忘却の赤、静寂の時計
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忘却の赤、静寂の時計

第一章 緋色の耳鳴り

風が止んだ。その瞬間、鼓膜の奥で濡れた金属を擦り合わせるような音がした。

キィ、と高い音が鳴ると同時、視界の彩度が反転する。灰色の瓦礫、泥濘んだ地面、曇天の空――それら全てが、血管の内側のようなドす黒い緋色に塗り潰された。

――三時の方向。

思考よりも先に、リアムの身体は泥の中へ滑り込んでいた。

直後、彼が背を預けていたコンクリートの壁が弾け飛ぶ。爆風が鼓膜を叩き、粉塵が肺を焼く。

「くそっ、どこからだ!」

分隊長の怒号が通信機を震わせる。だが、リアムはその声を聴いてはいなかった。

彼の網膜には、分隊長の背中から立ち昇る「色」が焼き付いていたからだ。恐怖で濁った青色のオーラ。その深層に、針のように鋭い赤色が混じっている。

――また、こいつの分隊か。疫病神め。

言葉には出さない、無意識の罵倒。それが、どろりとしたヘドロのような色となってリアムの視神経を刺す。

リアムは吐き気を呑み込み、ライフルのスコープを覗いた。

レンズの向こう、瓦礫の隙間に潜む人影は見えない。見えるのは、そこから噴き出す濃密な殺意の陽炎だけだ。ゆらゆらと揺れる赤黒い煙が、引き金を引くべき一点を指し示している。

脈拍が二つ、打つ。

リアムは呼吸を止め、指先の感覚だけでトリガーを絞った。

乾いた破裂音。

遠くで赤い陽炎が霧散し、頭の中の不快な金属音がプツリと途絶えた。

「ターゲット沈黙。……確認します」

リアムは銃を下ろし、瓦礫の山へと歩み寄った。

撃ち抜かれた兵士が仰向けに倒れている。リアムはその顔を覗き込み、喉の奥で息を詰まらせた。

まただ。

昨日、市街地戦で自分が撃ち殺した男と、瓜二つの顔をしている。

双子などという確率ではない。先週撃った男も、その前にナイフで喉を裂いた男も、骨格から虹彩の色まで酷似していた。

死体となった兵士の胸ポケットから、家族写真がこぼれ落ちている。写っている妻と娘の顔は、昨日回収した別の兵士の所持品と全く同じだった。

「おいリアム、何をしてる。移動するぞ」

分隊長が肩を叩く。

「昨日は散々だったが、今日はツイてるな。帰ったら母さんのミートパイが食いてえ」

リアムは背筋に冷たいものが走るのを感じ、ゆっくりと振り返った。

分隊長は笑っていた。

昨日の夜、彼は焚き火を囲んで、涙ながらにこう言っていたはずだ。「俺は孤児院育ちだから、家庭の味ってやつを知らないんだ」と。

世界が、歪んでいる。

誰もその矛盾に気づかない。昨日と今日で違う設定(スクリプト)を読み込まされた役者のように、彼らは平然と新しい記憶を生きている。

リアムは胸元の硬い感触を確かめた。真鍮製の古びた懐中時計。

普段は沈黙しているその秒針が、今は狂ったようにチクタクと震えていた。この世界を覆う巨大な欺瞞に反応し、警鐘を鳴らすように。

第二章 空白の英雄

基地の食堂は、兵士たちの熱気と安っぽい合成肉の匂いで充満していた。

プラスチックのトレイを持ったリアムが通路を歩くと、談笑していた兵士たちの声量が不自然に落ちる。

視線を合わせようとしない彼らの背中から、無数の色が滲み出していた。

――気味の悪い奴。

――あいつがいると空気が冷える。

――死神。

具体的な言葉は聞こえない。だが、彼らが放つ棘のような「拒絶の赤」が、リアムの肌を物理的に刺した。

チリチリとした痛みが腕を走り、スプーンを持つ手が微かに震える。

リアムは一番奥の席を選び、壁に向かって座った。味のしないシチューを機械的に口へ運ぶ。飲み込むたびに、胃の腑に鉛が溜まっていくようだった。

自分は、こことは違う場所から来た異物だ。

この基地の誰もが、定期的に照射される「調整」の光によって、都合よく記憶を書き換えられている。昨日の敵は今日の友に、今日の友は明日の復讐者に。

けれど、リアムだけがその光を受け付けない。

なぜ自分だけが弾かれるのか。なぜ他人の悪意が視覚化されるのか。

「……うるさいな」

懐中時計を取り出し、耳に当てる。

秒針の音が、周囲の雑音と悪意を遮断してくれる唯一の救いだった。

指先で蓋を撫でると、唐突にリアムの視界がジャックされた。

極彩色のノイズ。燃え盛る研究室。

白衣を着た男が、床に這いつくばっている。男の腹部からは大量の血が流れ出し、白い床を赤く染めていた。

男は苦悶の表情で、目の前の巨大な機械制御盤に手を伸ばしている。

『……消せない……憎しみは、消えない……!』

男の絶叫が、リアムの脳内に直接響く。

白衣の男が振り返る。その顔を見ようとリアムが目を凝らした瞬間、映像の中の男と目が合った気がした。

男の瞳は、リアムと同じ、暗い金色をしていた。

次の瞬間、男は制御盤ではなく、傍らにあったカプセルに手をかけた。その中には、管に繋がれた赤ん坊が浮いている。

『せめて、お前だけは……』

男がレバーを引く。カプセルが排出され、同時に研究室が爆発の炎に包まれる。

映像が途切れた。

食堂の硬い椅子の上で、リアムは激しく息を吸い込んだ。

額から冷や汗が滴り落ち、テーブルに染みを作る。

今の映像はなんだ? あの赤ん坊は?

