僕の正直な影

僕の正直な影

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第一章 忠実なる反逆者

相田潤(あいだ じゅん)の日常は、限りなく灰色に近い平穏でできていた。三十ニ歳、中堅のデザイン事務所に勤める彼は、波風を立てることを極端に嫌った。会議ではいつも、一番当たり障りのない意見に同調し、上司の退屈なジョークには誰より早く相槌を打つ。それが、この社会で最も効率的な生存戦略だと信じていた。

その日も、彼の信条が試される典型的な午後だった。第3会議室の空気は、エアコンの生ぬるい風と、配布資料のインクの匂いでよどんでいる。部長が主導するプロジェクトの進捗会議は、開始から一時間以上、同じ場所をぐるぐると旋回していた。潤は、眠気を誘う部長の声を聞き流しながら、ただひたすらに頷くことに徹していた。

異変に気づいたのは、その時だった。

テーブルの下、床に伸びた自分の影が、奇妙な動きをしていた。蛍光灯の白い光に切り取られた黒い人型が、本来あるべき静寂を破り、まるで舞台に立ったダンサーのように、小刻みに足を動かしている。それは、タップダンスのステップだった。カツ、カツ、と音こそしないものの、そのリズミカルで軽快な動きは、この重苦しい会議の雰囲気をあざ笑うかのような、明確な意志を持っていた。

潤は息を呑んだ。心臓が大きく跳ね、背中にじっとりと冷たい汗がにじむ。何度か瞬きをして、もう一度足元を見た。影は、まだ踊っている。楽しげに、そして挑発的に。周囲の同僚たちは、誰一人としてその異常に気づいていない。部長も、相変わらず手元の資料に視線を落としたままだ。この奇怪な現象は、潤の世界の中だけで起きているらしかった。

「……というわけで、相田くん。君も、このA案で問題ないかね?」

突然、名前を呼ばれて潤はびくりと肩を震わせた。部長の目が、値踏みするようにこちらを見ている。潤の頭の中には、このA案に対する数多の疑問と、もっと効果的だと思えるB案の存在が渦巻いていた。しかし、それを口にすれば、面倒な議論が始まるのは目に見えている。

「は、はい。もちろんです。素晴らしい案だと思います」

声がわずかに上ずるのを抑えきれなかった。その瞬間、足元の影がピタリと動きを止めた。そして、両腕をだらりと下げ、がっくりと肩を落とす、絶望のポーズをとった。それは、潤が心の奥底で感じていた無力感と自己嫌悪を、完璧に模倣した姿だった。

潤は、自分の影が、自分自身の正直な感情を映し出す反逆者になってしまったことを悟った。灰色だったはずの日常に、濃く、そして厄介な黒色が、じわりと滲み始めた瞬間だった。

第二章 光と影の攻防

それからの日々は、潤にとって光と影の絶え間ない攻防戦となった。彼の忠実なる反逆者である影は、日に日にその行動をエスカレートさせていった。

朝の満員電車。ぎゅうぎゅう詰めの車内で、潤はじっと息を殺しているのに、窓ガラスに映る影は両腕を大きく広げ、窮屈さからの解放を叫んでいるかのように見えた。会社の廊下で、苦手な営業部の課長とすれ違う。潤は完璧な笑顔で会釈するが、壁に伸びた影は、その背中に向かってべーっと長い舌を出していた。

最も厄介だったのは、企画部の同僚、佐藤さんの前だった。密かに好意を寄せている彼女と話すとき、潤は緊張で当たり障りのない天気の話しかできない。しかし、彼の影は違った。ある時、給湯室で二人きりになった。潤が「今日も暑いですね」と絞り出したその背後で、影はうっとりと彼女を見つめ、ポケットから花束を取り出して差し出すパントマイムを演じていた。潤は血の気が引く思いで、慌てて体の向きを変え、不自然なほど壁際に張り付いた。「どうしたんですか、相田さん?」と不思議そうに首を傾げる彼女に、潤は「いえ、なんでも……」とどもるしかなかった。

