虹の墓標、無重力の揺り籠
第一章 虹の残滓
俺、リヒトの目には、世界が常に歪んだ虹色に輝いて見えた。人々が抱く憎悪は、俺の網膜の上で目に見えない波動となり、やがて空気中の塵を核にして美しい鉱物へと結晶化する。それはまるで、呪いが産み落とした宝石だった。
戦争が始まってから、街にはその忌まわしい宝石が雨のように降り注いだ。建物の瓦礫に、アスファルトの裂け目に、打ち捨てられた子供の玩具の上に、虹色の結晶がキラキラと光っている。人々はそれを「戦争石」と呼び、忌み嫌いながらも、その美しさに目を奪われた。
俺はその結晶に触れることができない。触れれば最後、憎悪を放った者の原体験が、灼熱の鉄のように精神を焼き尽くすからだ。
「リヒト、また見てるのか」
背後からの声に、俺は瓦礫の山から視線を外した。幼馴染のエリアが、心配そうな顔で立っている。彼女の吐く息は白く、冬の空気に溶けていった。彼女は数少ない、俺の能力の理解者だ。
「ああ。今日の空は、一段と綺麗だからな」
皮肉を込めて言うと、エリアは眉をひそめた。俺の足元に、拳大の紫水晶にも似た結晶が転がっていた。それは、今朝の空爆で死んだ兵士が、故郷に残した恋人を想って抱いた絶望と、敵への憎悪が混じり合ったものだろう。その強烈な波動が、肌をピリピリと刺す。
ふと、風が吹き、俺の伸ばした指先がその結晶に掠めた。
瞬間、世界が反転した。
――土埃の匂い。耳鳴り。腕の中から消えた温もり。視界の端に映る、黒焦げの写真。叫びたいのに、声が出ない。憎い。この世界すべてが。俺から彼女を奪ったすべてが憎い――
「……っ!」
俺は喘ぎながら後ずさり、壁に背中を打ち付けた。心臓が氷の爪で掴まれたように痛む。見知らぬ兵士の最後の感情が、俺の中でまだ燃え盛っていた。
「大丈夫!?」
エリアが駆け寄ってくる。俺は首を振り、どうにか呼吸を整えた。これが俺の日常。他人の憎悪に焼かれ続ける地獄だ。
その時、遠くの空が奇妙に揺らめいたのを俺は見た。憎悪の波動ではない。愛や喜びがもたらす「軽さ」でもない。まるで、世界の法則がその一点だけ、綺麗にくり抜かれたような、不気味な静寂。
「なあ、エリア。最近噂になってる『無重力帯』って、本当にあるのか?」
俺の問いに、軍の研究者でもある彼女は、深刻な表情で頷いた。「ええ。そして、それは日に日に拡大しているわ」
第二章 歪む地平
「無重力帯」は、新たな戦争の火種となった。あらゆる物質が重力から解放され、宙に浮遊するその領域は、戦略的に計り知れない価値を持っていたからだ。各国は領土拡大の野心を剥き出しにし、憎悪の重力はさらに増し、星の自転すら僅かに狂わせ始めていた。
俺の能力は、そんな状況下で軍の目に留まった。憎悪の波動を感知し、その源を特定できる唯一の人間として、俺はエリアと共に無重力帯の調査隊に組み込まれた。乗り心地の悪い装甲車に揺られながら、俺たちは歪んだ地平線を目指していた。
「気分はどう?」
エリアが水筒を差し出す。俺は無言で受け取り、ぬるい水を喉に流し込んだ。
「最悪だ。ここは憎悪が濃すぎる」
窓の外では、敵意と恐怖が渦を巻き、大気中に無数の結晶を生み出していた。空は虹色の砂嵐に見舞われたかのようだ。だが、無重力帯が近づくにつれて、奇妙な変化が現れた。
憎悪の波動は、むしろ強まっている。それなのに、結晶化する数が目に見えて減っていくのだ。
「何か、おかしい」
俺は呟いた。調査隊のキャンプ地は、無重力帯の境界線から数キロの地点に設営された。そこでは、小石や枯れ葉が、まるで意思を持ったかのようにゆっくりと宙を舞い、そして落ちる。重力と無重力がせめぎ合う、奇妙な空間だった。
俺は一人、境界線へと歩を進めた。そこには、明確な線など引かれていない。ただ、ある一点を越えた瞬間、足元の土くれがふわりと浮き上がり、身体が綿のように軽くなる。音のない世界。風さえもここでは重さを失っているようだった。
そして、俺は「それ」を見た。
憎悪の波動だ。濃密で、冷たく、底なしの沼のような。だが、それは虹色に輝かない。結晶にもならない。ただ、黒い靄のように空間に滞留し、世界の法則そのものを蝕んでいるようだった。触れるまでもない。見るだけで、魂が凍てつくような感覚。
