第一章 戦場の共鳴
雨が、鉄と泥を叩いている。
塹壕に身を潜めたキリアンは、こめかみを強く押さえた。
頭蓋の裏側で、数千の悲鳴が反響している。
他人の感情が流れ込む『共鳴』の呪い。
だが、今夜の敵は違った。
「……来るぞ」
キリアンが呟くと同時に、闇の向こうから影が滲み出る。
敵兵たち。
けれど、キリアンの脳裏に映るべき「恐怖」や「殺意」の色がない。
完全な無。
心臓が動く肉の人形。
(これが『忘却処置』の成れの果てか)
痛みも、愛も、恐怖さえも削ぎ落とされた完璧な兵士。
吐き気がするほどの静寂が、塹壕に迫る。
その時だ。
ドクン、とキリアンの脳髄が跳ねた。
静寂の海を引き裂くように、強烈なイメージが視界をジャックする。
『逃げろ、キリアン!』
声ではない。
脳に直接叩きつけられた、焼けつくような焦燥。
そして、泥だらけの秘密基地で笑い合った、遠い夏の日の映像。
「……カイル?」
死んだはずの親友。
その面影が、銃火の閃光に浮かび上がった。
彼は敵兵の軍服を纏い、キリアンに向けて銃口を向けている。
だが、その瞳だけが、必死に何かを叫んでいた。
カイルが引き金を引く。
弾丸はキリアンの頬を掠め、背後の通信機を粉砕した。
『来い』
言葉よりも速く、意志が伝播する。
カイルは踵を返し、廃墟と化した街の奥へと走り出した。
キリアンは泥を蹴った。
理屈ではない。
追いかけなければ、取り返しのつかないことになる。
第二章 偽りの楽園
廃教会への道は、銃弾の嵐だった。
「伏せろ!」
キリアンはカイルの背中を押し、瓦礫の陰に滑り込む。
石柱が弾け、石飛礫が頬を裂く。
「カイル、お前、何を……!」
問い詰めようとしたキリアンの腕を、カイルが掴む。
瞬間。
カイルの記憶が、濁流となってキリアンの中に雪崩れ込んだ。
言葉による説明などない。
生の「体験」が、キリアンの脳を焼き尽くす。
――白亜の研究所。
――並べられたガラスの小瓶。
――拘束椅子に座らされた、一人の少女。
(エララ……!?)
キリアンの妹。
故郷で待っているはずの彼女が、虚ろな目で笑っている。
白衣の男が、彼女の頭部から「光の粒子」を抜き取っていく。
『戦争の恐怖を忘れれば、人はまた戦える』
『悲しみを消せば、兵士はリサイクルできる』
上層部の男たちの冷笑。
エララの記憶から抜き取られたのは「両親が殺された夜の絶望」。
その代わりに植え付けられたのは、「平和な日常」という甘美な嘘。
嘘を守るために、戦争は永遠に継続される。
終わらない地獄こそが、この国の経済を回すエンジンだった。
「ぐ、ぁぁあああ!」
キリアンは現実に引き戻され、嘔吐した。
カイルが悲痛な目でこちらを見ている。
彼の体は既にボロボロだった。
軍の追っ手から、この「真実」を持ち出すために、どれほどの血を流したのか。
二人は崩れかけた祭壇へ転がり込む。
そこには、無骨な装置が鎮座し、ケーブルが脈打つように光っていた。
「カイル、これは……」
『記憶の放出装置』
カイルの意思が響く。
世界中から集められた「痛み」の貯蔵庫。
これを解放すれば、全人類の脳に、奪われた記憶が強制還流される。
だが、それは同時に。
(エララが……壊れてしまう)
妹が信じている「平和な嘘」が弾け飛び、両親を失った地獄の夜が蘇るのだ。
ドォォォン!
教会の扉が爆破された。
硝煙の中から、無表情な兵士たちが雪崩れ込んでくる。
第三章 慟哭の雨
銃声が轟く。
カイルが盾となり、数発の弾丸をその身に受けた。
「が、はっ……!」
鮮血が祭壇を汚す。
カイルは崩れ落ちながら、血まみれの手で装置のレバーを指し示した。
『引け、キリアン!』
「でも、これを引けばエララは……!」
『嘘の中で生きる家畜のままでいいのか! 痛みを知らなければ、人は人になれないんだ!』
カイルの絶叫が、共鳴を通じて魂を震わせる。
追っ手の銃口がキリアンに向く。
迷っている時間はない。
妹に、平穏な嘘を与えるか。
それとも、残酷な真実と共に生きる自由を与えるか。
キリアンは叫び、追っ手の一人を撃ち抜いた。
その反動のまま、装置のレバーに手をかける。
「許してくれ、エララ……!」
ガキンッ。
硬い金属音が響き、レバーが下りる。
直後、装置から目映い光の奔流が噴き出した。
世界の色が反転する。
戦場から音が消えた。
銃声ではない。
兵士たちの指が止まったのだ。
キリアンの脳内にも、数億の記憶が逆流してくる。
焼ける村。
子供の泣き声。
友を見捨てた後悔。
愛する人の冷たい肌。
忘却されていたすべての痛みが、人類のシナプスを焼き尽くす。
「あ、あぁぁぁぁ……」
教会の外から、獣のような慟哭が聞こえ始めた。
銃を捨て、地面に顔を擦り付けて泣き叫ぶ兵士たち。
彼らは思い出したのだ。
自分が何を殺し、何を失ったのかを。
キリアンは膝をつき、動かなくなったカイルの亡骸を抱きしめた。
カイルの顔は、苦痛に歪んでいたが、どこか安らかだった。
ステンドグラスの割れ目から、雨が吹き込んでくる。
それは、世界中の涙を集めたように冷たかった。
もう、誰も引き金を引けない。
あまりにも痛すぎるから。
あまりにも悲しすぎるから。
キリアンは涙で滲む視界の先、遠い故郷の空を睨んだ。
妹は今頃、泣き叫んでいるだろうか。
それとも、膝を抱えて震えているだろうか。
「帰ろう」
キリアンはカイルのドッグタグを握りしめ、よろめきながら立ち上がった。
この残酷で、どうしようもなく痛みに満ちた世界で。
彼女の涙を拭うことだけが、生き残った共鳴者の、最後の使命なのだから。
雨は、いつまでも降り続いていた。