追憶のレクイエム

追憶のレクイエム

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第一章 空っぽの英雄

硝煙の匂いが薄れ、耳鳴りが遠のいていく。リョウは、手に握られたままの兵器「ネーヴェ」の冷たさだけを、やけに生々しく感じていた。白銀に輝く槍型のその兵器は、敵の装甲を紙のように貫いた後、今は沈黙している。仲間たちの歓声が聞こえる。「リョウ、またやったな!」「お前は俺たちの英雄だ!」。だが、その声はまるで厚いガラスを隔てた向こう側から聞こえるようで、リョウの心には少しも響かなかった。

彼はゆっくりと顔を上げた。夕暮れの空が、血を洗い流したかのような淡い紫色に染まっている。綺麗だ、と一瞬思った。そして、胸の奥に奇妙な空洞が広がっていることに気づく。何かを忘れている。とても大切で、温かい何かを。

「リョウ?」

分隊長のハルトが、心配そうに彼の顔を覗き込んでいた。

「どうした、顔色が悪いぞ」

「いえ……なんでもありません」

リョウは力なく微笑んだ。だが、思考は別の場所を彷徨っていた。妹のユナ。故郷で彼の帰りを待つ、たった一人の家族。彼女との約束。そうだ、戦争が終わったら、故郷の丘に二人で花を植える約束だ。あの丘から見える夕焼けは、今日の空よりもずっと……。

そこで思考が途切れた。花? なんの花だっただろう。ユナが大好きで、いつも髪に飾っていた、小さくて白い花。甘い香りがして、風に揺れる姿が可憐な……。名前が、どうしても思い出せない。喉まで出かかっているのに、言葉にならない。まるで、脳の一部が綺麗にくり抜かれてしまったかのような、不自然な喪失感。

「ネーヴェ」――正式名称「記憶浸食型指向性エネルギー兵器」。使用者の記憶をエネルギーに変換し、絶大な威力を発揮する最新兵器。強力な一撃を放つためには、より鮮明で、感情を伴う記憶を「燃料」にする必要がある。兵士たちは噂していた。使えば使うほど、自分が自分でなくなっていく、と。英雄と呼ばれるたびに、リョウの中から何かが消えていく。今日は、妹の好きな花の名前が消えた。昨日は、母が作ってくれたスープの味が。その前は、幼い頃に飼っていた犬の名前が。

胸の空洞が、また少し広がった気がした。英雄という名の、空っぽの人形になっていく自分を、リョウはただ静かに見つめていた。

第二章 喪失の螺旋

戦況は泥沼化していた。リョウの所属する小隊は、最も危険な最前線に投入され続けた。理由は明白だ。リョウと、彼が操る「ネーヴェ」の存在である。彼は仲間を救うため、そして何より、ユナとの「丘の約束」という最後の記憶を守るために、引き金を絞り続けた。

そのたびに、彼の世界から色彩が失われていった。

友と初めて交わした固い握手の感触を捧げ、敵の戦車を沈黙させた。初恋の甘酸っぱい痛みを燃やし、分隊を包囲から救った。父の背中の温かさを犠牲にして、狙撃手の凶弾からハルトを守った。

仲間からの称賛と感謝の言葉は、もはや彼にとって無味乾燥な音の羅列でしかなかった。失った記憶の残滓が、時折、悪夢となって彼を苛む。知らない誰かと笑い合っている風景。温かいスープの湯気。誰かの優しい手のひら。それらは全て、かつて自分のものだったはずの幸福の断片だったが、今となっては持ち主不明の遺品のように、ただ空虚な感傷を呼び起こすだけだった。

「リョウ、お前は少し休みを取れ」

ある夜、見張りの交代に来たハルトが言った。彼の目には、英雄を見るのではない、壊れかけた弟を気遣うような憂いが宿っていた。

「俺は大丈夫です」

「大丈夫なものか。お前の顔からは、もう感情ってやつが抜け落ちちまってる。笑いもしなければ、怒りもしない。ただ、命令に従って、記憶を燃やして、敵を殺すだけだ。そんなのは、お前じゃない」

ハルトの言葉は正しかった。リョウの内面は、静かに枯れていく砂漠のようだった。残されたオアシスは、ユナとの約束の記憶ただ一つ。夕暮れの丘、風にそよぐ名も知らぬ花々、そして「兄ちゃん、絶対だよ」と指切りをした、妹の小さな手の感触。これだけは、何があっても失うわけにはいかなかった。これを失えば、自分が何のために戦っているのか、何のために生きているのかさえ、分からなくなってしまう。

螺旋階段を転がり落ちるように、リョウは失い続けた。自分自身を構成していた無数の思い出を投げ打ち、彼は戦い続けた。その果てに待つものが、完全な空虚だとしても、止まることは許されなかった。守るべき最後の記憶が、彼を戦場に縛り付ける、唯一の楔だったのだから。

第三章 記憶の交錯

その日、空は鉛色に淀み、冷たい雨が塹壕を叩いていた。敵の一大攻勢が始まり、戦線は崩壊寸前だった。絶え間ない砲撃の中、リョウはたった一人、敵のエースが駆る新型機体と対峙していた。漆黒の機体は、死神のように滑らかに動き、次々と味方を屠っていく。

「やるしかない……」

リョウは「ネーヴェ」を構えた。仲間たちの悲鳴が、彼の決意を固めさせる。もう、捧げることのできる手軽な記憶は残っていない。残されているのは、あの丘の約束だけ。ユナの笑顔、風の匂い、指切りの温もり。それを失えば、自分は本当に空っぽになる。だが、今ここで使わなければ、全てが終わる。

彼は覚悟を決めた。目を閉じ、意識を集中させる。ユナとの最も大切な記憶を、光の奔流に変えるために。丘の情景が、夕日の色が、妹の声が、脳裏で最後の輝きを放つ。

――その、瞬間だった。

まるで雷に打たれたかのように、全く知らない光景がリョウの脳内に流れ込んできた。

(――パパ、見て! 歩いた!)

