残響の砂時計
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残響の砂時計

第一章 錆びついた記憶の欠片

灰色の霧が、死んだ兵士たちの最後の吐息のように大地にまとわりついていた。ここは「嘆きの平原」。千年戦争の中でも、最も血が流れたと記録される古戦場だ。俺、カイは、錆びた剣の破片が突き出す泥濘に膝をつき、古びた砂時計をそっと掲げた。

「存在の砂時計」。硝子の向こうで、消滅した者たちの記憶だという光の粒子が、静かに、だが絶え間なく流れ落ちていく。

目を閉じる。意識を集中させると、世界の皮膜が薄くなる感覚がした。風の音が変わり、遠い鬨の声が鼓膜を震わせる。鉄の匂い。血の匂い。そして、死の匂い。

「残響」が、来る。

突如、視界が灼けついた。俺は俺でなくなり、分厚い鋼鉄の鎧に身を包んだ騎士になっていた。左手には巨大な盾。右手には折れた槍。目の前には、見たこともない紋章を掲げた敵兵が、獣のような雄叫びを上げて迫ってくる。恐怖が内臓を鷲掴みにする。だが、それ以上に、背後にある何かを守らねばという灼けるような使命感が全身を貫いていた。

「守れ……!」

自分の口から、知らない男の嗄れた声が漏れる。次の瞬間、腹部に凄まじい衝撃が走った。敵の槍が、鎧の隙間を縫って深く突き刺さる。熱い。痛いという感覚よりも先に、命が流れ出ていく確かな感触があった。視界が急速に赤黒く染まり、遠ざかる意識の中で、守るべきだった何かの柔らかな輪郭が涙で滲んだ。

ハッと息を吸い込み、カイは現在の、静寂に包まれた平原へと帰還した。腹部に幻の痛みが走り、思わず手を当てる。冷たい汗が額を伝っていた。

傍らの砂時計に目をやると、流れ落ちる光の粒子が一瞬、激しく逆流し、すぐに元の流れに戻っていた。

「まただ……」

俺が体験した騎士の鎧。あの紋章。歴史のどの記録にも存在しない。千年戦争は一つの連続した戦いのはずだ。だが、俺が拾い集める「時間の破片」は、どれもこれも歴史の書物と矛盾する、あり得ない記憶の欠片ばかりだった。まるで、誰かが悪意をもって歴史をかき乱しているかのように。

この終わりのない戦争は、一体何なんだ?

第二章 矛盾する戦場の律動

次に向かったのは「鋼鉄の谷」だった。かつて機械化部隊が壊滅した場所で、赤錆びた巨像の残骸が墓標のように突き立っている。空は鉛色に淀み、油の混じった雨が、金属の骸を静かに叩いていた。

ここでも俺は砂時計を構え、深く息を吸った。

谷に響く雨音が、次第に規則的なパルス音へと変わる。視界がノイズ混じりに明滅し、俺は強化スーツに身を包んだ未来の兵士になっていた。ヘルメットのディスプレイに、敵性反応を示す赤いマーカーが点滅している。仲間たちの怒声が、無線越しに鼓膜を裂く。

「セクター4、浸食率上昇! シールド、臨界点!」

「退け! 奴らの兵器は規格外だ!」

その声も、閃光にかき消された。全身を焼き尽くすようなエネルギーの奔流。肉が蒸発し、骨が瞬時に炭化する感覚。意識が途切れる直前、ディスプレイの隅に映った自分の顔に、見覚えのある痣があることに気づいた。それは、俺が子供の頃に作った、左目の下の痣だった。

現実に戻った俺は、激しく喘ぎながらその場に崩れ落ちた。砂時計の中では、黄金色の粒子と、今しがた見た未来的な青い粒子が、渦を巻くように混ざり合っていた。

中世の騎士と、未来の兵士。

あり得ない。同じ戦争の歴史の中に、これほど断絶した時代の兵士が同時に存在するはずがない。まるで、異なる物語が無理やり一つの本に綴じられているような、強烈な違和感。

「カイ、聞こえる?」

耳に着けた通信機から、歴史記録院にいるエラの声がした。彼女は俺の唯一の協力者だ。

「ああ、聞こえる。エラ、まただ。今度は未来の兵士だった。俺の顔をしていた」

「……やはり。私も奇妙な記述を見つけたわ。禁書庫の奥にあった、ほとんど解読不能な古文書に、『存在の補完』という法則についての記述が」

エラの声は緊張に震えていた。

「一つの存在が失われると、世界は均衡を保つために新たな存在を生み出す。でも、戦争で一度に大量の存在が失われ続けると、法則が暴走し、時空の壁に亀裂が入る……と。まるで、失われた魂を、別の『どこか』から無理やり補充しているみたいに」

別の、どこかから。

その言葉が、俺の脳裏で不気味に反響した。砂時計の中で混ざり合う、異なる色の記憶の粒子。俺が体験する、矛盾した戦場の記憶。全てが、一本の不吉な線で繋がり始めていた。

