午後三時の受信者

午後三時の受信者

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第一章 午後三時の侵入者

水島蓮の日常は、古書の匂いと、ページをめくる乾いた音で満たされている。彼が店主を務める『時の余白』は、大通りから一本入った路地にひっそりと佇む古書店だ。差し込む午後の光が、埃をきらきらと踊らせる。蓮はこの静寂を愛していた。他人との過剰な関わりを避け、物語の残骸に囲まれて過ごす時間は、彼にとって唯一の聖域だった。

だが、その聖域は毎日、正確に午後三時になると、容赦なく侵犯される。

壁の古時計の針が、ローマ数字の「III」を指し示す。蓮は読んでいた文庫本を閉じ、カウンターに突っ伏して固く目を閉じた。来る。深呼吸をして、衝撃に備える。それは嵐のようなもので、抵抗しても意味がない。ただ過ぎ去るのを待つしかないのだ。

次の瞬間、蓮の世界は反転した。

鼻腔を突くのは、古紙の香りではなく、消毒液とフローラルな芳香剤が混じった匂い。耳に響くのは、静寂ではなく、無機質な電子音と、遠くで聞こえる誰かのすすり泣き。そして、視界に広がるのは、薄暗い書斎ではなく、真っ白な天井と、点滴のスタンドだった。自分の手ではない、皺の刻まれた手が、硬くシーツを握りしめている。心臓が、恐怖と絶望で氷のように冷えていく感覚。――ああ、まただ。

『フラッシュセンス』。蓮が勝手に名付けたこの現象は、五年前から始まった。一日一回、数分間だけ、見ず知らずの誰かの五感と感情が、彼の意識を乗っ取るのだ。初めて経験した時は、脳の病気を疑ってあらゆる検査をしたが、結果は「異常なし」。以来、彼はこの呪いのような現象を、誰にも言えずに一人で抱え込んできた。

ある時は、満員の通勤電車で痴漢に遭う女性の恐怖と怒り。またある時は、初めてのプレゼンで頭が真っ白になる新入社員の焦燥。それは常に、強烈な感情を伴う、他人の人生の生々しい断片だった。数分後、蓮は汗だくで自分の意識に戻る。心身ともに疲弊し、他人の感情の澱が、しばらく心の中に沈殿する。だから彼は、人を避けるようになった。世界は、こんなにも苦痛と混乱に満ちているのかと、うんざりしたからだ。

だが、ここ一週間、その侵入者に奇妙な変化が起きていた。

午後三時。蓮が身構えると、いつものように世界が切り替わる。しかし、流れ込んでくるのは激しい感情の奔流ではなかった。それは、驚くほど静かな情景だった。

古い木枠の窓。磨き込まれたガラスの向こうに、夕陽を浴びて黄金色に輝く金木犀の枝が見える。部屋の中は、珈琲の香ばしい匂いと、陽だまりの匂いが満ちていた。視線はゆっくりと、編み物のかかった膝の上へと落ちる。持ち主は、穏やかな気持ちで窓の外を眺めているようだ。しかし、その静けさの底には、インクを一滴落としたような、微かで、しかし確かな「待つ」という感情が滲んでいた。

「あなたは、まだ……」

か細い、知らない老女の声が、蓮自身の口から漏れた。

そして、数分後。蓮がカウンターから顔を上げると、自分の頬に一筋の涙が伝っていることに気づいた。なぜだろう。いつもは不快感しか残らないのに、今の記憶には、胸の奥を締め付けるような、不思議な懐かしさと切なさがあった。

さらに奇妙なことに、その現象は翌日も、その次の日も続いた。毎日午後三時になると、蓮はあの窓辺に座る老女になるのだ。同じ部屋、同じ金木sex犀、同じ「待つ」という感情。ランダムであるはずのフラッシュセンスが、特定の個人に固定されるなど、前代未聞だった。

最初は気のせいだと思っていた蓮の心に、やがて無視できない疑問が芽生え始める。この老女は誰だ? なぜ、彼女の記憶だけが、繰り返し自分のもとへやってくるのだろうか。まるで、誰かが意図的に送りつけているかのように。蓮の静かで平坦な日常に、その老女の存在は、消えない染みとなって、ゆっくりと広がっていった。

第二章 金木犀の道標

「また、あの人だ」

一週間が過ぎた頃には、蓮は午後三時が来るのを、恐怖ではなく、どこか奇妙な期待感を持って待つようになっていた。今日も彼は、あの窓辺にいた。老女の記憶は少しずつ、蓮に多くの情報を与えてくれた。

