ガラクタに宿るエコー

ガラクタに宿るエコー

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第一章 色褪せた感情の欠片

相沢湊(あいざわ みなと)の一日は、他人が捨てた感情を拾うことから始まる。

夜明け前の静寂がまだ街を支配している時間。湊は古書店の店番という昼夜が逆転した生活の終わりに、近所の公園に立ち寄るのが常だった。目的は、ゴミ拾い。だが、それは世間一般で言うところのボランティア活動とは少し趣が異なる。彼にとってそれは、自らに課した儀式であり、呪いと向き合うための唯一の方法だった。

湊には、物に触れると、元の持ち主がそこに込めた強い感情の残滓――彼が「エコー」と呼ぶもの――を感じ取ってしまう、という奇妙な性質があった。新品の物からは何も感じない。だが、誰かの手に渡り、使われ、そして捨てられた物には、生々しい記憶の断片がこびりついているのだ。

今朝もそうだ。トングで拾い上げたひしゃげたアルミ缶。指先が触れた瞬間、脳内に閃光が走る。締め切りに追われるサラリーマンの、ギリギリと締め付けられるような焦燥感。胃のあたりがキリキリと痛み、缶コーヒーの甘ったるい後味までが舌の上に蘇る。彼は息を止め、それをゴミ袋に放り込んだ。次に拾ったのは、雨に濡れて文字が滲んだ手紙の切れ端。インクの染みからは、裏切られた恋人への、冷たく重い絶望が流れ込んでくる。湊は自分の胸が氷水で満たされたような錯覚に陥り、思わず顔をしかめた。

これが彼の日常だった。街は感情のゴミ捨て場だ。だから彼は、人混みを避け、他人の持ち物に極力触れず、古書の静謐な世界に逃げ込むようにして生きてきた。この早朝のゴミ拾いは、無差別に流れ込んでくるエコーの洪水に溺れないための、いわば予防接種のようなものだった。自ら能動的に感情のゴミに触れることで、どうにか精神の平衡を保っている。

しかし、その朝、湊は初めて「異常」に遭遇した。

それは、遊具の脇の植え込みに落ちていた、何の変哲もない、親指の爪ほどの大きさのプラスチック片だった。おそらく何かのおもちゃの部品だろう。いつものようにトングでつまみ上げ、指でそっと触れてみる。だが、何も起こらなかった。何の感情も、何の記憶も、何の温度さえも伝わってこない。それは、まるで真空だった。

湊の知る限り、人の手垢にまみれたガラクタが、これほどまでに「無」であることはありえなかった。新品の工業製品とも違う、意図的に何もかもが抜き取られたような、空虚な静けさ。それは、音のない部屋にいるよりも、はるかに不気味な沈黙だった。

湊は得体の知れないそれに魅入られたように、プラスチック片をポケットにしまい込んだ。彼の平坦な日常に、初めて意味不明なノイズが混じり込んだ瞬間だった。

第二章 無音の追跡

その日を境に、湊のゴミ拾いは目的を変えた。彼は、あの奇妙に「無」なガラクタを探し求めるようになったのだ。焦燥感も絶望も、怒りも喜びも、今はどうでもよかった。彼を惹きつけてやまないのは、あの完全なる「無」のエコーだけだった。

それは週に二、三度の頻度で、公園の決まったエリアで見つかった。割れた茶碗の欠片、ねじ曲がったフォーク、引きちぎられた本のページ。素材も形もバラバラだが、共通しているのは、それらがすべて人の強い情念が宿るであろう品々でありながら、完璧なまでに感情が消し去られていることだった。まるで誰かが、心の澱を綺麗に洗い流し、その抜け殻だけをそっと捨てているかのようだ。

一体誰が、何のために? 湊の心に、これまで抱いたことのない種類の好奇心が芽生え始めていた。それは、他人の感情の奔流にただ耐えるだけだった彼の人生において、初めて生まれた自発的な探求心だった。

ある雨上がりの朝、いつものように公園を訪れた湊は、先客がいることに気づいた。ベンチの近くで、小さなゴミ袋を手に、かがみ込んでいる小柄な老婆。上品なグレーのカーディガンを羽織り、その穏やかな佇まいは、早朝の公園の風景に溶け込んでいた。

湊が近づくと、老婆はちょうど、地面に落ちていたプラスチックの破片――湊が探していた「無」のガラクタ――を拾い上げるところだった。

「あら」

老婆は湊に気づき、柔和な笑みを浮かべた。千代、と彼女は名乗った。

「あなたも、朝のお掃除ですか? 奇遇ですわね」

その笑顔は春の日差しのように温かい。しかし、湊の感覚は、彼女の周りに漂う微かな違和感を捉えていた。それは、あのガラクタが放つ「無」の気配にどこか似ていた。まるで、彼女自身が巨大な消しゴムで、周囲の感情を薄めているかのような。

「ええ、まあ…日課みたいなものです」

湊は曖昧に答える。千代は手に持った破片を愛おしむように見つめ、それを自分のゴミ袋にそっと入れた。

「綺麗なものも、汚いものも、拾ってあげないと可哀想ですものね」

そう言って微笑む彼女の瞳の奥に、湊は一瞬、計り知れないほど深い静寂の色を見た。それは悲しみでも諦めでもない、もっと根源的な何か。

この人は、何かを知っている。湊は確信した。彼はただのゴミ拾いを装いながら、千代の行動を観察し始めた。彼女の穏やかな日常の裏に隠された、「無」の秘密を解き明かすために。無音の追跡が、静かに始まった。