第三章 重なる自我のレクイエム

全ての始まり。そして、おそらくは全ての終わり。俺とエラがたどり着いた結論は、全ての歴史が分岐したとされる「原初のクレーター」だった。千年戦争の最初の戦いが起きたとされる場所。しかし、その記録さえも曖昧で、複数の異なる「開戦の記憶」が伝えられている。

クレーターの底に降り立った瞬間、空気が震えた。砂時計が、これまでになく激しく光を放ち、俺の手の中で灼けるように熱くなった。

「来る……!」

覚悟する間もなかった。

視界が砕け散り、無数の「死」が濁流となって俺の意識に流れ込んできた。

剣で胸を貫かれる騎士の俺。

レーザーに頭を撃ち抜かれる兵士の俺。

魔法の炎に焼かれる魔導師の俺。

銃弾に蜂の巣にされる歩兵の俺。

獣に喉を食い破られる原始の戦士の俺。

異なる時代、異なる場所、異なる武器、異なる死に様。だが、断末魔の叫びを上げる顔は、鏡のように、全てが紛れもない「俺」だった。恐怖、怒り、絶望、後悔、そして守るべき誰かを想う愛情。幾千、幾万もの俺の人生の最期が、一つの魂の中で衝突し、悲鳴を上げていた。

これが真実か。

千年戦争は、一つの戦争などではなかった。無数の時間軸で起きた、無数の戦争。その全てが、時空の亀裂を通してこの世界に流れ込み、混ざり合い、一つの巨大な「戦争」という現象を形作っていたのだ。

そして、死は終わりではなかった。「存在の補完」の法則によって、ある時間軸で死んだ「俺」は、失われた存在を埋めるために、別の時間軸の「俺」として生まれる。転生する。戦争で死に、また別の戦争を生きるために生まれる。この世界は、戦争という巨大な歯車を回し続けることで、かろうじて存在の総量を保っていた。

この残酷な均衡こそが、世界の正体だった。

俺が体験してきた残響は、誰のものでもなかった。様々な時間軸から転生してきた、俺自身の記憶の断片だったのだ。俺たちは、永遠に、互いを殺し合い続ける運命。

愕然とする俺の目の前で、「存在の砂時計」の最後の粒子が、ゆっくりと落ちようとしていた。これが意味するのは、一つの時間軸の完全な消滅。そして、それは連鎖的に、全ての時間軸の崩壊を引き起こすだろう。

このループを永続させている黒幕など、どこにもいなかった。いるのはただ、崩壊を避けるために、無意識に痛みを再生産し続ける、哀れな世界の法則だけだった。

第四章 平和という名の虚無

「どうするの、カイ」

通信機から聞こえるエラの声は、静かだった。彼女もまた、この真実をどこかで悟っていたのかもしれない。

選択肢は二つ。

このまま、全てが崩壊するのを見届けるか。あるいは、この残酷な均衡を受け入れ、俺自身もまた次の戦場で名も知らぬ「俺」を殺し、そして殺される運命を甘受するか。

どちらも、答えではない。

「……もう、たくさんだ」俺は呟いた。血の味のする幻覚に、もううんざりだった。愛する誰かを守るために死に、そして次の生ではその愛する誰かを殺す。そんな世界は、間違っている。

「第三の道を選ぶ」

俺はクレーターの中心に立ち、砕けんばかりに「存在の砂時計」を握りしめた。

「この法則の起点になっているのは、無数の時間軸に存在する『俺』という特異点だ。俺が転生し続けるから、このループは終わらない。ならば、俺が『存在』することを、やめればいい」

「カイ、待って! あなた自身の存在を消したら、補完されるべき大元の存在が失われることになる! 世界がどうなるか……!」

「ああ」俺は静かに空を見上げた。「きっと、全てが終わるんだろう。戦争も、悲しみも、そして、この世界そのものも」

平和が訪れることで世界が崩壊するのなら、それもいい。少なくとも、それは誰かが誰かを殺し続ける地獄よりは、遥かに美しい結末のはずだ。

俺は最後の力を振り絞り、砂時計をクレーターの岩盤に叩きつけた。

硝子が甲高い音を立てて砕け散り、蓄積されていた幾億もの記憶の粒子が、光の奔流となって解き放たれる。その光は俺の身体を内側から焼き尽くし、俺という存在の輪郭を溶かしていく。痛みはない。ただ、暖かく、そして途方もなく寂しい感覚だけがあった。

エラへの感謝を胸に、俺は光の粒子へと変わっていく。

俺の存在が消滅した瞬間、世界の歯車が、きしみを上げて停止した。戦場の喧騒が消える。憎しみが消える。兵士たちの手から武器が滑り落ち、彼らの瞳から戦意が失われていく。

そして、世界そのものが、色を失い始めた。

空は白く、大地は白く、人々も、建物も、全てが輪郭を失い、真っ白な光の中へと溶けていく。音も、匂いも、感覚も、全てが遠ざかっていく。

それは、完全な静寂。

それは、究極の調和。

それは、戦争のない、誰も傷つかない、平和な「無」。

これが俺の選んだ結末。救いだったのか、それとも最大の過ちだったのか。それを判断する者は、もうどこにもいない。ただ、真っ白な静寂だけが、永遠に広がっていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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