窓から見える風景。向かいの家の屋根の形。時折聞こえる、近くの線路を走る電車の音。部屋の壁にかかった、少し傾いた風景画。机の上に置かれた、七宝焼の小さな小物入れ。それらは全て、蓮の日常には存在しない、しかし確かな手触りのある「現実」の欠片だった。

蓮は、まるで探偵のように、その断片をメモに書き留め始めた。最初は、自分の日常を侵食する異物を排除するための、防衛的な行為だった。関わるべきではない。深入りすれば、自分の静寂が壊れてしまう。そう頭では理解していた。

しかし、彼の心は別の方向を向き始めていた。老女の記憶を体験するたび、彼女の抱える深い孤独と、誰かを待ち続ける一途な想いが、津波のように彼の心に流れ込んでくるのだ。それは、蓮がずっと避けてきた、生々しい感情だった。だが、不思議と不快ではなかった。むしろ、その純粋な想いに触れるたび、乾ききっていたはずの自分の心の一部が、静かに潤っていくような感覚さえあった。

「あの人を、探さなければならない」

気づけば、蓮はそう決意していた。それは論理的な判断ではなかった。ただ、彼女をこのまま放ってはおけない、という強い衝動に駆られたのだ。

彼は店の留守を助手のアルバイトに任せ、メモを片手に街へ出た。老女の記憶にあった、特徴的な「二両編成の黄色い電車」が走る沿線から、調査を始めた。駅を一つひとつ降り、記憶の中の風景と照らし合わせる。無謀な試みであることは分かっていた。だが、蓮には奇妙な確信があった。金木犀の香りが、きっと自分を導いてくれるはずだと。

数日が過ぎた。手がかりは一向に見つからない。焦りと疲労が募る中、蓮はふと足を止めた。ある住宅街の路地から、ふわりと甘い香りが漂ってきたのだ。金木犀。その香りに誘われるように路地へ入ると、古びた二階建てのアパートが目に入った。その二階の一室の窓辺に、記憶で見たのと同じ、見事な金木犀の枝が伸びている。

心臓が大きく脈打った。間違いない。ここだ。

階段を軋ませながら二階へ上がる。目的の部屋のドアの前で、蓮は深く息を吸った。ドアには『高村』という古びた表札がかかっている。これから自分は、見ず知らずの老女の日常に、物理的に踏み込もうとしている。一体、何と言えばいいのか。「あなたの記憶を毎日見ています」などと、口が裂けても言えるはずがない。

それでも、蓮は震える手でドアをノックした。コン、コン。静寂が応える。もう一度、少し強く叩く。返事はない。ただ、ドアの隙間から、あの懐かしい金木犀の香りが、より一層強く漂ってくるだけだった。

第三章 日記が語る真実

応答のないドアの前で立ち尽くしていた蓮に、階下から声がかかった。「あの、高村さんなら、もう……」

振り返ると、心配そうな顔をしたアパートの大家が立っていた。大家の口から語られた事実は、蓮の思考を完全に停止させた。

部屋の住人、高村静江さんは、一週間ほど前に、部屋で亡くなっているのが発見されたという。孤独死だった。

蓮は愕然とした。死んでいる? では、自分が毎日体験していたあの記憶は、一体何だったのだ。リアルタイムの誰かの意識ではないのか。混乱する蓮に、大家は「ご親族の方ですか?」と尋ねた。警察に連絡したものの、身寄りがなく、遺品の整理に困っていたのだという。

蓮は、自分が何に導かれているのか分からないまま、咄嗟に「……遠い親戚です」と嘘をついた。

数日後、蓮は警察の許可を得て、高村静江の部屋に足を踏み入れた。ドアを開けた瞬間、金木犀と陽光の匂いが彼を包み込む。そこは、蓮が毎日午後三時に訪れていた、あの部屋そのものだった。壁の風景画、膝掛けのかかった椅子、窓の外の金木犀。全てが記憶の通りで、蓮はまるで自分の記憶の中に迷い込んだかのような錯覚に陥った。

部屋は、持ち主の死を感じさせないほど、綺麗に整頓されていた。蓮は、まるで聖域に触れるかのように、ゆっくりと部屋を見回す。そして、机の上に置かれた一冊の古い大学ノートに目が留まった。それは日記帳だった。

表紙には『静江』とだけ書かれている。蓮は椅子に腰かけ、震える手で最初の一ページを開いた。そこには、穏やかで美しい文字が並んでいた。日記は、静江の日常の記録だった。天気のこと、庭の花のこと、そして、繰り返し出てくる一人の人物への想い。

