記憶のパレットに滲む日常

記憶のパレットに滲む日常

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第一章 触れられない世界と画集の記憶

水島湊(みなしま みなと)の日常は、薄い手袋一枚で外界と隔てられていた。古書店『時の螺旋堂』のカウンターに座り、古紙とインクの混じった匂いに包まれていても、彼の指先は常に柔らかな布に守られている。素肌で何かに触れると、そのモノや人が最後に宿した強烈な「記憶」が、まるで奔流のように彼の意識へ流れ込んでくるからだ。それは祝福ではなく、静かな呪いだった。捨てられた傘に触れれば土砂降りの雨の日の孤独が、古びた万年筆に触れれば書き終えられなかった手紙の後悔が、彼の心を浸食する。だから湊は、誰とも深く関わらず、世界に触れないように生きてきた。

その日、店のドアベルが乾いた音を立て、小柄な老婦人が段ボール箱を抱えて入ってきた。

「古い本ですが、引き取っていただけますか」

しわがれた声でそう言うと、彼女は丁寧に箱をカウンターに置いた。湊はいつものように手袋越しの手で中身を検分する。文学全集、専門書、そして一番上に、一冊のくたびれたスケッチブックのような画集が置かれていた。何気なくそれを取り上げた瞬間、湊の指先が手袋の縫い目の隙間から、わずかに画集の表紙に触れてしまった。

――閃光。

いつもの不快な感触とは全く違った。脳裏に流れ込んできたのは、映像というより、感覚の集合体だった。窓から差し込む午後の陽光が作る、温かい陽だまりの匂い。遠くで響く子供たちの屈託のない笑い声。指先に伝わる、クレヨンのざらりとした柔らかな感触。そして、胸いっぱいに広がる、言葉にならないほどの深い愛情と安らぎ。それは、誰かの人生で最も幸福な、何気ない午後の記憶の断片だった。

湊は思わず息を呑んだ。これまで感じてきた記憶は、後悔や悲しみ、怒りといった澱んだ感情ばかりだったのに、こんなにも温かく、優しい記憶は初めてだった。

「どうかしましたか?」

老婦人の声にはっと我に返る。湊は動揺を隠しながら画集を買い取り、彼女が店を出ていくのを茫然と見送った。その夜、湊は店を閉めた後も、一人カウンターでその画集をめくっていた。描かれているのは、ありふれた街角、公園のベンチ、窓辺に置かれたコーヒーカップといった、ごく普通の日常の風景ばかり。しかし、どの絵も優しい線と色彩で描かれ、描いた人物の温かい眼差しが滲み出ているようだった。最後のページには、押し花にされた四つ葉のクローバーと共に、インクで『陽子へ』とだけ記されていた。この温かい記憶の正体を知りたい。湊の中で、これまで感じたことのない強い衝動が芽生えていた。

第二章 色褪せた風景の道標

翌日から、湊の静かな日常は少しずつ色を変え始めた。彼は仕事の合間を縫って、画集に描かれた風景の場所を探し始めたのだ。手がかりは、絵の中に描き込まれた古びた時計台や、特徴的な形の街灯、小さなパン屋の看板といった断片的な情報だけ。彼は手袋をつけたままの指でページをめくり、記憶の中の風景と現実の街を重ね合わせるように歩き続けた。

何日か経った頃、画集に描かれた公園のベンチを探していると、一人の女性に声をかけられた。

「何かお探しですか? その画集、素敵ですね」

振り返ると、そこにいたのは図書館の司書だと名乗る早川結(はやかわ ゆい)だった。彼女の明るい瞳は、湊が持つ画集に純粋な好奇心を向けていた。湊は咄嗟に身を固くする。人と話すのは苦手だったし、万が一にも彼女に触れてしまうことを恐れた。

「いえ、別に……」

ぶっきらぼうに答え、その場を去ろうとする湊に、結は屈託なく続けた。

「その公園、たぶんあっちですよ。昔は噴水があったんです。絵の隅に、それらしきものが描かれていませんか?」

結が指差した先には、今は水が涸れて花壇になっているが、確かに噴水の跡があった。湊が驚いて彼女を見ると、結はにこりと笑った。

「この街で生まれ育ったので。古い風景なら、少しは分かるかもしれません」

それが出会いだった。湊は自分の能力のことは話せなかったが、画集の持ち主を探していることを打ち明けると、結は興味深そうに目を輝かせ、手伝いを申し出てくれた。彼女は図書館の郷土資料を調べ、画集に描かれた風景が三十年以上前の街並みであることを突き止めた。

結と共に過ごす時間は、湊にとって戸惑いの連続だった。彼女は平気で湊のすぐそばに立ち、資料を渡すときには指先が触れそうになる。そのたびに湊は心臓が跳ね上がるのを感じ、さりげなく身を引いた。そんな湊の不自然な態度に、結は気づいているのかいないのか、いつもと変わらない笑顔を向けてくるだけだった。

ある雨の日、図書館からの帰り道、結が傘を差し出し、「一緒に入りませんか?」と言った。狭い傘の下、二人の肩が触れ合いそうになる。湊は雨に濡れるのも構わず、傘から飛び出した。

「ごめん、一人で大丈夫だから」

走り去る湊の背中に、結の戸惑ったような声が聞こえた気がした。湊は自分の臆病さが嫌になった。結の温かさに触れてみたい。けれど、彼女の記憶が流れ込んでくるのが怖かった。もし彼女が何か悲しい記憶を抱えていたら? その重さに、自分は耐えられるだろうか。湊は、触れられない世界の壁を、改めて痛感していた。

