影喰らいの空

影喰らいの空

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第一章 色褪せた戦場

鉄錆と硝煙の匂いが、カイの肺腑を満たしていた。崩れかけたビルの隙間から覗く空は、まるで終わらない戦争を嘆くように、鈍色の雲に覆われている。彼の網膜には、常人には視えぬ光景が焼き付いていた。

それは『意図』の色彩だった。

瓦礫の向こう側、潜伏する敵兵から漏れ出るのは、血のようにどす黒い赤。それは純粋な殺意の色。隣で息を殺す若い兵士、レオの肩からは、恐怖を示す冷たい青の靄が立ち上っている。カイは指で合図を送り、部隊を後退させた。銃弾が飛び交うよりも先に、彼は戦場の感情を読んでいた。

この力は呪いだった。色彩を見るたびに、彼の視界の輪郭は少しずつ白く霞んでいく。医者は原因不明の視神経の劣化だと告げたが、カイは知っていた。これは、人の心を覗き込みすぎた代償なのだと。

そして、もう一つの呪い。彼だけでなく、この世界の誰もが背負う『影』。

カイの背後には、常に人型の影が付き従っていた。それは三年前、この市街地で失った親友、ジンの姿をしていた。影は言葉を発さず、ただ虚ろにカイを見つめる。戦争が激化するにつれ、その輪郭は濃くなり、存在感を増していた。

その時だった。敵兵の一人が、隠れていた壁から飛び出した。だが、カイが引き金を引くより早く、奇妙なことが起きた。敵兵の背後に揺らめいていた、家族の姿と思しき影が、まるで実体を持つかのようにその腕を伸ばし、近くの鉄骨を掴んでカイたちの方へ投げつけたのだ。

轟音と共に鉄骨が地面に突き刺さる。カイは咄嗟にレオを突き飛ばしていた。

「……見たか、今のが」

レオが震える声で呟く。彼の影もまた、恐怖に呼応するように大きく揺れていた。

影が、現実に干渉を始めた。この戦争は、我々が知るものとは違う、もっと根の深い狂気を孕んでいる。カイは白く霞む視界の奥で、敵兵が放つ殺意とは異なる、歪で巨大な『意図』の色彩――執着にも似た、病的な紫の色が渦巻いているのを、確かに視ていた。

第二章 残像の硝子

上官への報告は、疲弊した兵士の幻覚として処理された。誰もが己の影に怯えながら、その異常性から目を逸らしている。カイは独り、調査を開始した。手がかりは、戦場の闇市場で囁かれる噂だけだった。

『残像の硝子』。

強い意図が渦巻いた場所に生まれるという、呪われた結晶。

カイは情報を頼りに、かつて最も苛烈な市街戦が繰り広げられた旧市街の教会跡へと向かった。そこは、今は静寂だけが支配する骸の街。崩れ落ちた天井から差し込む光が、埃の中で乱舞している。床には、乾いた血痕が黒い染みとなってこびりついていた。

祭壇があったであろう場所に、それはあった。人の拳ほどの大きさの、黒ずんだ硝子塊。不規則な断面が、鈍い光を放っている。カイがそれに触れた瞬間、凄まじい色彩の奔流が彼の脳を焼き尽くした。

――絶叫。祈り。憎悪。懇願。

無数の兵士たちがこの場所で抱いた最後の意図が、色とりどりの津波となって押し寄せる。視界が真っ赤に染まり、次いで純白に塗り潰された。

「ぐっ……ぁ……!」

膝から崩れ落ち、頭を押さえる。視力が、また一段階、大きく失われたのが分かった。世界の色彩が薄れ、まるで古い写真のようにセピア色に沈んでいく。だが、痛みと引き換えに、彼は視た。硝子の中に揺らめく、断片的な幻影を。

それは、黒衣をまとった集団が、戦場で死んだ兵士たちから立ち上る影を集めている光景だった。彼らは何かを儀式のように詠唱し、肥大化した影を特定の場所へと導いていた。その中心に立つ一人の女。彼女から放たれる意図は、他の何よりも強く、そして純粋な、黄金色の光を放っていた。それは、喪失への深い悲しみと、何かを取り戻そうとする狂気的なまでの『願い』の色だった。

第三章 影の真実

カイはセピア色の視界で、硝子が見せた幻影を何度も反芻した。あの黄金色の意図。あれは憎悪や殺意ではない。もっと根源的な、愛に近い何かだ。

彼はアジトに戻り、古地図と硝子から得た断片的な情報を照らし合わせていく。黒衣の集団、『再誕の旅団』。彼らが影を導いていた場所は、全て現在の前線と、過去の大戦で失われた都市の遺跡を結ぶライン上にあった。

そして、全ての線が交差する一点。

『アルカディア』。

かつてこの国で最も栄華を誇り、文化と科学の頂点を極めた首都。五十年前の大戦で、新型爆弾によって一夜にして地図から消滅した、幻の都。人々にとってそれは、失われた栄光の象徴であり、決して取り戻すことのできない喪失そのものだった。

『再誕の旅団』の目的は、戦争で発生する膨大な『意図』の残滓を餌に兵士たちの『影』を肥大化させ、その集合体として、失われた首都アルカディアを現世に『復活』させることなのだ。

カイは戦慄した。それは、死者の魂で新たな死者を蘇らせるに等しい、冒涜的な行為だった。彼らの儀式の中心地は、今、最も多くの死と意図が渦巻く激戦区――『沈黙の盆地』に違いない。

