第一章 赤錆の視界
アサギの視界では、人の感情が色を帯びる。とりわけ『戦意』は、粘りつくような赤錆色の靄となって立ち昇る。塹壕の向こう側、霧雨に濡れる荒野に潜む敵兵たちの靄は、今や視界を焼き尽くさんばかりに濃密だった。数値にして80…いや、90に迫る。
「来るぞ」
アサギが呟くと同時に、隣で伏せていた老兵の顔がこわばった。乾いた土の匂いに、硝煙とじっとりとした血の匂いが混ざる。耳鳴りのような静寂を、最初の銃声が引き裂いた。
アサギは銃を構える。彼の右腕は、彼のものではなかった。一年前に起こった大規模な『交換』現象で、東部連合の女兵士のものと入れ替わってしまったのだ。自分より細く、日に焼けていない白い肌。時折、この腕は自分の意志を無視して、何かを掴もうとするかのように微かに震える。そのたびに、所有者だった女の、遠い故郷の麦畑を思う断片的な記憶が脳裏をよぎった。
突撃の鬨の声が上がる。赤錆の靄が津波のように押し寄せ、その先端にいる兵士の戦意が『100』を超えた。瞬間、アサギの左頬に、熱した鉄を押し付けられたような激痛が走る。皮膚が裂け、肉が灼ける幻覚。彼は呻き声を噛み殺し、頬に手をやった。新しい『戦傷』が、また一つ刻まれた。
痛みと引き換えに、情報が流れ込んでくる。兵士の記憶。彼は故郷の村を焼かれ、家族を失った。彼の憎悪は、失われた全てを取り戻したいという絶望的な渇望から生まれていた。その純粋なまでの破壊衝動が、アサギの心を直接抉る。赤錆の靄の奥で、泣き叫ぶ子供の顔が見えた。
第二章 幻痛の在り処
夜、つかの間の休息。アサギは冷たいレーションを口に運びながら、己の右腕を見つめていた。馴染まない腕。時折、指先に疼くような幻痛が走る。それは、この腕がかつて失った恋人と繋いでいた手の温もりの名残だった。戦傷がもたらす他人の記憶とは違う、肉体そのものに刻まれた記憶の残滓。
「また、疼くのか」
声をかけてきたのは、片足が西部同盟の男のものだというカヤだった。彼女は義足のようにぎこちなく歩きながら、アサギの隣に腰を下ろす。
「あんたの頬の傷、新しいな」
「ああ」
短い会話。ここでは誰もが、自分ではない誰かの一部を抱えて生きていた。ある者は敵国の老人の眼球を、ある者は憎い相手の子供の心臓を。身体はつぎはぎのパッチワークとなり、敵と味方の境界線は、肉体の内側で溶け合って久しい。
カヤは声を潜めた。「『黒い心臓石』の話、聞いたかい」
それは、戦場の中心、『嘆きの谷』と呼ばれる中立地帯に現れたという、不気味な石の噂だった。過去の最も大規模な『交換』が起きた場所で、失われた者たちの憎悪が結晶化したものだと囁かれている。触れた者は、己が持つ交換された部位の、最も鮮烈な記憶と幻痛を追体験するという。
「馬鹿げてる。ただの石ころさ」アサギは吐き捨てるように言った。
「そうかもね」とカヤは空を見上げた。「でも、もし本当に、この疼きの意味が分かるなら…あたしは」
その言葉は、夜の湿った空気に吸い込まれて消えた。アサギは、自分の右腕が微かに震えているのを感じていた。知りたくない。知りたくなかった。だが、肉体は、その根源を渇望しているようだった。
第三章 境界線
アサギは一人、塹壕を抜けた。夜明け前の深い霧が、世界の輪郭を曖昧にしている。『嘆きの谷』は、両軍が互いを睨み合う、まさに境界線に位置していた。死の匂いが霧に溶け込んでいる。足元の泥は、無数の兵士の血を吸って黒ずんでいた。
なぜ憎悪は肉体を交換させるのか。この現象は、我々を罰しているのか。それとも、何かへ導こうとしているのか。答えを求めていたわけではない。ただ、この終わらない幻痛と、自分のものでない腕が叫ぶ声から、逃れたかったのかもしれない。
谷底に近づくにつれ、奇妙な静寂が支配していた。鳥の声も、風の音すらしない。まるで、空間そのものが息を殺しているかのようだ。そして、霧の切れ間に、それを見つけた。
