『無香の調香師は、焦げた愛を嗅ぐ』
第一章 真空の器
老婆の背中が、ふわりと波打った。
手渡したムエット(試香紙)が鼻先を掠めた、その刹那だ。
さっきまで重力に負けて丸まっていた背骨に、見えないピアノ線が通ったかのように芯が入る。
濁っていた瞳孔が開き、焦点が虚空の一点を射抜いた。
言葉はない。
ただ、乾いた頬を大粒の雫が伝い、顎先から床へと落ちる。
雨上がりのアスファルト。濡れた紫陽花。
そして、甘く煮詰めた林檎の湯気。
彼女の表情筋が、数十年の時を遡り、少女のそれへと綻んでいく。
記憶が、脳髄で再生されているのだ。
私はカウンターの奥で、その光景を無感動に見つめていた。
まるでガラス越しに映画を観ているような、圧倒的な隔絶感。
「……ありがとう」
長い沈黙の果てに絞り出された声は、濡れて震えていた。
老婆は代金と共に、私の手すら握りしめんばかりの勢いで感謝を示し、琥珀色の小瓶を胸に抱いて去っていった。
ドアベルの音が止む。
同時に、店内に満ちていた「愛の匂い」も霧散する。
残されたのは、無機質な静寂と、冷房の乾いた風だけ。
私は自分の手首に鼻を近づける。
……無だ。
深く吸い込んでも、肺に入ってくるのはただの空気。
石鹸の残り香もしない。柔軟剤の匂いすら、私の皮膚というフィルターを通すと、その個性を剥奪されて死滅する。
『君といると、無菌室に閉じ込められているみたいで息が詰まるんだ』
かつて恋人に吐き捨てられた言葉が、鼓膜の裏で蘇る。
彼は去り際に言った。私の記憶には色がない、匂いがない、だから君という人間には「味」がないのだと。
無香症。
それが私の病であり、呪いだった。
他人の鮮やかな記憶を調合し、香水として売る。
皮肉な商売だ。空っぽの胃袋を抱えたまま、他人にフルコースの料理を振る舞うような。
カタン。
思考を遮るように、郵便受けが鳴った。
重たい音だ。請求書やダイレクトメールの軽さではない。
私は重い腰を上げ、封筒を拾い上げる。
差出人の名はない。
だが、封筒の隅に、見覚えのあるインクの滲みがあった。
古い万年筆特有の、ブルーブラックの筆跡。
『鎌倉市二階堂……』
住所だけが記されている。
封を開けると、掌に収まる桐箱が出てきた。
蓋をスライドさせる。
中には、どろりとした黒褐色の液体が入った小瓶。
ラベルには、たった一言。
『凪(なぎ)』
私の名前。
首を傾げながら、瓶を取り出そうと指を伸ばした。
バチッ。
ガラスに指先が触れた瞬間、静電気のような痛みが走る。
反射的に手を引っ込めた。
(なに……?)
蓋は、蝋で厳重に封印されている。
匂いが漏れるはずがない。
それなのに。
鼻の奥が、焼けつくように痛い。
焦げた砂糖。
いや、もっと鼻につく、有機物が炭化する不快な臭気。
胃の腑から、熱いものがせり上がってくる。
動悸が早まる。ドクン、ドクン、と心臓が肋骨を叩く。
知らない匂いだ。
私の人生には、こんな暴力的な悪臭は存在しないはずだ。
けれど、指先が震えて止まらない。
本能が警鐘を鳴らしている。
『これに触れるな』と叫んでいるのに、魂の底が『これを開けろ』と渇望している。
私は桐箱の底をまさぐった。
一枚の硬い紙片が出てくる。
『真実を嗅ぐ覚悟ができたら、来なさい』
署名はない。
だが、分かる。
この文字の癖。この、人を試すような傲慢な筆致。
大学時代、私の特異体質を唯一見抜いていた恩師、樹(いつき)教授だ。
私の「空白」を知る男が、なぜ今。
そして、この嘔吐感を催す「私の名前」がついた香りは何なのか。
気付けば私は、コートを掴んでアトリエを飛び出していた。
第二章 錆びた扉
鎌倉の湿った空気が、肌にまとわりつく。
地図アプリは必要なかった。
