鉄の雨、銀の弦

鉄の雨、銀の弦

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第一章 旋律の墓場

「嬰ト短調(Gシャープ・マイナー)。ひどく調律の狂った、耳障りな音だ」

泥濘(ぬかるみ)に伏せたまま、エリアンは呟いた。

頭上を掠めた迫撃砲弾が、湿った土を抉り取る。

爆風が鼓膜を叩くたび、彼は痩せた身体を小さく丸めた。

「おい、エリアン! 何をごちゃごちゃ言ってる! 撃て、撃ち返せ!」

分隊長の怒声が響く。

だが、エリアンの指はライフルの引き金にかからない。

震えが止まらないのだ。

彼にとって、戦場は視覚的な地獄である以上に、聴覚的な拷問部屋だった。

生まれつきの絶対音感。

爆発音は不協和音の打撃であり、悲鳴は高周波のノイズとなって脳髄を直接かき乱す。

「役立たずめ……」

分隊長が舌打ちをして離れていく。

エリアンは泥だらけのコートの懐をまさぐった。

そこには、歪んだ木片のようなバイオリンが隠されている。

故郷を発つ時、父が持たせてくれた安物だ。

夜が来る。

雪が、死臭を白く覆い隠す時間。

エリアンはそっとバイオリンを構えた。

弓の毛は切れかけ、弦も錆びている。

それでも、音を紡ぐことだけが、彼が正気を保つ唯一の儀式だった。

凍てつく指先で、弦を擦る。

バッハ。無伴奏。

暗い塹壕の底から、細い銀色の糸のような旋律が立ち昇る。

その時だった。

『カァン!』

鋭い破裂音が響いた。

エリアンは首をすくめた。

敵の狙撃兵(スナイパー)だ。

着弾点は、エリアンの頭上わずか数センチ。

鉄杭が弾かれ、甲高い余韻を残した。

殺される。

そう思った瞬間、エリアンの耳が奇妙な事実に気づいた。

(今の着弾音……完全な四分音符だ)

第二章 死神のメトロノーム

偶然だと思った。

エリアンは恐る恐る、続きを弾き始めた。

次のフレーズへ移る。

『カァン!』

まただ。

今度は小節の終わり。

まるで指揮棒を振るかのような、正確無比なタイミング。

エリアンは弓を止めた。

静寂。

敵の塹壕がある森の奥からは、何の声も聞こえない。

試すように、スタッカートで跳ねるような旋律を弾く。

『カン、カン、カァン!』

鉄杭を叩く銃弾が、完璧なリズムを刻んだ。

「……嘘だろ」

エリアンの唇から白い吐息が漏れる。

向こうにいるのは、ただの敵ではない。

音楽を知る者だ。

それから毎夜、奇妙な二重奏(デュエット)が始まった。

エリアンがバイオリンで旋律を歌い、姿なき狙撃手が銃声でリズムを刻む。

言葉は交わさない。

姿も見えない。

ただ、冷え切った大気を震わせる音波だけが、彼らを繋いでいた。

ある夜、エリアンが難解なパガニーニを弾き損じた時、銃声は止んだ。

数秒の沈黙の後、森の奥から口笛が聞こえた。

正しい旋律。

エリアンは顔を赤らめ、弾き直す。

『カァン!』

肯定の着弾音。

エリアンの中で、恐怖は消え去っていた。

彼はもう「臆病な兵士」ではなかった。

顔も知らぬ友と共演する、一人の演奏家だった。

だが、戦争は感傷を許さない。

「明朝、総攻撃だ」

分隊長の言葉が、冷たい宣告のように響いた。

第三章 最後のカーテンコール

夜明け前、空は鉛色に淀んでいた。

突撃の笛が鳴る。

「行けぇぇぇッ!」

怒号と共に、兵士たちが塹壕を飛び出す。

エリアンも走った。

ライフルは持っていない。

背中にバイオリンだけを括り付けて。

「殺すな、彼を殺さないでくれ!」

心の中で叫びながら、彼は雪原を駆けた。

敵の銃火が味方をなぎ倒していく。

血の赤が雪に散る。

その不協和音の中で、エリアンはあの「音」を探した。

あの方角だ。

正確なリズムを刻む、あのライフルの音。

エリアンは森の境界線へ飛び込んだ。

枯れ木のカモフラージュ。

そこに、一人の兵士が倒れていた。

敵の軍服。

血に染まった胸。

傍らには、スコープの付いたライフル。

「君か……?」

エリアンは息を切らして駆け寄る。

男はまだ若かった。

エリアンと同じくらいの、青い瞳をした青年。

腹部を味方の榴弾片が引き裂いていた。

青年の瞳が、エリアンの背中のバイオリンを捉える。

ふ、と微かに口元が緩んだ。

血の泡と共に、掠れた声が漏れる。

「……テンポが、速すぎるぞ……」

「ごめん、怖かったんだ」

エリアンは泣きながら、その場に崩れ落ちた。

青年は震える手で、懐から一枚の写真を取り出そうとした。

それは家族の写真ではなく、指揮棒を振る彼自身の写真だった。

「続きを……」

青年の瞳から光が消えかける。

エリアンはバイオリンを構えた。

砲撃の音が近づいている。

ここも間もなく吹き飛ぶだろう。

それでも、彼は弓を引いた。

曲は、彼らが毎夜合わせた『アヴェ・マリア』。

青年の指が、ライフルの代わりに地面を弱々しく叩く。

ト、ト、ト……。

そのリズムは次第に弱まり、やがて雪の中に溶けて消えた。

エリアンは弾き続けた。

涙で視界が歪む。

周囲で爆発音が轟くが、もう何も聞こえない。

ただ、二人の音楽だけが、硝煙の空に高く、高く昇っていった。

数日後、制圧された森の一角で、二つの遺体が見つかった。

敵味方の軍服を着た二人は、互いに寄り添うように冷たくなっていた。

一方の手にはバイオリンが、もう一方の手には指揮棒のような木の枝が握られていたという。

雪解け水が、彼らの頬を濡らしていた。

それはまるで、長い演奏を終えた奏者に贈られる、静かな拍手のようだった。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • エリアン: 繊細な心を持つ兵士。絶対音感ゆえに戦場の轟音に耐えられず「臆病者」と罵られるが、音楽への情熱だけは誰よりも強い。
  • スナイパー(敵兵): 姿なき共演者。元は将来を嘱望された指揮者。正確無比な射撃技術を、人を殺すためではなく、リズムを刻むために使うことを選んだ。

【考察】

  • 銃声のメタファー: 本作において、銃声は「死の宣告」から「信頼のメトロノーム」へと意味を変容させる。暴力の象徴である武器が、コミュニケーションの道具として再定義されている。
  • 不協和音と調和: 冒頭の「調律の狂った迫撃砲(不協和音)」と、中盤の「二重奏(調和)」の対比は、戦争の混沌と芸術の秩序を象徴している。
  • 雪の役割: 雪は音を吸い込み、世界を静寂にする性質がある。二人の音だけが際立つための舞台装置であり、最終的に彼らの亡骸を等しく覆うことで、死における平等を表現している。
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