これは、俺が今まで見てきた、どんな憎悪とも違う。
熱を持たない、死んだ憎悪。
「リヒト、危ない!」
エリアの叫び声で我に返った。俺は知らず知らずのうちに、無重力帯の深部へと足を踏み入れていた。周囲では、かつての戦闘で破壊された戦車の残骸が、巨大な墓標のように静かに浮遊している。その光景は、あまりに非現実的で、美しささえ感じさせた。俺は、この不気味な静寂の中心に、何か途方もない謎が隠されていることを確信していた。
第三章 空虚の中心
調査は困難を極めた。無重力帯の中心に近づくほど、あらゆる観測機器が異常な数値を示し、機能を停止した。残されたのは、俺の「目」だけだった。
俺とエリアは、数名の護衛と共に、特殊な係留索を体に巻きつけ、浮遊する瓦礫を足場にしながら中心部へと進んだ。音のない世界で聞こえるのは、自分たちの荒い呼吸音と、心臓の鼓動だけだ。
そして、俺たちはついに中心核へと到達した。
そこに在ったのは、巨大な建造物でも、未知のエネルギー源でもなかった。ただ、家一軒ほどもある巨大な結晶が、絶対的な静寂の中でゆっくりと自転していた。
しかし、それは虹色ではなかった。憎悪の結晶でもなければ、喜びが放つ光でもない。それは、完璧なまでに「透明」だった。光を反射も屈折もさせず、ただそこにある空間を喰らうように存在している。俺の目には、それが宇宙に空いた穴のように見えた。
「……空虚な結晶」
エリアが息を呑む。周囲には、憎悪の波動も、喜びの波動も、何も存在しない。完全な「無」。感情の真空地帯。滞留していた黒い靄のような波動は、すべてこの結晶に吸い込まれているようだった。
護衛たちが恐怖に顔をこわばらせる中、俺はまるで何かに引かれるように、その結晶へと手を伸ばした。
「リヒト、やめて!」
エリアの制止も耳に届かない。この不気味な憎悪の正体を、確かめなければならない。
指先が、冷たいガラスのような表面に触れた。
瞬間、俺の脳内に流れ込んできたのは、憎悪の原体験ではなかった。
炎も、絶叫も、悲しみも、そこには無かった。
――ただ、無限に広がる灰色の風景。
テレビのニュースで流れる戦争の映像を、食事をしながら眺める男。
隣人が泣き崩れているのを、カーテンの隙間から無表情で見つめる女。
愛を囁かれても、何も感じずに頷くだけの若者。
憎むことに疲れた。
愛することに飽きた。
悲しむことにうんざりした。
喜ぶことの意味が分からない。
どうでもいい。何もかも。早く終わればいい。世界なんて――
それは、特定の誰かの感情ではなかった。何億、何十億という人々の、声にならない「無関心」の集合体。感情の死骸が堆積して生まれた、巨大な虚無。
憎悪は重い。喜びは軽い。では、そのどちらでもない、感情の完全な欠如は?
それは、世界の重力法則そのものに穴を穿ち、すべてを無に帰す「無重力」となるのだ。
「……そうか……」
俺は呆然と呟いた。
「これが、無重力帯の正体か……」
結晶から手を離すと、俺は膝から崩れ落ちた。憎悪を追体験するより、遥かに恐ろしい。これは、魂がゆっくりと腐っていく病だ。そしてその病は、すでに世界中に蔓延している。
第四章 感情のトリガー
司令部に持ち帰った報告は、一笑に付された。「無関心が原因だと?兵士の見る悪夢か何かだろう」。上官たちは、空虚な結晶を解析し、兵器として転用することしか考えていなかった。彼らの瞳にもまた、あの灰色の無関心の色が滲んでいた。
作戦司令室の冷たい空気の中、エリアが唇を噛みしめていた。
「このままじゃ、世界が虚無に飲み込まれる……」
彼女の言う通りだった。無重力帯は、人々の心が死んでいく速度で拡大している。憎しみ合うことさえやめた時、この星は重力も軽さも失い、ただの冷たい岩塊として宇宙を漂うことになるだろう。
「何か方法はないのか」俺は絞り出すように言った。
エリアはしばらく黙り込み、やがて顔を上げた。その瞳には、危険な光が宿っていた。
「一つだけ、仮説があるわ」
彼女は一枚のデータパネルを俺の前に滑らせた。
「あの空虚な結晶は、あらゆる感情の波動を吸い込む。いわば、感情のブラックホール。でも、もし、その吸収能力を逆流させることができたら……?」
「逆流?」