同封されていた住所は、奇妙なほど鮮明に私の頭に焼き付いていたからだ。
あるいは、足が勝手に覚えているのか。
切り通しの坂道を登るにつれ、鞄の中の小瓶が熱を帯びていく錯覚に襲われる。
息が切れる。
心拍数が上がると同時に、幻臭が濃くなる。
錆びた鉄。
古い箪笥の防虫剤。
そして、焦げ臭さ。
(気持ち悪い……)
道端の溝に吐瀉しそうになるのを、唾液ごと飲み込む。
引き返すべきだ。理性がそう叫ぶ。
だが、足は止まらない。
鬱蒼とした木立の奥に、その洋館はあった。
蔦に覆われた外壁は、まるで森に食われているようだ。
インターホンはない。
重厚な木の扉を、拳で叩く。
ゴト、ゴトト。
内側から重いチェーンが外される音がして、扉が僅かに開いた。
「……遅かったな」
隙間から覗く目は、猛禽類のように鋭い。
白髪はボサボサで、着古したカーディガンからは煎じ薬のような匂いがした。
樹先生だ。
数年ぶりの再会だというのに、彼は私を値踏みするように一瞥しただけだった。
「覚悟は、できたか」
挨拶もなしに、問われる。
私は無言で、鞄から桐箱を取り出した。
手が震えて、うまく蓋が開けられない。
先生はため息をつき、扉を大きく開け放った。
「入れ。靴はそこら辺に脱いでおけ」
通された書斎は、本の墓場だった。
床から天井まで積み上げられた書物が、今にも崩れ落ちそうだ。
部屋の中央にあるローテーブルに、私は小瓶を置いた。
黒褐色の液体が、ランプの光を受けて不気味に揺らめく。
「先生、これは何ですか」
単刀直入に訊ねる。
声が上擦っていた。
「私の記憶には匂いがない。ずっとそう思っていました。でも、これを持っているだけで、頭が割れそうに痛いんです。焦げ臭くて、鉄臭くて……吐き気がする」
先生は古びたパイプに火をつけながら、紫煙を吐き出した。
「お前の記憶が『無香』なのではない」
煙の向こうで、先生の目が細められる。
「あまりに強烈すぎる刺激臭を、脳がシャットダウンしただけだ。防衛本能だよ。直視すれば心が壊れるほどの『臭い』を、お前は無意識に真空パックして、記憶の底に沈めたんだ」
「心が、壊れる……?」
「その瓶の中身は、私が十数年かけて集めた、お前の記憶の残滓だ。現場に残っていた煤、炭化した柱、そしてお前が握りしめていた……もの」
先生の言葉が、遠く聞こえる。
耳鳴りがする。
キーンという甲高い音。
いや、違う。
これは耳鳴りじゃない。
『サイレン』だ。
「開けなさい、凪」
先生の声が、裁判官の宣告のように響く。
「自分の手で封を解け。そして、吸い込むんだ。お前が生きている理由のすべてを」
逃げたい。
このままアトリエに戻って、空っぽのまま死んでいきたい。
でも、手は勝手に動いていた。
蝋で固められた封を、爪で削り取る。
ボロボロと赤い蝋が落ちる様は、まるで凝固した血のようだ。
コルクの栓に指をかける。
(開けるな)
(思い出したら、死ぬぞ)
脳内の誰かが叫ぶ。
けれど私は、力を込めた。
ポン。
乾いた音が、静寂を引き裂いた。
第三章 業火の揺り籠
瞬間、世界が反転した。
書斎が消える。
本棚も、先生も、窓からの光も。
代わりに襲ってきたのは、暴力的な「熱」だ。
「あッ、熱ッ……!」
私は床に倒れ込んだ。
皮膚が焼ける。髪がチリチリと縮れる音が鼓膜のすぐそばで弾ける。
呼吸ができない。
酸素がない。あるのは黒い煙と、喉を焼く熱風だけ。
『凪!』
叫び声。
パパの声だ。
『こっちだ、早く!』
身体が宙に浮く。
ママに抱き上げられたのだ。
ママの服からは、甘い匂いがした。
さっきまでキッチンで煮詰めていた、キャラメルの香り。
それが今、焦げ臭い煙と混ざり合って、吐き気を催す甘ったるい悪臭に変わっている。
ゴォォォォォォッ!
