忘却の図書館

忘却の図書館

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第一章 静寂のメロディ

灰色の空気が、磨き上げられた金属とガラスの街に沈殿していた。大忘却戦争の終結から二十年。勝利国「連合」の首都は、過剰なまでに秩序化され、感情という名のノイズは巧みに除去されていた。僕、リヒトの仕事は、その最後の残滓を人々の精神から拭い去ることだ。記憶査定官――聞こえはいいが、実態は魂の清掃員、あるいは「記憶の焚書官」とでも言うべき存在だった。

その日、僕が訪れたのは、都市の最下層に追いやられた老人たちの居住区。対象はエリア・シュルツ。九十三歳。彼女の衰弱した精神から、禁忌とされる旧時代の記憶――敗戦国「アルカディア」の残響を検出し、消去するのが任務だった。

冷たい金属製のヘッドギアを老婆の皺深いこめかみに装着すると、彼女の記憶が光の粒子となって僕の感覚に流れ込んでくる。大半は色褪せた日々の繰り返し。だが、その奥深く、塵を被ったガラクタの山の下に、きらりと光るものを見つけた。

それは、歌だった。

連合が最も忌み嫌う、アルカディアの「子守唄」。単純で、どこか懐かしい旋律。政府はそれを「精神を汚染する呪詛」だと教えていた。僕はプロトコルに従い、消去シーケンスを起動しようとした。指先がコンソールに触れた、その瞬間。

メロディが、僕の脳内で鳴った。

それは流れ込んできた情報ではない。まるで、僕自身の記憶の底から湧き上がってきたかのように、自然に、そして切なく響いた。胸の奥が締め付けられ、理由のわからない郷愁が全身を駆け巡る。なぜ? 僕は連合の孤児院で育ち、アルカディアとは何の関係もないはずだ。

「……きれいな、歌でしょう?」

老婆が、か細い声で囁いた。開かれた瞳は白濁していたが、その奥には確かな光が宿っていた。

「あの子がね、いつも歌ってくれたんだよ。星が綺麗な夜に……」

僕は、凍りついた。規則では、対象者との私的な対話は厳禁だ。だが、それ以上に、僕の指は消去コマンドの実行を拒んでいた。このメロディを消してはいけない。僕の中の何かが、そう絶叫していた。

数秒の葛藤の末、僕は前代未聞の行動に出た。消去ログを偽装し、歌のデータをごく微細な断片に偽装して、自分専用の記録媒体に転送したのだ。重罪であることはわかっていた。だが、この正体不明の感情の源を探らずにはいられなかった。

部屋を出る時、老婆がもう一度だけ呟いた。

「忘れないで、おあげよ……あの子の歌を」

その言葉は、僕の心に小さな、しかし消えない棘となって突き刺さった。僕が今まで信じてきた世界の完璧な静寂に、初めて不協和音が混じった瞬間だった。

第二章 禁じられた色彩

あの日以来、僕の世界は静かに歪み始めた。任務中も、休息時間も、あのメロディが頭から離れない。僕は隠れてその断片を再生し、欠けたパズルを埋めるように旋律を再構築していった。それは禁断の果実の味だった。知れば知るほど、僕は渇望し、同時に恐怖した。

僕は、連合の中央情報アーカイブにアクセス権限を持つ数少ないエリートだ。その立場を利用し、僕は「アルカディア」に関する非公開情報を漁り始めた。もちろん、閲覧記録は幾重にも偽装した。

アーカイブに保存されていたのは、連合が国民に示す「公式見解」ばかりだった。曰く、アルカディアは野蛮で好戦的な民族であり、世界を混沌に陥れようとした悪の枢軸だった、と。だが、その記録のどこにも、あの優しく美しい子守唄が生まれるような文化の片鱗は見当たらなかった。

疑念は確信に変わりつつあった。何かが、隠されている。

そんな折、僕は都市の闇に蠢く噂を耳にする。非合法にアルカディアの記憶を収集し、保護しているレジスタンス組織、「記憶の残響(メモリー・エコー)」の存在だ。彼らは連合の体制を揺るがす危険分子として、最重要指名手配対象だった。