「ええ。結晶をトリガーにして、人々の心に強制的に強い感情を『注入』するの。心の奥底に押し込められた、あるいは忘れ去られた感情の堰を、無理やり破壊するのよ」
俺は息を呑んだ。それは、あまりにも過激で、危険な賭けだった。
「そんなことをすれば、どうなるか分かってるのか。憎悪が暴走すれば、今度こそ世界は焼き尽くされるぞ」
「ええ、分かってる。でも、憎しみの炎で焼かれる方が、冷たい虚無の中で凍え死ぬよりマシじゃない!?」
エリアの声が震えていた。彼女は、ただの傍観者ではいられなかったのだ。
「私たちは、選ばなければならないのよ、リヒト。静かな死か、それとも破滅の可能性を秘めた再生か」
彼女の言葉は、重く俺の心にのしかかった。憎悪の結晶に触れるたび、俺はその苦痛に苛まれてきた。感情なんてない方がいいと、何度思ったことか。だが、あの虚無を体験してしまった今、憎悪の持つ凄まじい熱量さえ、どこか生命の証のように思えた。
窓の外では、また空襲警報が鳴り響いていた。しかし、街を歩く人々の足取りは重く、その表情には恐怖も怒りも見られない。ただ、煩わしそうに空を見上げるだけ。
世界は、もう手遅れなのかもしれない。
それでも。
俺は立ち上がり、テーブルの上に置かれていた空虚な結晶のサンプル――拳ほどの大きさの、完璧な透明の塊――を手に取った。ひんやりとした感触が、覚悟を決めさせた。
「やるしかない、か」
第五章 最後の波動
俺とエリアは、軍の混乱に乗じて空虚な結晶を奪い、最前線へと向かった。敵と味方が睨み合う、憎悪の重力が最も濃い場所。そしてその向こうには、無関心な市民たちが暮らす大都市が広がっている。ここが、世界の運命を決める舞台だった。
砲弾が飛び交い、虹色の結晶が絶えず生まれては砕け散る。その中心で、俺は空虚な結晶を高く掲げた。エリアが小型の増幅装置を起動させる。甲高い起動音が、爆音の合間を縫って響き渡った。
「リヒト!」
エリアが叫ぶ。覚悟はいいか、と。
俺は頷いた。静かな虚無による世界の死か、激しい感情による世界の破滅か。俺が選ぶのは、そのどちらでもない。
俺は目を閉じ、意識を集中させた。自分の能力のすべてを、この透明な結晶に注ぎ込む。憎悪を注入するのではない。喜びを強制するのでもない。
俺が世界に送るのは、俺がこれまでその身に受けてきた、無数の「痛み」の記憶そのものだ。
――息子を失った母親の、心臓が引き裂かれるような悲しみ。
――友に裏切られた兵士の、骨まで凍るような孤独。
――故郷を焼かれた少女の、言葉にならない絶望。
――そして、恋人を奪われた兵士の、世界すべてを呪うほどの憎悪。
俺が触れてきた、数えきれないほどの憎悪の原体験。その全てを、結晶を通して世界中に「追体験」させる。
「うあああああああっ!」
俺の絶叫と共に、空虚な結晶がまばゆい光を放った。それは虹色ではなく、あらゆる感情の色が混じり合った、純粋な白色の光だった。光の波動が、戦場を、都市を、そして大陸全土を包み込んでいく。
次の瞬間、世界から一切の音が消えた。
そして、一拍の後。
至る所から、慟哭が生まれた。
銃を構えていた兵士が、その場に崩れ落ちて泣き始めた。敵兵の恐怖と悲しみが、自分のものとして流れ込んできたのだ。遠くの都市では、ビルの窓という窓から、人々の嗚咽が漏れ聞こえてくる。誰かの痛みを、初めて自分の痛みとして感じた人々が、ただひたすらに泣き叫んでいた。
憎しみは消えない。悲しみも消えない。だが、それらはもはや、自分だけのものではなくなった。世界は、巨大な一つの感情で結ばれた。
戦争は、終わるだろう。しかし、その代償はあまりにも大きい。世界は、決して癒えることのない深い傷を負ったのだ。
俺自身、膨大な感情の奔流に耐えきれず、意識が遠のいていく。力の限りを使った体は、もう指一本動かせない。俺の周りで、ゆっくりと重力が戻り始めていた。宙に浮いていた瓦礫が、まるで涙の雫のように、静かに、静かに地面へと落ちていく音が聞こえる。
薄れゆく視界の端に、涙で濡れたエリアの顔が見えた。彼女は何かを叫んでいる。そして、その向こうの空には、いつの間にか雨が上がり、本物の七色の虹が架かっていた。
それは、俺がずっと見てきた憎悪の結晶とは違う、ただ、どこまでも優しい光だった。