カイは壁に掛かったライフルを手に取った。彼の背後で、親友ジンの影が悲しげに揺らめく。お前も、還りたいか。カイは影に問いかけたが、答えはなかった。ただ、その輪郭が、以前よりもずっと濃くなっていることだけは確かだった。

第四章 再誕の儀式

『沈黙の盆地』は、その名の通り、不気味な静寂に包まれていた。砲弾の跡が無数に穿たれた大地には、生命の気配がまるでない。ただ、空だけが異常だった。巨大な影の渦が、まるで黒いオーロラのように空を覆い尽くしている。

盆地の中心。そこに祭壇が築かれ、巨大な『残像の硝子』が禍々しい光を放っていた。その周りには黒衣の『再誕の旅団』と、虚ろな目をした兵士たちが集まっている。彼らの背後から伸びる影は、もはや個人の形を留めていなかった。家族の影、恋人の影、故郷の風景の影――それら全てが溶け合い、一つの巨大な奔流となって、天に昇る影の渦へと吸い込まれていく。

祭壇の中心に、あの女が立っていた。エルヴィラ、とカイは直感した。

「止めるんだ!」

カイが叫びながら飛び出すと、エルヴィラは静かに振り返った。彼女の瞳は穏やかで、その背後には、おそらく彼女が失ったのであろう、聡明そうな男性の影が寄り添っていた。

「あなたにも視えるのですね。この、失われたものたちの声が」彼女の声は、澄み切っていた。「我々は過去を取り戻すのです。過ちも、悲劇も、栄光も、全て。この空虚な現在を、真実の過去で満たすために」

彼女が手を掲げると、天の渦から、壮麗な都の幻影が降臨し始めた。アルカディアだ。だが、その瞬間、カイの足元の地面が、砂のように崩れ始めた。風の音が消え、鉄の匂いが失せ、自分の手の感触さえもが希薄になっていく。

世界が、消えている。

カイは『残像の硝子』を通して、儀式の真実を視た。アルカディアの復活は、等価交換なのだ。過去の概念を再構築するために、現在の世界を構成する『記憶』そのものを犠牲にしている。このままでは、今を生きる全ての生命が、その存在ごと『無』に還ってしまう。

「これが、あなたの望んだ再誕か!」

「ええ」エルヴィラは迷いなく頷いた。「失われた愛を取り戻せるなら、今の不完全な世界など惜しくはありません」

彼女から放たれる黄金色の『願い』が、アルカディアの影を完全に実体化させようとしていた。世界が、終焉に向かってきしみを上げていた。

第五章 今を視る者

カイの視界は、もうほとんど光を失っていた。世界の輪郭は溶け、セピア色さえも失われ、ただただ白い靄が広がるばかり。もう、エルヴィラの姿も、降臨しつつあるアルカディアの影も視えない。

だが、その完全な闇へと至る寸前、彼は視た。

新しい光を。

それは、影ではない。今、この瞬間を生きる者たちの心から放たれる、ささやかで、しかし無数に存在する『意図』の輝きだった。遠くの街で誰かを案じる母親の温かい橙色。恐怖の中、仲間を信じようとする兵士の震える緑色。生き延びたいと願う、純粋な生命の白色。

世界は、まだここに在った。失われゆく世界の底で、懸命にまたたく光の粒子。

エルヴィラの黄金色の光は、あまりに強く、美しい。だがそれは過去に向けられた光だ。カイは、今またたく無数の光を見つめた。不完全で、弱々しく、矛盾だらけの光。しかし、それこそが『今』だった。

彼は懐から取り出した小さな『残像の硝子』を握りしめる。これを砕けば、儀式を止められるかもしれない。だが、それでは何も解決しない。憎しみの連鎖が続くだけだ。

カイは、硝子を増幅器としてではなく、レンズとして使った。失明寸前の視力を、その一点に集中させる。そして、自らの能力を反転させた。人の意図を読むのではなく、『今』に存在する無数の意図を束ね、導く力へと。

「過去は弔うものだ。喰らうものじゃない」

彼の呟きは、誰にも聞こえなかっただろう。カイは束ねた『今』の意図の奔流を、天を覆うアルカディアの影へと放った。それは破壊の力ではない。切り離し、あるべき場所へ還すための、純粋な『分離』の意志だった。

世界が、優しい光に満たされた。

光が収まった時、盆地には静寂が戻っていた。空を覆っていた影の渦は消え、どこまでも青い、しかしどこか空虚な空が広がっていた。兵士たちは呆然と立ち尽くし、自分たちがなぜここにいるのかさえ思い出せないようだった。彼らの背後から、影は消え失せていた。エルヴィラもまた、何か大切なものを忘れてしまったかのように、ただ空を見上げていた。

世界は、過去の重荷から解放された。人々はもう、自分が何を失ったのか、何を求めて戦っていたのかさえ思い出せない。二度と過去の栄光に触れることはできず、悲劇を嘆くこともない。そんな、曖昧な平和が訪れた。

カイの瞳は、もう何も映さなかった。完全な闇。しかし、彼の心には、確かに感じられた。世界に満ちる、人々のささやかな『意図』の光。その温かさだけが、彼の最後の道標だった。

過去を失った世界で、それでも人々が生み出す未来の光を信じながら、カイは一人、静かに立っていた。

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