第三章 陽だまりの最後のページ

結の協力のおかげで、ついに有力な情報が見つかった。画集に描かれていたパン屋の古い写真が郷土資料館にあり、その店主が『小野寺』という姓だったのだ。そして、その姓と『陽子』という名前から、市内の郊外に住む一人の老婦人、小野寺陽子にたどり着いた。湊は緊張で震える指先を固く握りしめ、結と共にその家を訪ねた。

チャイムを鳴らすと、穏やかな表情の老婦人が現れた。あの日、古書店に来た婦人ではなかった。湊が画集を見せると、彼女は優しく微笑み、二人を家の中へと招き入れた。

「まあ、懐かしい。これは、夫が描いたものです」

リビングに通され、陽子はゆっくりと語り始めた。湊は息を呑み、彼女の言葉に耳を傾ける。

「主人はね、絵を描くのが好きな人でした。特別な風景じゃなくて、私との何気ない毎日を、こうしてスケッチブックに留めていたんです」

陽子の指が、窓辺のコーヒーカップが描かれたページを優しく撫でた。

「この絵を描いた日のこと、今でも覚えていますわ。私が『またそんなものを描いて』と笑ったら、主人は『僕にとって、君との日常が一番の絶景なんだよ』なんて、恥ずかしいことを言うんですよ」

彼女は楽しそうに笑ったが、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。湊は、自分が感じたあの温かい記憶の正体に、少しずつ近づいている気がした。

「あの、この画集は、なぜ手放されようと?」

湊が核心に触れると、陽子の微笑みがふっと翳った。そして、彼女は読者の予想を、そして湊のささやかな期待を根底から覆す、驚くべき事実を告げた。

「主人は十年前に亡くなりました。アルツハイマー病でした」

部屋の空気が、シン、と静まり返った。

「病気が進むにつれて、主人は少しずつ記憶を失っていきました。私の名前を忘れ、自分のことも分からなくなって……。でも、不思議なことに、この画集だけは最後まで手放さなかった。そして、何も思い出せなくなったはずなのに、時々、この画集を眺めながら、穏やかに微笑むことがあったんです」

陽子は画集の最後のページを開いた。『陽子へ』と書かれた文字。

「これは、主人が最後に書いた文字です。そして、この絵が、彼が最後に描いた風景。私たちが初めて出会った、あの公園のベンチです」

湊は愕然とした。自分がこの画集から感じ取った記憶。それは、死の瞬間の記憶などではなかった。夫が、愛する妻との、かけがえのない日常の記憶を、病によって完全に失ってしまう、その直前の――最後の記憶だったのだ。彼が最後まで心に留めていたのは、特別な出来事ではない。ただ、妻と共に過ごした陽だまりの中の、温かく、穏やかな時間だった。湊が感じたあの深い安らぎと愛情は、消えゆく意識の中で、夫が必死に握りしめていた「日常」という宝物の、最後の輝きだったのだ。

「先日、家の整理をしていた娘が、間違えて古本と一緒に出してしまったようなんです。見つけてくださって、本当にありがとう」

陽子は深々と頭を下げた。湊は何も言えなかった。ただ、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを、どうすることもできなかった。

第四章 新しいスケッチブック

古書店に戻った湊は、カウンターに画集を置き、じっとそれを見つめていた。今まで呪いだと思っていた自分の能力が、初めて、誰かの人生の最も尊い瞬間に触れるための架け橋となった。失われるからこそ、記憶は美しい。消えゆくからこそ、日常の一瞬一瞬がかけがえのない輝きを放つ。湊は小野寺夫妻の物語を通じて、そのことを痛いほど感じていた。

数日後、結が店を訪ねてきた。彼女は少し気まずそうに、湊の前に小さな包みを差し出した。

「この間の、お礼。迷惑じゃなかったら……」

それは、新しいスケッチブックと、一本の鉛筆だった。

湊はしばらく黙ってそれを見つめていたが、やがて、意を決したように、ゆっくりと手袋を脱いだ。結が驚いて目を見開く。素肌が空気に触れるのは、何年ぶりだろうか。湊は震える指で、結が差し出したスケッチブックを受け取った。

――流れ込んでくる。結の記憶。図書館の静けさ。本のページをめくる指先の感触。窓から差し込む夕日。それは、彼女のありふれた、けれど穏やかで誠実な日常の断片だった。

不快感はなかった。むしろ、湊の心には、じんわりとした温かさが広がっていった。これが、人と触れ合うということなのか。誰かの日常の温もりを感じるということなのか。

「ありがとう」

湊は、心の底からそう言った。声は少し掠れていた。

「水島さん……?」

戸惑う結に向かって、湊は初めて穏やかに微笑んだ。

「もしよかったら、今度、僕に君を描かせてくれないかな」

その日から、湊の世界は変わった。彼はもう、手袋なしで本に触れることができるようになった。流れ込んでくる記憶は、相変わらず彼を少しだけ疲れさせる。しかし、彼はもうそれを呪いだとは思わなかった。一冊一冊の本に込められた、誰かの生きた時間の断片。それを感じ取れることは、この古書店で働く自分にとって、特別な意味を持つのかもしれない。

物語の終わり、湊は店のカウンターで、結からもらったスケッチブックを開いている。窓の外には、いつもと何も変わらない、ありふれた街の風景が広がっている。人々が歩き、車が通り過ぎ、鳩が舞う。しかし、湊の目には、そのすべてが愛おしい奇跡のように映っていた。彼は鉛筆を手に取り、真っ白なページに、目の前の「日常」という名の絶景を描き始めた。それは、彼自身の未来の記憶を、自らの手で紡ぎ始める、最初の第一歩だった。彼のパレットにはもう、他人の記憶の色だけでなく、自分自身が生きる日常の、鮮やかな色が加えられようとしていた。

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