僕は危険を承知で、彼らとの接触を試みた。いくつかの暗号化されたメッセージの交換の末、指定されたのは、廃棄された地下鉄の駅だった。湿ったコンクリートの匂いが鼻をつく。闇の奥から現れたのは、僕と同じくらいの歳の、鋭い目をした女だった。彼女はサーラと名乗った。

「記憶査定官が、私たちに何の用?」

サーラは警戒を隠そうともしなかった。僕は懐から記録媒体を取り出し、あの歌のメロディを再生して見せた。

彼女の目が、わずかに見開かれた。

「……『星屑のララバイ』。どうしてあなたがそれを?」

「ある老婆の記憶から。だが、僕もこの歌を知っている気がするんだ」

サーラは僕をじっと見つめ、やがて何かを決心したように頷いた。彼女は僕をアジトへと案内した。そこは、古い図書館を改造した隠れ家だった。壁一面に、連合が禁書と定めたアルカディアの書物や、絵画、そして記憶データが収められたクリスタルが並んでいた。

「連合は歴史を書き換えた。戦争に勝つためだけじゃない。アルカディアという文化そのものを、存在しなかったことにするために」

サーラは一つのクリスタルを再生機にセットした。僕の目の前に、信じられない光景が広がる。

それは、僕が今まで見てきた灰色の世界とは全く違う、色彩に満ち溢れた街だった。青い空、緑豊かな公園、色とりどりの花々が咲き乱れる広場。そして何より、そこにいる人々の表情が、連合市民の無表情さとは対照的に、豊かで、活き活きとしていた。笑い、歌い、語り合う人々。

「これが……アルカディア?」

「そう。連合が『野蛮』と呼ぶ、私たちの故郷よ」

その光景は、僕が二十数年間信じてきた価値観を根底から揺さぶった。僕が消してきた記憶は、単なる危険な情報ではなかった。それは、誰かの大切な人生そのものであり、豊かな文化の結晶だったのだ。罪悪感が、冷たい水のように全身に広がっていった。僕の手は、一体どれだけの美しい色彩を、この世界から消し去ってしまったのだろうか。

第三章 砕かれた万華鏡

アジトに通うようになって数週間が経った。僕は二重生活を送っていた。昼は忠実な記憶査定官として、連合の秩序を守る。夜はサーラたちと共に、失われた記憶の断片を繋ぎ合わせ、アルカディアの真の姿を追う探求者となった。

僕が提供する連合内部の情報と引き換えに、彼らは僕に更なるアルカディアの記憶を見せてくれた。そのどれもが美しく、そして悲しみに満ちていた。僕は、自分が生まれ育った連合という国の土台が、巨大な嘘で塗り固められていることを知った。

「リヒト、あなたに見てほしいものがある」

ある夜、サーラは神妙な面持ちで僕をアジトの最深部へと導いた。そこには、厳重に保管された一つの記録クリスタルがあった。

「これは……『開戦前夜』の記録。組織の創設者が命懸けで持ち出したものよ」

彼女が再生機を起動すると、ホログラム映像が空間に浮かび上がった。日付は、大忘却戦争が始まる、まさに前日。映し出されたのは、連合とアルカディアの代表が並んで演説する、平和式典の様子だった。

「……何だ、これは?」

僕の口から、かすれた声が漏れた。連合の教えでは、両国は太古から敵対していたはずだ。だが映像の中では、二つの国の旗が並んではためき、人々は互いに手を取り合っている。彼らは元々、一つの連邦国家を形成する、兄弟のような関係だったのだ。

映像は続く。式典の後、ある家族のホームビデオのような私的な記録に切り替わった。暖炉の火が揺れる暖かい部屋。若い夫婦と、五歳くらいの小さな男の子が映っている。母親がピアノを弾き、父親がそれに合わせて歌を歌っている。