獣の咆哮のような音が、廊下を走る。
炎だ。紅蓮の舌が、天井を舐め尽くして迫ってくる。
逃げ場がない。
玄関は炎の壁に阻まれている。
『ここに入りなさい!』
ドン、と背中を押された。
狭い空間。防虫剤の匂い。
クローゼットだ。
『いい、凪。絶対に出てきちゃだめよ』
ママの顔が見える。
煤で真っ黒だ。でも、瞳だけが異様に輝いている。
恐怖じゃない。
私を見つめるその目は、凪いだ海のように静かで、深かった。
『パパとママが、熱いのを止めるから』
扉が閉められる。
「やだ! ママ! パパ!」
私は内側から扉を叩く。
金属のドアノブを握る。
熱い。焼けた鉄板のように熱い。
手のひらが焼ける匂い。肉が焦げる匂い。
『うぅ……っ、ああぁっ!』
外から、絶叫が聞こえる。
パパの声。ママの悲鳴。
そして、ドサッ、ドサッと、重いものが扉に倒れ掛かる音。
重みで、扉が開かなくなる。
隙間から入り込んでくる煙。
人間の髪が燃える臭気。
皮脂が炭化する臭い。
『凪……だい……すき……』
扉の向こうで、微かな声がした。
その直後、凄まじい爆発音と共に、私の意識はホワイトアウトした。
「オォェッ……!!」
現実に戻った私は、絨毯の上に胃液をぶちまけていた。
喉が焼けるように痛い。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
全部、思い出した。
事故じゃなかった。
火事だった。
私は、両親が自らの身体を盾にして作った、肉の壁と鉄の扉によって守られたのだ。
あの焦げた砂糖の匂いは、焼きついた幸せの残骸。
鉄の匂いは、熱せられたドアノブと、私の血。
そしてあの腐臭は、私を生かすために燃え尽きた、二人の命の匂いだ。
「あぁ……あああああっ!」
私は床を掻きむしって慟哭した。
辛いなんてもんじゃない。
こんな匂い、抱えて生きていけるわけがない。
だから私は、嗅覚を捨てたのだ。
記憶ごと、自分を殺したのだ。
「吐き出せ」
背中に、温かい手が置かれる。
先生の手だ。
「全部吐き出して、そして吸い込め」
先生は、転がった小瓶を拾い上げ、私の鼻先に突きつけた。
「逃げるな。その悪臭の奥にあるものを嗅ぎ分けろ。お前は調香師だろう?」
私は涙で霞む目で、小瓶を睨んだ。
臭い。
死の臭いだ。
でも。
鼻孔を広げ、限界まで吸い込む。
焦げ臭さと、血の臭いの、そのさらに奥底。
原子レベルまで分解して、探し求める。
あった。
微かだが、確実に存在する香り。
汗と、ミルクと、日向の匂い。
私を抱きしめた腕の強さ。
最期の瞬間まで、私を守ろうとした意思。
それは、炎すら焼き尽くせなかった「愛」の香りだ。
猛烈な悪臭を包み込むように、その優しい香りが私の肺を満たしていく。
空っぽだった私の内側に、ドロドロとした、けれど温かい色が注ぎ込まれていく。
震えが、止まった。
第四章 凪ぐ風、琥珀の空
窓を開けると、夕暮れの風が吹き込んできた。
雨はいつの間にか上がっていたらしい。
濡れた土の匂い。
若葉の青臭い匂い。
遠くで誰かが焼く、夕餉の魚の匂い。
そのすべてが、暴力的なまでの解像度で私の中に雪崩れ込んでくる。
世界は、こんなにも匂いに満ちていたのか。
私は深く息を吸い込んだ。
肺が痛い。生きていることが、痛い。
「落ち着いたか」
先生が、温かいコーヒーを差し出してくれた。
湯気からは、深煎りの豆の香ばしさと、微かなシナモンの香りがする。
「……はい」
カップを受け取る手が、まだ少し震えている。
でも、もう恐怖はない。
「先生は、知っていたんですね」
「放火だった。犯人は捕まったが、お前はショックで全ての記憶を閉ざした。親戚はお前に真実を隠した。だが、それではお前の時間は止まったままだ」
先生は窓の外、暮れなずむ空を見上げた。
「香りは記憶の鍵だ。だが、時には扉をこじ開けるバールにもなる。……手荒な真似をしてすまなかった」
「いいえ」
私は首を横に振った。
小瓶はもう空っぽだ。匂いはすべて、私の中に戻ったから。
自分の腕の匂いを嗅ぐ。
汗臭い。嘔吐の酸っぱい臭いも混じっている。
ひどい匂いだ。
けれど、これが「私」だ。
無菌室の私じゃない。
泥にまみれ、傷つき、それでも生き残った人間の匂いだ。
「いい匂いですね、世界は」
私が呟くと、先生は初めて、柔らかく笑った。
「ああ。清濁あわせ呑んでこその、人生の香りだ」
私はアトリエへ帰るために立ち上がった。
足取りは重い。背負った真実の分だけ、身体がずっしりと沈むようだ。
でも、もうふらつくことはない。
玄関の扉を開ける。
冷やりとした夜気が、火照った頬を撫でた。
これから私は、どんな香水を作るのだろう。
ただ綺麗なだけの、上辺だけの香りはもう作れない。
悲しみも、苦しみも、焼けつくような後悔も、一滴のスパイスとして調合する。
そんな、人の一生に寄り添う香りを。
「行ってきます、先生」
「うむ。達者でな」
重厚な扉が閉まる音を背に、私は歩き出した。
風が吹く。
私自身の体から立ち上る、生々しく、力強い命の匂いを纏って。
その香りは、夜の闇の中でも決して消えることなく、私の行く道を道しるべのように照らしていた。