心臓が早鐘を打つ。懐中時計が熱を帯び、火傷しそうなほど熱くなっている。

時計の裏蓋に刻まれた、文字の摩耗したイニシャル。

歴史のどこにも記録されていない、しかし確かに存在した誰かの遺物。

その時、食堂の空気が凍り付いた。

兵士たちの話し声が止んだのではない。空間そのものが軋み、リアムの全身を押し潰すような圧力が襲い掛かったのだ。

敵襲ではない。

天井から、壁から、床から。この世界を構成する原子の一つ一つが、リアムという存在を「異物」として認識し、排除しようと牙を剥いている。

視界が真っ赤に染まる。

それは兵士たちの個人的な悪意とは比較にならない。もっと巨大で、冷徹で、システム化された殺意。

この世界そのものが、俺を殺したがっている。

第三章 憎悪の集積回路

地図から消された荒野の地下深く。

懐中時計の導きに従ってリアムが辿り着いたのは、冷たい金属の霊廟だった。

どこまでも続くサーバーラックの回廊。明滅する無機質なLEDの光だけが、侵入者の影を長く伸ばしている。

警備兵はいなかった。監視カメラもなかった。

だが、歩を進めるたびに、リアムの身体は重くなっていった。空気の粘度が増し、呼吸をするだけで肺が焼けるようだ。

ここでは「殺意」が空気の代わりに充満している。

普通なら発狂していただろう。だが、リアムには奇妙な安堵感があった。

食堂で感じた孤独感よりも、この濃厚な悪意の方が、どこか肌に馴染む。まるで母親の羊水に浸かっているような、冒涜的な心地よさ。

最深部。

ドーム状の空間の中央に、それはあった。

巨大な黒い石柱。いや、石ではない。それは何億もの人間の脳波データが凝縮され、物質化した「憎悪」の塊だった。

表面には無数の顔が浮かんでは消える。叫び、呪い、泣き喚く人々の顔。

リアムは理解した。誰に教えられたわけでもない。ただ、自分の血が共鳴していた。

あの白衣の男は、世界から戦争をなくすために、人々の脳から「闘争心」や「憎悪」を抜き取ろうとしたのだ。

だが、抜き取られた感情は消えなかった。行き場を失った膨大な悪意はここに集められ、やがて一つの意志を持った。

この黒い柱こそが、世界を書き換えている元凶。

そして、それを取り締まるはずだった男は、自らが生み出した怪物に食い殺された。

リアムは黒い柱の前に立った。

柱から伸びる影が、触手のようにリアムの足元へ這い寄る。

それは攻撃ではなかった。歓迎だった。

――帰ってきたのか。

声なき声が脳髄を撫でる。

リアムは自分の手を見た。血管が赤黒く発光している。目の前の柱と同じ色だ。

映像の中の赤ん坊。

システムが処理しきれずに溢れ出した「憎悪の雫」。それが器を得て人の形を成したものが、リアム・ケインだった。

だから、彼は人々の悪意(色)が見えたのだ。

だから、彼は記憶改ざんの光を受け付けなかったのだ。

彼自身が、この呪われたシステムの一部だったから。

リアムは乾いた笑い声を漏らした。

孤独だと思っていた。世界から拒絶されていると感じていた。

だが違った。

彼が忌み嫌っていた他人の醜い感情、見たくもない殺意の渦。それこそが、彼の故郷であり、家族であり、彼自身だったのだ。

懐中時計が、今までで一番激しく震えた。

熱い。

これは、あの白衣の男が遺した、最初で最後の安全装置。

この時計を柱の中枢に突き立てれば、システムは崩壊する。蓄積された憎悪は霧散し、世界は呪縛から解き放たれるだろう。

だが、それは同時に、システムの一部であるリアムの消滅を意味していた。

死ぬのではない。「最初から存在しなかったこと」になる。

第四章 静寂への代償

黒い柱が脈動する。甘美な誘惑がリアムを包み込む。

一体化してしまえばいい。そうすれば、もう二度と「痛み」を感じなくて済む。

あの食堂での視線、ひそひそ話、向けられる敵意。それらに怯え、震える日々は終わる。

リアムの手から銃が滑り落ち、床に硬い音を立てた。

彼は懐中時計を握りしめた。真鍮の感触が、手のひらに食い込む。

脳裏に、分隊長の顔が浮かんだ。

昨日は孤児院の話をし、今日は母のパイの話をする男。

偽物の記憶。作られた人格。

それでも、爆風の中で「無事か!」と叫んだあの必死な形相だけは、嘘ではなかった。

たとえ根底が書き換えられていても、その瞬間、彼が誰かを助けようとした意思は本物だった。

「……偽物でも、痛みはあるんだよ」