潤は、影をコントロールしようと涙ぐましい努力を始めた。日中は日当たりの良い場所を避け、地下街やビルの陰を選んで歩いた。オフィスでは、自分の席の照明を不必要に暗くし、同僚から気味悪がられた。影の存在そのものを消し去ろうと、彼は自ら光を避ける、もぐらのような生活を送るようになった。

そんなある日の昼休み。潤は誰にも会いたくなくて、会社の屋上に逃げ込んだ。真夏の太陽が容赦なく照りつけ、コンクリートの床はフライパンのように熱い。ここにいれば、影は最も濃く、はっきりとその姿を現す。だが、今はもう誰かに見られる心配はなかった。

潤がフェンスのそばに立つと、足元に黒い人型がくっきりと浮かび上がった。その影は、ゆっくりと空を見上げた。そして、まるで鳥が大空に飛び立とうとするかのように、両腕を大きく、どこまでも大きく広げた。その姿には、いつものような皮肉や反抗の色合いはなかった。ただ、ひたむきな憧れと、どうしようもないほどの渇望が満ちていた。

潤は、その影の姿に、自分自身の心の奥底に押し込めていた願望を見た。本当は、こんな息苦しい場所から飛び出したい。つまらない建前を脱ぎ捨てて、自由に、自分のままでありたい。影は、潤が諦めてしまったはずの夢を、ずっと覚えていたのだ。

「お前は……俺なのか」

呟いた声は、風にかき消された。しかし、影は潤の言葉に応えるように、ゆっくりと腕を下ろし、静かに潤の隣に寄り添うように佇んでいた。初めて、反逆者である影との間に、奇妙な一体感が生まれた気がした。太陽の熱が、潤の頬をじんわりと温めていた。

第三章 午後三時の独白

運命の日、プロジェクトの最終プレゼンは、午後三時に設定されていた。クライアントである大手飲料メーカーの役員たちがずらりと並ぶ会議室は、成功への期待と失敗への恐怖が入り混じった、特殊な緊張感に包まれていた。

潤たちのチームが提案するのは、部長が強力に推すA案。市場調査に基づいた、手堅く、無難で、そして何の驚きもない企画だった。潤は、この企画に心が躍らなかった。彼の頭の中には、もっと挑戦的で、消費者の心を根こそぎ掴むような、全く別の企画案――深夜までかかって一人で練り上げた、誰にも見せていない「幻の企画案」――が存在したからだ。だが、それを提案する勇気は、彼にはなかった。

「では、担当の相田から、詳細を説明させます」

部長の声に促され、潤は重い足取りで演台に向かった。背中に突き刺さる何十もの視線。口の中はカラカラに乾き、用意した原稿を持つ手がかすかに震える。足元の床には、スポットライトを浴びて、濃い影が一つ。どうか、頼むから、今日だけは大人しくしていてくれ。潤は心の中で必死に祈った。

「えー、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。私どもがご提案いたしますA案は……」

潤が当たり障りのない言葉を紡ぎ始めた、その時だった。

彼の影が、勝手に動き出したのだ。それは、もはや小手先の反抗ではなかった。演台の横の白い壁をスクリーンに見立て、影は壮大なパントマイムを始めた。それは、潤の「幻の企画案」のコンセプトそのものだった。退屈な日常にうんざりした人々が、一本の飲み物を手にすることで、世界が色鮮やかに変わっていく。影は、驚き、笑い、涙し、そして最後には高らかに空を仰いで歓喜する人々の姿を、たった一つの黒いシルエットで、雄弁に、そして情熱的に演じきっていた。

会議室が、ざわめいた。「何だ、あれは?」「新しい演出か?」役員たちが顔を見合わせる。潤の背後では、部長が蒼白な顔で立ち上がろうとしていた。パニックが潤の全身を支配する。やめろ。やめてくれ。

だが、影のパフォーマンスから目が離せなかった。その一つ一つの動きは、潤が徹夜で考え抜いたアイデアの結晶だった。彼が言葉にできなかった情熱、伝えきれないと諦めた感動が、影によって完璧に表現されていた。クライアントの役員の一人が、退屈そうな表情を消し、身を乗り出して食い入るように壁を見つめているのが見えた。

