第一章 泥濘の記憶
泥と錆。
そして、焼け焦げた肉の臭い。
冷たい雨が降り注ぐ戦場は、巨大な墓場のように静まり返っていた。
「カイ、やめて。その人はもう……」
背後でレナの声が震えている。
だが、僕は足を止めない。
泥濘に半身を埋めた少年兵の亡骸が、僕を呼んでいる。
まだ柔らかい産毛の残る頬。
見開かれた瞳は、鉛色の空を映したまま濁りきっていた。
僕は泥水に膝をつく。
震える指先を、彼の冷たい額へと這わせた。
胸元のペンダントが、肉を焦がすほどの熱を帯びる。
古びた石英に刻まれた螺旋の紋様。
それが心臓の鼓動と同期し、青白い燐光を放ち始めた。
*ドクン。*
視界が裏返る。
雨音が消え、代わりに幼い叫び声が鼓膜を劈いた。
——兄ちゃん、痛いよ。
——走れ! 振り返るな!
熱い。背中が焼ける。
視界の端で、藁葺きの屋根が崩れ落ちる。
恐怖。絶望。
そして、それらを塗りつぶすほどの、焼け付くような郷愁。
『母さんに、会いたい』
少年兵の最期の想念が、濁流となって僕の脳髄へ雪崩れ込む。
「ぐっ、あぁ……!」
喉の奥から、獣のような呻き声が漏れた。
ペンダントが光を飲み干し、少年の瞳からわずかな輝きが失われる。
彼が生きた証、その感情のすべてが、石の中に記録されたのだ。
「カイ!」
泥を跳ね上げ、レナが駆け寄ってくる。
僕の肩を抱く彼女の手は、雨に濡れて氷のように冷たい。
「息をして。お願い」
「……平気だ」
僕は荒い息を吐き出しながら、濡れた髪をかき上げた。
敵部隊の動き。
隠された補給路。
少年兵の記憶には、村人たちを救うための重要な情報が残されていた。
だが、その代償は。
不意に、僕の頭の中で「何か」が抜け落ちた音がした。
本棚から一冊の本が抜き取られ、床に落ちて砕け散るような、喪失の感覚。
「……消えた」
「え?」
「母さんの、声だ」
僕は自分の喉元を押さえる。
顔は思い出せる。温もりも覚えている。
けれど、僕の名を呼ぶその声の響きだけが、黒く塗りつぶされて再生できない。
「カイ、もう十分でしょう? これ以上『記憶の風化』に抗えば、あなたがあなたでなくなってしまう」
レナが僕の腕を掴む指に、痛いほどの力がこもる。
僕は彼女の瞳を見つめ返した。
その瞳の奥に、かつて見た光景が重なる。
三日前。
泥水しか啜れない塹壕の中で、彼女が僕に向けたあの笑顔だ。
唇はひび割れ、目尻には消えない隈があった。
それでも彼女は、震える口角を無理やり持ち上げ、僕に言ったのだ。
『大丈夫、ちっとも辛くないよ』と。
あの嘘の笑顔の痛々しさが、今の僕を突き動かす唯一の燃料だった。
「行くよ、レナ。僕の『一番古い記憶』が呼んでいる場所へ」
僕は立ち上がり、泥を払う。
雨脚が強まった。
世界そのものが、僕たちの存在を洗い流そうとしているかのように。
第二章 沈黙の偶像
国境の向こう側。
そこは、地図から色が抜け落ちたような灰色の世界だった。
崩れかけた石壁の陰で、一人の老人が嘔吐していた。
「うっ、おえぇっ……!」
胃液を吐き出しながら、老人は血が滲むほど自分の頭を石畳に打ち付けている。
「思い出せん……なぜだ、なぜ出てこない!」
老人は虚空を掻きむしる。
「娘の、名前が……顔は浮かぶのに、名前だけが……! ああ、あああ!」
その絶叫は、言葉というより、魂が削り取られる音に近かった。
ここにあるのは、忘却という名の病だ。
人が人であるための鎖が、錆びついて千切れ落ちていく。
誰もが、自分が誰なのか、誰を愛していたのかさえ忘れ、ただ肉の塊として朽ちていく。
「……見ちゃいけない」
レナが僕の背中に顔を埋める。
だが、僕は目を逸らせない。
この地獄こそが、僕たちが目指した終着点だ。
僕たちは廃墟の中心、天を衝くように聳え立つ巨大遺跡へと足を踏み入れた。
ペンダントの螺旋模様が、かつてないほどの熱を発している。
まるで、主人の元へ帰りたがっているかのように。
遺跡の内部は、恐ろしいほどの静寂に満ちていた。
風の音さえ遮断された空間。
壁画はすべて削り取られ、歴史を語る文字は何一つ残されていない。
徹底的な隠蔽。
あるいは、存在そのものの抹消。
回廊を抜けた最深部。
巨大な祭壇の前に立った時、レナが息を呑んだ。
「カイ……これ……」
言葉を失った彼女の視線を追う。
そこに鎮座していたのは、巨大な石のレリーフだった。
何千年も前のものだろう。
風化し、欠け落ちているが、その「顔」だけは鮮明に残っている。
冷酷な瞳。
感情の一切を排した、断罪者の表情。
それは、僕の顔だった。
「……嘘だろ」
膝の力が抜け、その場に崩れ落ちる。
心臓が早鐘を打ち、全身の血が逆流するような吐き気に襲われた。
この顔を、僕は知っている。
鏡の中で見る顔じゃない。
もっと冷たく、もっと強大で、もっと孤独な——『オリジナル』の僕。
「う、あぁぁぁっ!」
頭が割れるような激痛と共に、奔流が押し寄せる。
白い研究室。
見下ろす世界。
そして、冷徹な計算式。
『悲しみというバグを取り除くには、記憶そのものをリセットするしかない』
