。

第三章 沈黙の号令

僕と「ピアニスト」との夜のセッションは、いつしか塹壕の兵士たちの間で、暗黙の了解事項となっていた。日中は憎しみの言葉を浴びせ合う彼らも、夜、音楽が始まると、銃を置き、ただ静かに耳を澄ませるようになった。その優しい旋律は、敵味方の区別なく、凍えた兵士たちの心を温める唯一の焚き火となっていた。

だが、そんな穏やかな日々は、唐突に終わりを告げた。

「明日未明、総攻撃を開始する。全戦力をもって、敵陣を完全に制圧せよ」

司令部から下された命令は、氷のように冷たく、絶対的だった。そして、僕に与えられた任務は、攻撃開始の号令と共に、この戦場で最大音量の軍歌とプロパガンダを流し続け、敵の心を根底から破壊し尽くすことだった。

全身の血が凍りつくのを感じた。僕のスピーカーが、僕の楽器が、あのピアノを奏でる友人を沈黙させるための、無慈悲な鉄槌になる。僕がツマミを捻れば、彼の音楽は、彼の存在は、怒号と爆音の中に掻き消されてしまう。

苦悩の一夜が明けた。攻撃開始時刻が、刻一刻と迫る。通信室の時計の秒針が、まるで処刑台への階段を上る足音のように聞こえた。軍歌のレコードがターンテーブルの上で静かに回っている。僕は、ただそれを見つめていた。

そして、運命の時刻。受話器から、攻撃開始を告げるヒステリックな声が響いた。

「リヒト! 始めろ! 奴らを叩き潰せ!」

僕は、ゆっくりとコンソールの前に立った。だが、僕の手は軍歌のレコードではなく、傍らに置いたフルートを掴んでいた。震える唇にそれを当てる。これは命令違反だ。銃殺刑になるかもしれない。だが、もうどうでもよかった。

僕は、マイクに向かって、静かに息を吹き込んだ。

それは、僕たちが初めて対話した夜の、あの拙いメロディーだった。ただ悲しく、ただ切ない祈りのような音色が、攻撃命令が出されたはずの、死んだような静寂の中に響き渡った。

すると、奇跡が起きた。敵陣のスピーカーから、ピアノの音が流れてきたのだ。それは、いつものように僕のフルートを包み込む、優しい伴奏だった。僕たちは、砲火の代わりに音楽を交わし始めた。これが、僕たちの抵抗だった。僕たちの、第七番目の休戦協定だった。

だが、その時。

僕の背後で通信室のドアが乱暴に開かれ、上官が血走った目で飛び込んできた。彼が何かを叫ぼうとした、まさにその瞬間。

敵陣のスピーカーから、ピアノの音に混じって、か細く、雑音交じりの声が聞こえた。

「ありがとう。……もう、弾けなくなる」

その言葉が何を意味するのか、僕が理解するよりも早く、向こう岸で閃光が走り、腹の底を揺さぶるような鈍い音が響き渡った。

ピアノの音は、そこで永遠に途切れた。

第四章 弾けなくなったピアノのために

奇妙なことに、総攻撃は実行されなかった。敵陣から流れた最後の言葉と、それに続いた一つの響きは、こちらの司令部にも届いていたらしい。音楽が引き起こしたささやかな反乱と、その結末。それは、大義名分を掲げた戦争そのものを、数日間、無意味で滑稽なものに変えてしまった。

僕は、命令違反の罪を問われることもなく、ただ抜け殻のように通信室の椅子に座り続けていた。上官も、何も言わずに乾パンと水を置いていくだけだった。僕の友人は、いなくなった。顔も知らぬまま、名前も知らぬまま、彼はもう二度とピアノを弾くことはない。僕の心に開いた穴は、どんな軍歌やプロパガンダでも埋めることはできなかった。憎しみは消え、ただ途方もない喪失感だけが残った。戦争とは、国と国が争うことではない。誰かが大切にしている誰かを、理由もなく遠くへ連れて行ってしまうことなのだ。僕は、その時ようやく、本当の意味で大人になったのかもしれない。

やがて、長く続いた戦争は終わった。

僕は故郷の街に戻り、通信兵だった過去を心の奥底に封印して生きていた。スピーカーから流れる音楽を聴くたびに、胸が締め付けられるようだったからだ。

ある晴れた午後、僕はあてもなく街を歩いていた。そして、一軒の古道具屋の店先で、足を止めた。埃をかぶった家具の間に、一台の古いアップライトピアノが、静かに置かれていた。黒い塗装はところどころ剥げ、まるで深い傷跡のようだった。

僕は、これまで一度もピアノに触れたことなどなかった。それなのに、まるで見えない糸に引かれるように、その前に立った。そっと鍵盤の蓋を開ける。黄ばんだ象牙の鍵盤が、ずらりと並んでいる。

震える指先で、一つの鍵盤に触れてみた。

ポーン、と間の抜けた、しかしどこか懐かしい音がした。

僕は目を閉じる。すると、泥と硝煙の匂い、そしてスピーカー越しに聴いた、あの悲しくも美しい旋律が、鮮やかに蘇ってきた。

僕はもう一度、別の鍵盤を押す。そして、また次を。記憶の底から、あの夜のメロディーを、一音、一音、確かめるように手繰り寄せる。それは、弾くというより、探すという行為に近かった。

僕の拙い指が奏でる音楽は、かつて塹壕に響いたものとは似ても似つかない、不格好なものだった。けれど、それでよかった。これは、僕がいなくなった友人のために、そして、二度と音を奏でることのなくなった全ての者たちのために、語り継がなければならない物語なのだ。

僕は弾き続ける。彼が弾けなくなったピアノを、僕が代わりに弾き続ける。それこそが、僕があの戦争と交わした、決して破られることのない、たった一つの約束なのだから。

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