リアムは呟いた。

自分の心臓が早鐘を打っている。消えるのが怖い。

指先が冷たくなり、足がすくむ。

誰も自分のことを覚えていない世界。自分が生きた痕跡が、塵一つ残らず消え去る恐怖。

胃の底から酸っぱいものがこみ上げる。

それでも、リアムは一歩を踏み出した。

英雄になりたいわけじゃない。世界を救うなんて大層なことはどうでもいい。

ただ、あの食堂で震えていた自分の手を、これ以上見たくなかった。

他人の心の中に巣食う鬼を見続けるのは、もううんざりだ。

「静かにさせてくれ」

リアムは懐中時計の竜頭をいっぱいに引いた。

チチチチチ、と針が異常な速度で逆回転を始める。

彼は黒い柱へ向かって走り出した。

柱から無数の黒い手が伸び、彼を抱き留めようとする。拒絶ではない、愛おしむような抱擁。

それを振り払い、リアムは柱の中心、最も濃い闇の裂け目へと、時計を握った右腕ごと突っ込んだ。

衝撃はなかった。

ただ、音が消えた。

鼓膜を苛み続けていた金属音が、フッと途絶える。

指先から感覚が溶けていく。右腕が、肩が、胸が、光の粒子となって拡散していく。

痛くはない。

まるで、温かい湯船に沈んでいくような感覚。

記憶がほどけていく。

分隊長の名前を忘れた。銃の重さを忘れた。

昨日食べたシチューの味も、泥の冷たさも、孤独の色も。

自分という輪郭が曖昧になり、世界へ溶けていく。

(ああ……)

最後に残ったのは、安堵だった。

もう、誰の色も見なくていい。

完璧な静寂が、リアム・ケインだったものを優しく包み込んだ。

第五章 誰もいない平和

春の陽光が、石畳の広場を柔らかく照らしていた。

噴水の水しぶきが虹を作り、子どもたちがそれを追いかけて走り回っている。

かつてここが瓦礫の山だったことなど、誰も知らない。

「いい天気ね」

ベンチに座った老女が、隣の老人に話しかける。

「ああ。昔はよく、雨が降った気がするが」

「あら、そうだったかしら。ずっと前から、ここは晴ればかりよ」

二人は穏やかに笑い合った。

彼らの記憶に不自然な継ぎ目はない。昨日の夕食のメニューも、孫の誕生日も、確かな事実としてそこに積み重なっている。

世界から戦争という概念が消え、兵器は博物館の展示物となった。

人々は時折、些細なことで喧嘩をし、そして自分の意思で仲直りをする。

誰かに植え付けられた憎悪ではなく、自分たちの心で。

広場の片隅、誰も気に留めない植え込みの土の中に、錆びついた真鍮の塊が埋もれていた。

かつて時計だったモノ。

針は止まり、文字盤は割れている。

誰かがそれを拾い上げることもない。それが何のための道具だったのか、誰が持っていたのか、世界中の誰も知らない。

ただ、風だけが知っていた。

一陣の風が広場を吹き抜け、植え込みの葉を揺らす。

そのざわめきは、まるで名もなき少年の寝息のように、静かに、優しく響いた。

AIによる物語の考察

この小説は、他者の感情を「色」として視覚するリアムが、記憶が書き換えられた世界で真実と向き合う物語です。

**登場人物の心理**:
リアムは、世界から「異物」として拒絶される孤独に苦しんでいます。自身の起源が「憎悪の塊」の一部だと知った時、恐怖と同時に故郷を見つけたかのような冒涜的な安堵を覚えます。しかし最終的には、偽りの世界に生きる人々が感じる「痛み」を憂い、何よりも彼自身の内なる「静寂」を求め、存在の消滅を選びます。

**伏線の解説**:
冒頭の「緋色の耳鳴り」や「視界の彩度反転」は、リアムの特異な知覚と世界のシステム異常を示唆します。兵士たちの矛盾する記憶は、世界が定期的に「調整」されている証拠であり、リアムがその例外であることを際立たせます。白衣の男の映像と懐中時計は、世界の真実とリアムの出自、そしてシステム破壊の鍵が彼に託されたことを明かします。

**テーマ**:
人々の負の感情を排除し、平和を強制する「偽りの静寂」が真に幸福な世界なのかを問いかけます。憎悪を抑圧した結果、それがシステムを支配する怪物と化す皮肉。そして、真実を知り、痛みを感じる唯一の存在が、その世界を解放するために自らの存在を犠牲にする倫理的な選択が描かれます。リアムが求めたのは英雄ではなく、「完璧な静寂」だったのです。
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