『今日も、蓮からの連絡はなかった。あの子は元気にしているだろうか』

『古本屋を始めたと風の噂で聞いた。あの子らしい。本が好きだったものね』

蓮。その名前に、蓮の心臓は凍りついた。ページをめくる手が、激しく震え始める。日記は、蓮が幼い頃に離婚して以来、一度も会うことのなかった、母方の祖母の記録だったのだ。蓮の記憶の片隅に、微かに残る優しい笑顔。日記には、孫である蓮を遠くから見守り、その成長を喜び、そして会えない寂しさを綴る言葉で満ち溢れていた。

そして、蓮は日記の中に、信じがたい記述を見つけた。

『今日は、不思議な体験をした。午後三時になると、決まって知らない誰かの景色が見える。若い女性が、大勢の前で話をしている。とても緊張しているのが伝わってきて、こちらまでドキドキしてしまった。父様から受け継いだこの不思議な力は、一体何なのだろう』

――同じだ。祖母も、自分と同じ『フラッシュセンス』の能力者だったのだ。

蓮は息を呑み、日記の最後のページを開いた。そこには、弱々しく、しかし心のこもった文字が記されていた。

『もう、あまり時間がないようだ。体が思うように動かない。最期に、一目だけでも蓮に会いたかった。でも、それは叶わぬ願い。ならば、せめて。この想いだけでも、あの子に届けばいい。私の人生の最後の欠片が、あの子の日常に迷い込んでも、どうか、迷惑だと思わないでおくれ。あなたを、ずっと愛している』

蓮が体験していたのは、死にゆく祖母が、たった一人の孫に向けて放った、最後の祈りそのものだった。彼女の強烈な「会いたい」という想いが、時空を超え、能力を通じて蓮に届いていたのだ。疎ましい呪いだと思っていた力は、祖母と自分を繋ぐ、たった一本の奇跡の糸だった。

蓮は日記を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。窓の外では、金木犀が、まるで全てを知っていたかのように、静かに揺れていた。

第四章 世界と繋がる窓

祖母のささやかな葬儀を終え、部屋を片付けた後も、蓮の日常は続いた。古書店『時の余白』のドアを開け、古書の匂いを吸い込み、カウンターに座る。何も変わっていないはずなのに、蓮にとって、世界は全く違うものに見えていた。

午後三時。古時計の針が定刻を指す。蓮はもう、身構えることも、目を閉じることもしなかった。彼は静かに本を閉じ、窓の外に目をやる。

次の瞬間、彼の意識は、青空を舞っていた。下には緑の芝生が広がり、子供たちの歓声が響き渡る。視線の主は、初めて補助輪なしで自転車に乗れた達成感と喜びで、胸をいっぱいにした少年だった。風を切る爽快感、ペダルを漕ぐ足の確かな感触、誇らしげに父親を振り返る弾むような心。

数分後、蓮は古書店の静寂の中にいた。しかし、彼の口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。少年の純粋な喜びの余韻が、温かい光のように心に残っている。

フラッシュセンスは、祖母の死後も続いた。しかし、それはもう呪いではなかった。蓮は、それが世界中に散らばる、名もなき人々の人生の輝き――喜び、悲しみ、緊張、安らぎ――の断片なのだと理解していた。自分が疎んじていたものは、他人の人生そのものであり、それは時に、自分に向けられた深い愛の形をとることもあったのだ。

彼は、祖母の部屋から一枝だけ、金木犀の枝を持ち帰り、店のカウンターの小さな一輪挿しに挿した。甘い香りが漂うたび、蓮は自分に向けられた祖母の愛を思い出す。そして、見ず知らずの誰かから届けられる感情のバトンを、贈り物のように大切に受け取るようになった。

ある日の午後三時、蓮は燃えるような夕焼けの中で、愛する人にプロポーズする若者の、心臓が張り裂けそうなほどの緊張と幸福感を体験した。またある日は、締め切りに追われる漫画家の、絶望的な焦燥感と、それでもペンを止めない不屈の闘志を感じた。

彼の日常は、もう彼だけのものではなかった。それは、無数の誰かの日常と、静かに、そして確かに繋がっていた。人付き合いを避け、孤独な聖域に閉じこもっていた水島蓮は、今、この世界の誰よりも豊かで、彩り豊かな日常を生きていた。

蓮は窓の外を眺める。街を行き交う人々。彼ら一人ひとりの中に、自分と同じように、物語があり、感情がある。フラッシュセンスは、その当たり前の事実を、何よりも強い実感として彼に教えてくれた。

それは、孤独な古書店の店主が、世界と和解し、その一部になるまでの物語。

カウンターの金木犀が、夕方の風にふわりと香った。蓮は目を閉じ、静かに微笑む。もうすぐ、次の誰かの人生が、彼のもとを訪れるだろう。彼は、その受信を、心から待っていた。

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