暖かい日差しが差し込むリビング。小さな赤ん坊が、おぼつかない足取りで一歩、また一歩と歩みを進める。その姿を、若い女性が涙ぐみながら見つめている。そして、その隣には自分がいる。いや、自分ではない「誰か」が。その「誰か」が感じている、胸が張り裂けそうなほどの愛情と歓喜が、リョウ自身の感情であるかのように、全身を駆け巡った。

混乱するリョウの脳裏に、次々と見知らぬ記憶が溢れ出す。妻と交わした他愛ないキス。初めて息子の手を握った時の、驚くほどの小ささと温かさ。戦地へ発つ日の朝、玄関先で「必ず帰ってきて」と泣きじゃくる妻の姿。

これは、なんだ? この記憶は、誰のものだ?

ハッと我に返ったリョウは、目の前の漆黒の機体を見た。そのコックピットの中で、敵兵士が自分と同じように、頭を抱えて苦悶しているのが見えた。

まさか。

リョウの背筋を、戦慄が走り抜けた。「ネーヴェ」は記憶を「消去」する兵器ではなかった。使用者の記憶をエネルギーとして放出すると同時に、その槍先が捉えた相手の記憶を「受信」する兵器だったのだ。失うのではない。捧げた記憶の対価として、敵の記憶と「交換」していたのだ。

今まで彼を苛んでいた悪夢の正体。それは、彼が殺してきた敵兵たちの、断末魔の記憶だった。彼らが最期に思い浮かべた、家族の顔、故郷の風景、守りたかった愛しい日々の断片だったのだ。

リョウは、自分の手にした槍の本当の意味を知った。それは、命を奪うだけの道具ではない。魂を、人生を、丸ごと引き受けてしまう呪いの祭器だった。そして今、目の前の敵もまた、リョウの失いかけた「ユナとの約束」の記憶を受け取り、その意味を理解して愕然としているに違いなかった。

憎むべき敵の顔に浮かんでいたのは、リョウと寸分違わぬ、絶望と苦悩の色だった。

第四章 鎮魂の花園

引き金にかかった指が、石のように動かなくなった。

目の前の敵は、もはや記号としての「敵」ではなかった。彼は、生まれたばかりの息子が初めて歩いた日に涙し、妻の温もりを愛おしむ、一人の人間だった。その記憶の一部は、今やリョウの中で温かい光を放っている。この男を殺すことは、彼のかけがえのない人生を終わらせるだけでなく、自分の中に宿ってしまったその温かい記憶ごと、自分自身の一部を殺すことと同義だった。

リョウは、ゆっくりと「ネーヴェ」の銃口を下げた。漆黒の機体もまた、攻撃の意思をなくしたかのように、ぴたりと動きを止めていた。雨音と、遠くで続く戦闘の音だけが、二人の間に流れていた。互いの記憶を交換してしまった兵士は、もう互いに引き金を引くことはできなかった。

戦争は、その数ヶ月後に終わった。どちらが勝ったのか、負けたのか、リョウにはよく分からなかった。ただ、夥しい数の命が失われ、夥しい数の記憶が持ち主をなくしたことだけが、事実として残った。

リョウは故郷に帰った。英雄としてではなく、一人の復員兵として。彼の心は、もはや空っぽではなかった。そこには、自分の失われた記憶の代わりに、顔も名前も知らない、かつて敵だった人々の温かい記憶がいくつも宿っていた。妻を愛する心、子を想う気持ち、友と笑い合った日の輝き。それらはリョウに、失ったもの以上の重さと温かさを与えていた。

彼は、約束の丘に登った。

ユナとの約束の記憶は、もうない。妹が好きだった花の名前も、その香りでさえ、思い出せない。だが、彼は知っていた。ここに花を植えなければならないことを。

彼は持ってきた様々な種類の花の種を、丘一面に蒔き始めた。それは、妹ユナのためだけではない。彼の中で静かに生き続ける、名も知らぬ兵士のため。その兵士が愛した妻と子のために。リョウが殺めてしまった全ての命と、その命が抱いていた全ての愛しい日々のために。

夕暮れの光が、丘を黄金色に染めていく。これから芽吹くであろう花々は、特定の誰かのためではなく、戦争によって失われた全ての記憶のための鎮魂花となるだろう。

リョウは、自分の記憶を失った。しかし、彼はその代わりに、敵と味方の境界を超えた、人間そのものの愛と哀しみを知った。空っぽの英雄は、全ての死者の記憶を背負い、静かに未来へと歩き出すための、ささやかだが確かな一歩を、その丘に刻んだのだった。

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