谷の中心に、黒曜石のような塊が鎮座していた。人頭ほどの大きさの、歪な心臓の形をした石。それは生き物のように、かすかな光を放ちながら、ゆっくりと脈動していた。ドクン、ドクン、と、地中深くから響くような重低音が、アサギの鼓動と共鳴する。周囲の空気は重く、呼吸をするたびに肺が圧迫されるようだった。
第四章 黒い心臓の脈動
誘われるように、アサギは石に歩み寄った。その表面は滑らかで、触れると氷のように冷たい。彼が、自分のものではない右手の指先でそっと石に触れた、その瞬間だった。
世界が、砕け散った。
これまで頬に、腕に、足に刻まれた全ての戦傷が、一斉に叫びを上げた。何百、何千という兵士たちの断末魔の記憶。家族を想う祈り。故郷への郷愁。そして、燃え盛る憎悪。それらが濁流となってアサギの意識に流れ込む。
だが、それは始まりに過ぎなかった。彼の右腕が灼けるように熱くなり、女兵士の記憶が奔流となって彼を打ちのめした。麦畑の匂い、恋人の不器用な笑顔、故郷を焼く炎、そして、アサギと同じ部隊の兵士に撃たれ、右腕を失った瞬間の激痛と絶望。
「――ッ!!」
声にならない悲鳴が漏れる。アサギはその場に膝をついた。憎悪が肉体交換を引き起こすのではない。逆だ。肉体を奪われ、自己の輪郭を失う恐怖と喪失感こそが、憎悪を無限に増幅させていたのだ。敵を憎むことでしか、失った自分を保てなかった。
この石は憎悪の塊などではない。失われた身体の部位、引き裂かれた魂たちが、もう一度繋がろうとする、悲痛な『願い』の結晶なのだ。触れた者の幻痛を呼び覚ますのは、忘れるなと、我々はここにいるのだと、叫んでいるからだ。
第五章 共有される痛み
アサギが真実に気づいた時、『黒い心臓石』の脈動は頂点に達した。石を中心に、不可視の波紋が戦場全体へと広がっていく。アサギの能力が暴走し、彼の意識は戦場にいる全ての兵士の感覚とリンクした。
東部連合兵の恐怖、西部同盟兵の焦り。敵の心臓を持つ兵士は、その心臓の持ち主だった少年兵の最後の光景を見る。味方の眼球を持つ兵士は、その瞳がかつて映した愛しい家族の姿に涙する。
誰もが、敵の中に自分のかけらを見出し、自分の中に敵のかけらを感じていた。
戦意の赤錆色の靄が、急速に色を失っていく。代わりに、悲しみを示す深い青と、共感を示す柔らかな白光が、戦場の至る所から立ち昇り始めた。アサギは、その全ての感情の奔流を受け止め、もはや個としての意識を保てなくなりかけていた。これは罰ではない。罰などではなかった。これは、あまりにも歪で、あまりにも痛みを伴う、『進化』のプロセスなのだ。
アサギは、全ての痛みを、全ての悲しみを代弁するように、天に向かって咆哮した。それは特定の言語ではなく、魂そのものの叫びだった。石を通じて増幅されたその声は、全ての兵士の心臓に直接響き渡った。
それは、繋がりの歌だった。
第六章 新しい黎明
銃声が、止んだ。
一人、また一人と兵士たちが立ち上がる。彼らは武器を捨て、互いを見つめていた。その瞳に、もはや憎悪の色はなかった。ただ、深い戸惑いと、そして、これまで感じたことのない奇妙な一体感があった。
戦争は、終わった。
アサギはゆっくりと立ち上がった。彼の体には無数の戦傷が刻まれ、まるで古地図のように彼の半生を物語っていた。彼は自分のものでない右腕を見る。白い肌、細い指。もはやそれは異物ではなく、失われた女兵士の魂を宿す、自分自身の不可分な一部となっていた。
生き残った人々は、皆そうだった。敵の腕、味方の脚、見知らぬ誰かの瞳。彼らは互いの体の一部を持ち合い、その肉体に刻まれた記憶と痛みを共有することで、もはや分離不可能な一つの生命体へと変貌していた。個としての境界は溶け合い、憎悪の代わりに、共有された痛みが彼らを繋ぐ新たな絆となった。
アサギは、かつて敵だった兵士と視線を交わした。男の左目には、アサギがよく知る、戦死した親友の快活な光が宿っていた。言葉はなかった。だが、全てを理解できた。
私たちは、失われたのではない。繋がり、一つになったのだ。
夜が明け、新しい世界の黎明が、つぎはぎの肉体を持つ彼らを静かに照らし始めていた。私たちは、もう一人ではなかった。