第一章 星屑の匂い
水野咲の日常は、古紙と黴と、そして無数の「他人の記憶の匂い」で満たされていた。神保町の路地裏にひっそりと佇む古書店『栞堂』。そこで働く彼女には、ささやかな秘密があった。物や場所に残された、持ち主の強い感情を「匂い」として感じ取ってしまうのだ。喜びは甘い金木犀、深い悲しみは雨上がりの湿った土、そして怒りは鼻をつく錆びた鉄の匂い。その能力は、彼女から人並みの平穏を奪い、他人との間に見えない壁を築かせていた。だから咲は、感情の澱が沈殿した古書に囲まれ、生きている人間との関わりを最小限にして日々をやり過ごしていた。
その日も、咲はカウンターの奥で、値札の付け替え作業に没頭していた。カラン、とドアベルが鳴り、小柄な老婦人が入ってくる。上品なグレーのコートを着て、背筋をしゃんと伸ばした姿が印象的だった。彼女は店の中をゆっくりと見渡した後、ためらうようにカウンターへ近づき、小さな桐の箱をそっと置いた。
「これを、買い取っていただけますでしょうか」
掠れているが、凛とした声だった。咲は無言で頷き、箱を開ける。中には、ビロードの布に包まれた一本の万年筆が収まっていた。黒檀の軸に、銀細工が施されたクラシカルなデザイン。ペン先は少し摩耗しているが、大切に使われてきたことが一目で分かった。
咲が指先でそっと万年筆に触れた、その瞬間だった。
ふわり、と未知の香りが鼻腔をくすぐった。それは今まで嗅いだことのない、清らかで、どこか切ない香り。夜空に瞬く無数の星々をぎゅっと凝縮して、冷たい夜気と混ぜ合わせたような……そう、「星屑の匂い」としか表現できない香りだった。その匂いには、焦がれるような思慕と、果てしない未来への静かな希望が溶け合っているように感じられた。咲は思わず息を呑む。普段、彼女が感じる記憶の匂いは、もっと生々しく、心をかき乱すものばかりだったからだ。
「……とても、良い品ですね」
かろうじて声を絞り出すと、老婦人は寂しそうに目を伏せた。
「兄の、形見なんです。でも、私の手元にあるより、これを本当に必要としてくれる方の元へ行った方が、このペンも、兄も、喜ぶような気がして」
それ以上、老婦人は何も語らなかった。咲が提示した金額に静かに頷くと、深々と一礼して店を出ていった。後に残されたのは、桐の箱に収まった万年筆と、咲の心にまとわりつく甘く切ない星屑の匂いだけだった。その日から、咲の退屈な日常は、この名も知らぬ万年筆の持ち主が遺した謎の香りに、静かに侵食され始めた。
第二章 忘れられたインク
咲は、結局その万年筆を商品棚に並べることができなかった。閉店後、店の片隅で、彼女は何度も桐の箱を開けては、黒檀の軸をそっと撫でた。触れるたびに、あの星屑の匂いが立ち上り、脳裏に断片的な映像が明滅する。
――インクの匂いが満ちた書斎。窓の外には、墨を流したような夜空が広がっている。若い男性が、ランプの灯りの下で、その万年筆を手に一心に何かを書きつけている。彼の横顔は真剣そのものだ。時折、ペンを止め、窓の外の星々を愛おしそうに見上げる。彼の瞳には、まるで宇宙そのものが映っているかのようだった。
咲は、いつしかその見知らぬ青年に、不思議な親近感を抱くようになっていた。他人の感情に触れることをあれほど嫌っていた自分が、この青年の記憶だけは、もっと知りたいと渇望している。この万年筆に込められた想いは、一体誰に向けられたものなのだろう。あの老婦人は彼の妹だと言っていた。ならば、この手紙の相手は、彼の恋人だったのだろうか。
「星野航(ほしのわたる)」
万年筆のキャップリングに、ごく小さな文字で名前が彫られているのを見つけたのは、数日後のことだった。その名前を手がかりに、咲の静かな探求が始まった。普段は避けている常連客との会話も、この時ばかりは厭わなかった。店の奥に積まれた古い文芸誌や、天文学の専門誌を片っ端からめくっていく。
「星野航……ああ、いたねえ、そんな名前の投稿者が」
店の常連で、郷土史に詳しい大学教授が、古い文芸同人誌のページを指差した。そこには、星空をテーマにした瑞々しい掌編小説が掲載されていた。作者の名は、星野航。添えられた短いプロフィールには「星と物語を愛する、二十歳の学生」とだけ記されていた。
咲の心臓が高鳴る。教授の話によれば、星野航は才能を期待されながらも、病のために若くしてこの世を去ったのだという。彼の作品は、この同人誌に載った数編しか残されていないらしい。
咲は、航の書いた物語を貪るように読んだ。どの作品にも、夜空への深い愛情と、遠い未来への眼差しが感じられた。まるで、自分がもうすぐそこにはいなくなることを知っていて、言葉という星屑を必死に夜空へ散りばめているかのようだった。
星野航は、誰に想いを伝えたかったのか。病床で、恋人への最後の手紙を綴っていたのだろうか。だとしたら、なぜその手紙は渡されず、万年筆だけが妹の手に残されたのだろう。謎は深まるばかりだったが、咲の心は不思議と満たされていた。星屑の匂いに導かれ、他人の人生の物語を辿る行為は、彼女が閉ざしていた世界に、小さな窓を開けてくれた気がした。