第三章 零れ落ちた記憶

湊の追跡は、数日後に唐突な結末を迎えた。千代は公園でのゴミ拾いを終えると、いつも同じ方向へ、ゆっくりとした足取りで帰っていく。その背中を、湊は少し距離を置いて追いかけた。彼女が向かったのは、古くはあるが手入れの行き届いた、庭に季節の花が咲く一軒家だった。

湊が家の前で逡巡していると、中からガラスが割れるような甲高い音と、男の怒声が響いてきた。それは理路整然とした怒りではなく、獣の咆哮に近い、混乱と恐怖に満ちた叫び声だった。湊は思わず息を呑む。すると、玄関のドアが静かに開き、千代が割れた花瓶の破片をほうきとちりとりで集めているのが見えた。彼女の表情は、いつも公園で見せる穏やかな笑みのままだったが、その頬をひとすじの涙が伝っていた。

その涙を見た瞬間、湊は全てを理解するのを恐れながらも、門の中に足を踏み入れてしまった。

「あの…」

声をかけると、千代は驚いたように顔を上げた。しかし、湊の姿を認めると、諦めたように小さく息をついた。

「…見てしまいましたか」

彼女は湊を家の中に招き入れた。部屋の奥のベッドでは、白髪の老人が、何も分からぬ子供のような目で虚空を見つめていた。千代の夫、正雄だった。彼は重い認知症を患っており、時折、過去の辛い記憶――戦争の体験や、事業の失敗――の断片がフラッシュバックし、激しい混乱に陥るのだという。

「主人はね、とても優しい人だったんです。でも、病気が少しずつ、主人の中から心を奪っていく…」

千代は静かに語り始めた。そして、湊の心を根底から揺るがす事実を告げた。

「私にも、あなたと同じような力があるのですよ」

湊は言葉を失った。千代の能力は、湊とは似て非なるものだった。彼女は、物に込められた感情を感じ取るだけではない。触れることで、その感情を「吸い取り、消し去る」ことができたのだ。

夫が混乱の果てに壊した食器、破り捨てた古い写真、握りしめた家具のささくれ。それらには、夫の耐え難い苦痛や悲しみ、怒りのエコーが、澱のようにこびりついている。千代は、夫が触れたそれらのガラクタを一つ一つ拾い集め、自らの内にそのどす黒い感情を吸い上げていたのだ。夫の心を少しでも軽くするために。夫が過ごした空間から、苦しみの残響を消し去るために。

公園に捨てられていた「無」のガラクタは、彼女が吸い取りきった感情の抜け殻だった。彼女は、愛する人の苦しみを一身に受け止め、それを誰にも知られず、静かに捨てていたのだ。それは、果てしない愛と犠牲の儀式だった。

湊は愕然とした。彼はこれまで、自分の能力をただの呪いだと考え、流れ込んでくる他人の感情から身を守ることしか考えてこなかった。だが、目の前のこの小柄な女性は、同じような力を、愛する人を守るための盾として使っている。

自分が追い求めていた「無」の正体は、ミステリーでも異常現象でもなかった。それは、一人の人間が、もう一人の人間のために捧げた、途方もない愛の証だったのである。湊の世界観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。

第四章 エコーの行方

その日以来、湊の日常は静かに、しかし決定的に変化した。彼は千代に自分の能力を打ち明けた。千代は驚きながらも、彼の孤独を深く理解し、静かに頷いた。

「この力は、呪いにもなるし、贈り物にもなるのかもしれないわね」

彼女の言葉は、湊の心に深く染み渡った。

湊は、千代の家を訪れるようになった。正雄が荒れた後、部屋に散らかったガラクタを片付けるのを手伝うためだ。千代が吸い取りきれなかった、微かに残る苦痛のエコー。湊はそれを、今度は逃げるのではなく、自ら受け止めにいった。トング越しではなく、素手で、その欠片に触れる。

正雄の深い悲しみが、津波のように湊の心を打つ。息が詰まり、胸が張り裂けそうになる。だが、それはもう、かつて感じていた不快なノイズではなかった。隣で「ありがとう」と囁く千代の存在が、痛みを温かいものに変えていく。彼は初めて、この忌まわしい力が、誰かの役に立つことを知った。他人の感情を受け止めることで、自分の心の中に、これまで感じたことのない穏やかな感情――誰かと繋がっているという、確かな喜び――が生まれることを発見したのだ。

彼は、自分の能力を呪いではなく、一つの個性として受け入れ始めた。世界は相変わらず感情のガラクタで溢れているが、彼はもうそれに溺れることはなかった。一つ一つのエコーに、持ち主の人生の物語があることを知ったからだ。

ある日の夕暮れ。いつものように公園を歩いていた湊は、ベンチの下に落ちている小さな赤いリボンを見つけた。拾い上げて、そっと指で触れる。

流れ込んできたのは、風船を手に入れて、空に駆け上がりたいほど嬉しい、幼い少女の弾むような「喜び」のエコーだった。純粋で、一点の曇りもない、キラキラとした感情。

湊は、その温かいエコーに、思わず顔を綻ばせた。彼はそのリボンを、落とし主が見つけやすいように、そばの木の低い枝に優しく結びつけた。

夕日が、公園の木々を黄金色に染めている。湊は、自分の周りに満ちる無数の感情のエコーを、まるで美しい音楽のように感じていた。悲しみも、喜びも、怒りも、すべてが誰かが懸命に生きた証の響きだった。

彼の日常は、何も変わらない。これからも、ガラクタに宿るエコーを拾い集めながら生きていくだろう。だが、彼の世界はもう孤独ではなかった。捨てられた心の欠片たちと共に、彼は静かに、確かに、この世界と繋がっていた。

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