その瞬間、潤の中で何かが弾けた。

これは、僕の影じゃない。これは、僕自身だ。僕が本当に伝えたかった、僕の心の叫びだ。

潤は、震える手で持っていたA案の原稿を、そっと演台の脇に置いた。そして、深く、深く息を吸った。

「失礼いたしました。今、皆様に見ていただいたもの……それこそが、私たちが本当にご提案したい企画の核心です」

静まり返る会議室に、潤の張りのある声が響いた。彼は、影が演じるパントマイムに合わせ、自分の言葉で「幻の企画案」を語り始めた。リスクも、前例のなさも、全て正直に。だが、それ以上に、この企画が持つ無限の可能性と、人々の心を動かす力を、熱を込めて訴えた。影と本体が、初めて一つの意志で、一つの物語を紡ぎ始めた。午後三時の会議室で、相田潤の静かな革命が、幕を開けたのだった。

第四章 夕暮れの相棒

プレゼンテーションは、前代未聞の形で幕を閉じた。会議室はしばらく奇妙な沈黙に包まれたが、やがてクライアントの最高責任者である初老の男性が、ゆっくりと立ち上がり、力強い拍手を送った。それを皮切りに、賞賛の嵐が巻き起こった。

会社に戻る道すがら、部長からは「君はクビだ」と罵倒された。しかし、その日の夕方、クライアントから直接、潤をプロジェクトリーダーに指名する、という異例の連絡が入った。会社は手のひらを返し、潤の処遇は一転、プロジェクトを任されることになった。

だが、潤にとって、そんな周囲の評価はどうでもよかった。何よりも大きかったのは、自分の殻を破り、自分の言葉で世界と向き合えたという、腹の底から湧き上がってくるような充実感だった。灰色だった世界が、まるで彩度を上げたかのように鮮やかに見えた。

その日の帰り道。潤は、いつもより少しだけ遠回りをして、河川敷の道を歩いていた。傾きかけた夕日が、世界を暖かいオレンジ色に染めている。ふと、自分の足元に目をやった。

長く伸びた影は、もう奇妙な動きはしていなかった。潤が歩けば歩き、止まれば止まる。かつての、ただ忠実なだけの影に戻ったように見えた。だが、何かが違っていた。以前の影は、どこか薄く、頼りない存在だった。しかし今の影は、アスファルトに力強く根を張るように、輪郭がくっきりと濃く、そして心なしか、以前よりも大きく見えた。

潤は、その影に向かって小さく微笑んだ。まるで、長年の戦いを終えた戦友に語りかけるように。

会社への道を曲がった角で、前から歩いてくる佐藤さんの姿を見つけた。以前の潤なら、きっと気づかないふりをして俯いていただろう。しかし、今の彼は違った。

彼は迷わず、彼女の方へ歩み寄った。

「佐藤さん。お疲れ様」

「あ、相田さん。お疲れ様です。プレゼン、すごかったって聞きました」

彼女は少しはにかみながら言った。その笑顔が、夕日を浴びてきらきらと輝いている。潤の心臓が、心地よいリズムで高鳴った。

「ありがとう。もしよかったら、なんだけど」

潤は、一度だけ自分の足元の影を見た。

「今度、お祝いに、食事でもどうかな」

それは、彼の内側から湧き出た、紛れもない本心だった。佐藤さんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうな笑顔になって頷いた。「はい、ぜひ」。

その瞬間、潤の足元で、黒い影が誰にも気づかれないほど小さく、けれど力強いガッツポーズをした。それはもう、抑圧された願望が暴走する反逆者の姿ではなかった。心からの喜びを分かち合い、これからも共に歩んでいく、かけがえのない相棒の祝福だった。潤は、夕日に照らされた道を、確かな足取りで歩き始めた。彼の隣には、もう孤独ではない、正直な影が寄り添っていた。

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