そう呟いてスイッチを押したのは、紛れもなく「かつての僕」だった。
「カイ、しっかりして! カイ!」
レナの声が遠い。
僕は震える手で、自分の喉元を掻きむしった。
「僕だったんだ……」
「何?」
「この戦争も、記憶の風化も。すべては、僕の……僕のオリジナルが望んだ『救済』だったんだ」
救済という名の、大量虐殺。
憎しみを消すために、愛も、希望も、個人の尊厳さえも消し去るシステム。
僕はそのシステムを再起動させるために生み出された、鍵であり、生体部品だった。
「そんなの……じゃあ、私たちが命がけで守ってきたものは? あの少年兵の最期は?」
レナが泣き叫ぶ。
その声が、凍りついた僕の心臓を無理やり動かした。
僕は顔を上げる。
石のレリーフは、相変わらず冷酷な瞳で僕を見下ろしている。
だが、今の僕には、彼が持っていなかったものがある。
胸元のペンダント。
そこには、泥にまみれ、それでも誰かを守ろうとした無数の魂が詰まっている。
「……終わらせる」
僕はふらつく足で立ち上がった。
足元の影が、祭壇の奥へと濃く伸びている。
「僕が始めた物語なら、僕が幕を引かなきゃいけない」
第三章 螺旋の祈り
祭壇の奥、空間が裂けていた。
青白い光の渦。
世界の記憶が集約され、そして選別される『中枢』。
「行かないで!」
レナが僕の腰にしがみつく。
爪が食い込むほどの強さ。
彼女の涙が、シャツ越しに背中を濡らす。
「カイが行けば、どうなるの? 戻って来られるの?」
「……戻れない。この暴走した意思を書き換えるには、僕という『個』を溶かして、新しい定義を流し込むしかない」
「嫌よ! 記憶なんて戻らなくていい! 忘れたままでいいから、私のそばにいて!」
僕はそっと彼女の手を解き、振り返った。
泥で汚れた頬。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
どんな宝石よりも美しい、僕の世界の全て。
「レナ」
僕は彼女の頬に触れた。
指先の感覚、体温、匂い。
その全てを魂に刻み込むように。
「忘れないよ。君が泣いてくれたこと。泥水の中で笑ってくれたこと。その痛みが、僕を人間に戻してくれた」
「カイ……」
「生きてくれ。僕が守りたかった未来で」
僕は踵を返し、光の渦へと足を踏み入れた。
「カイーーッ!!」
レナの絶叫が、光の向こうへ遠ざかる。
ごめん、レナ。
でも、これが僕の選んだ贖罪だ。
渦の中心は、無重力の闇だった。
無数の光の粒子が、雪のように舞っている。
それら一つ一つが、誰かの人生。
『……帰ってきたか』
声ではない。
直接、脳髄に響く思念。
闇の奥から、自分と同じ顔をした影が現れる。
かつての僕。
すべてを捨て去ろうとした絶望の化身。
『感情はバグだ。痛みは不要だ。全てを無に帰し、静寂を取り戻そう』
影が手を伸ばしてくる。
その指先に触れれば、僕は僕でなくなり、世界は永遠のまどろみへと沈むだろう。
「いいや、違う」
僕は首元のペンダントを握りしめた。
石が砕け散る。
中から溢れ出した青い光が、奔流となって僕の体を包み込む。
『なにをする気だ?』
「痛みこそが、人が人である証だ。悲しみがあるから、喜びが輝くんだ!」
僕は影に向かって手を伸ばす。
拒絶ではない。
抱擁するために。
『やめろ、混ざればお前は消滅するぞ!』
「構わない。誰かの記憶の一部になれるなら、それは消滅じゃない。永遠だ」
僕の輪郭が崩れていく。
指先が光の粒子となってほどけ、影へと浸透していく。
かつて吸収した少年兵の叫び。
名もなき老人たちの嘆き。
そして、レナの不器用な笑顔。
それら全ての「人間らしさ」が、冷徹なシステムを内側から焼き尽くし、書き換えていく。
(……ああ、そうか)
意識が世界へと溶け出す瞬間、僕は理解した。
これは死ではない。
僕は、風になるのだ。
(愛しているよ、レナ)
僕の意識は螺旋の光となって天へ昇り、渇いた大地へと降り注ぐ雨となった。
***
それから、どれくらいの時が流れただろうか。
かつて泥に覆われていた戦場は、一面の草原に変わっていた。
錆びついた戦車の残骸には蔦が絡まり、名も知らぬ小さな花が揺れている。
「……いい風」
丘の上に立ち、レナは目を細めた。
頬を撫でる風は、どこか懐かしく、そして泣きたくなるほど優しい。
人々はもう、なぜ世界が壊れかけたのか、詳しくは覚えていない。
ただ、胸の奥に刻まれた温かい戒めだけが、争いの火種を消し続けている。
悲しい時に降る雨も。
寂しい時に吹く風も。
すべては、誰かが遺した愛の形なのだと、誰もが知っているから。
レナは胸元の、小さな青い欠片を握りしめた。
あの日、光の渦からひとつだけ戻ってきた石英の破片。
「ここにいるのね」
彼女は空を見上げる。
雲の切れ間から覗く青空は、あの日見た、彼の瞳の色と同じだった。
「行こう」
彼女は歩き出す。
彼が命を賭して守り、彼そのものとなった、この美しい世界を。
その足取りは軽く、もう二度と迷うことはなかった。