その歌は――『星屑のララバイ』だった。

僕の心臓が、氷の塊になったかのように冷たく、そして激しく鼓動した。画面の中の少年が、楽しそうに笑いながら、父親と一緒に歌っている。

その顔は、僕が記録で見た、自分自身の幼い頃の顔と、瓜二つだった。

「嘘だ……」

映像の最後に、母親が少年に優しく語りかける。

「リヒト。素敵な歌ね。大きくなっても、忘れないでね」

万華鏡が砕け散るように、僕の世界が崩壊した。

僕が今まで消してきた記憶。憎むべき敵国の文化だと思っていたもの。それは、僕自身のルーツ。僕の両親の記憶。僕が失った、過去そのものだった。

連合は、戦争でアルカディアを滅ぼしただけではなかった。僕のような戦争孤児から過去を奪い、記憶を書き換え、アルカディアを憎むように教育し、そして、同胞の記憶を消させるための手駒に仕立て上げたのだ。

これ以上ない、残酷な皮肉だった。記憶の焚書官の正体は、自らの故郷を焼く放火犯だったのだ。僕はその場に崩れ落ち、声にならない叫びを上げた。それは、二十数年分の沈黙を破る、魂の慟哭だった。

第四章 夜明けのプレリュード

僕の中から、何かが死に、そして何かが生まれた。絶望の底で、僕が見出したのは、燃えるような静かな怒りだった。涙は枯れ果て、代わりに鋼のような決意が心を支配していた。

翌日、僕は記憶査定官の職務を放棄した。IDバッジを机の上に置き、静かに管理局を去った。もう、誰の記憶も消さない。僕は「遺す者」になる。

アジトに戻った僕を、サーラが黙って迎え入れた。彼女の目には、悲しみと、そして同志を見つけた安堵が浮かんでいた。

「これから、どうするの?」

「取り戻すんだ」と僕は言った。「僕だけじゃない。この国に生きる全ての人々から奪われた、本当の記憶を」

僕たちの計画は、無謀そのものだった。連合政府の中枢に位置する中央記憶サーバー「クロノス」。そこには、国民から消去された全ての記憶データが、厳重に保管されている。僕たちはクロノスに侵入し、アルカディアの記憶を解放する。全ての国民に、失われた真実を突きつけるのだ。

それは、世界の秩序を根底から覆す、大罪だった。だが、偽りの平和の上で生きることを、僕はもう選べなかった。

決行は三日後の夜明け前。都市のシステムが、一日のうちで最も深い眠りにつく時間だ。僕が持つ査定官としての知識と権限、サーラたちの持つハッキング技術とネットワーク。全てを賭けた作戦だった。成功の保証などどこにもない。だが、僕たちに迷いはなかった。

決行の前夜、僕はアジトの屋上で一人、冷たい夜風に吹かれていた。眼下に広がるのは、灰色の光を放つ静寂の都市。かつては完璧に見えたこの景色が、今は巨大な墓標のように見えた。

不意に、口元からあのメロディが零れた。『星屑のララバイ』。今では、全ての歌詞を思い出すことができた。それは、呪詛などではなかった。ただ、愛する我が子の安らかな眠りを願う、優しい祈りの歌だった。

僕は歌う。今はもういない父と母に届けるように。僕と同じように、過去を奪われた名もなき人々の魂を鎮めるように。そして、これから生まれ変わるであろう、新しい世界のために。

夜明けが近い。東の空が、わずかに白み始めていた。それは、偽りの秩序の終わりを告げる光か、それとも僕たちの終焉を照らす光か。答えはまだ、誰にもわからない。

だが、僕の心に恐怖はなかった。胸に灯るのは、自分の過去を取り戻し、未来へと繋ぐという、確固たる希望の炎だけだ。これは、一つの記憶を取り戻した男の、静かだが力強い反逆のプレリュード(前奏曲)だった。僕は夜明け前の街へと、確かな一歩を踏み出した。

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