第三章 時を超えた宛先
数週間の調査の末、咲はついに、あの老婦人――星野静子(ほしのしずこ)の連絡先を突き止めた。航が亡くなったのは、もう五十年前のことになる。咲は、航の想いを、彼の恋人だったであろう女性に伝えるべきだと考えた。もしかしたら、静子さんは恋人の連絡先を知っているかもしれない。もし存命なら、この万年筆に込められた航の最後の想いを届けることができる。それは、自分の能力が初めて人のために役立つ瞬間になるかもしれなかった。
咲は震える手で電話をかけ、事情を話して面会の約束を取り付けた。約束の日、彼女は桐の箱を大切に抱え、静子が暮らす海辺の小さな町を訪れた。
案内された居間の窓からは、穏やかな冬の海が見えた。静子はお茶を淹れながら、静かに咲の話に耳を傾けていた。咲は、万年筆から感じた星屑の匂いのこと、断片的に見えた航の記憶のこと、そして、彼が恋人に宛てて手紙を書いていたのではないかという自分の推測を、つたない言葉で語った。
すべてを話し終えた咲に、静子はふっと優しく微笑んだ。
「恋人、ですか。……いいえ、あの子に特定の恋人はいませんでしたよ」
「え……?」
咲は言葉を失った。では、あの焦がれるような思慕の香りは、一体誰に向けられたものだったのか。混乱する咲を前に、静子はゆっくりと語り始めた。
「兄は、自分の命が長くないことを知っていました。病室のベッドの上で、いつも星を見て、そして何かを書き続けていました。あの子が書いていたのは、誰か特定の人への手紙ではありませんでした」
静子は窓の外に視線を移す。その横顔は、遠い昔を懐かしんでいるようだった。
「兄は言っていました。『僕の体はもうすぐ星屑に還る。でも、僕が見た星の美しさ、僕が感じたこの世界の素晴らしさを、誰かに伝えたい。いつか、未来のどこかで、この万年筆を手に取ってくれる人がいるはずだ。その人が、僕の想いを読み解いてくれる。僕の見ていた星空を、一緒に見てくれる。僕の手紙の宛先は、まだ見ぬ、未来の誰かなんだ』と」
咲の全身を、雷に打たれたような衝撃が貫いた。
航が待ち続けていた相手。それは、過去の恋人ではなかった。彼が手紙を書いていた相手は、時を超えた未来にいる、見ず知らずの誰か。
この万年筆を手に取り、星屑の匂いを感じ取ることができる、誰か。
――それは、私のことだ。
気づいた瞬間、涙が頬を伝った。他人の感情は面倒な厄介事で、呪いのようなものだとさえ思っていた。しかし、今、この胸に流れ込んでくる航の想いは、温かく、そしてあまりにも優しかった。彼は、咲という存在を、五十年の時を超えて待ち続けてくれていたのだ。
「あなたのような方が現れるのを、ずっと待っていました。兄の想いを、受け取ってくださって、ありがとう」
静子は深く頭を下げた。咲は、ただ泣きながら、首を横に振ることしかできなかった。
第四章 私の物語が始まる
栞堂に戻った咲は、店のカウンターで、あの万年筆を握りしめていた。もう、他人の感情の匂いが流れ込んでくることに、以前のような嫌悪感はない。むしろ、航が遺してくれた星屑の香りが、彼女の心を優しく包み込んでいるようだった。
彼は、自分の生きた証を、未来へ託した。誰かに見つけてもらうことを信じて、孤独な夜にインクを走らせた。その行為は、咲にとって一つの啓示だった。感情は、内に閉じ込めて腐らせるものではない。誰かに伝えることで、時を超え、光になることもあるのだ。
咲は、机の引き出しから、真っ白な原稿用紙を取り出した。そして、星野航の万年筆のキャップを外す。買ってきたばかりの紺碧のインクを吸い上げると、ペン先から夜空の色が静かに滴った。
彼女は、書き始めた。
星屑の匂いがする万年筆と出会った、ある古書店の店員の話を。
若くして亡くなった天文学者が、未来の誰かに宛てて遺した、見えない手紙の話を。
そして、その手紙を受け取った女性が、どのように心を動かされ、世界の見え方が変わっていったのかを。
それは、航の物語であり、同時に、紛れもなく水野咲自身の物語だった。
窓の外は、いつの間にか夜になっていた。東京の空は明るすぎて、見える星は僅かだ。けれど、咲には分かった。この街の喧騒の中にも、数え切れないほどの人生の物語が、星のように瞬いている。喜び、悲しみ、怒り、後悔。様々な色と香りを放ちながら、誰かに見つけてもらうのを待っている。
咲はペンを置き、窓辺に立った。冷たいガラスに額を寄せ、夜空を見上げる。
もう、孤独ではない。
五十年の時を超えて届いた星屑のインクが、彼女の心を照らしている。
彼女の周りには、もう「面倒な匂い」だけではない、愛おしい人生の香りが満ちていた。咲は、その香りを胸いっぱいに吸い込み、静かに微笑んだ。これから始まる、自分の物語の香りと共に。