空に届かなかった約束

空に届かなかった約束

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第一章 傾いた日常

水野蓮の日常は、整然とした書架の列のように、完璧な秩序で成り立っていた。市立図書館の司書として働く彼の世界は、紙の匂いと古書のインクが放つ微かな甘さ、そして利用者の立てる控えめな物音で満たされている。彼は変化を好まない。毎朝同じ時間に起き、同じ道を歩いて職場へ向かい、同じ席で昼食をとる。その繰り返しこそが、彼にとっての平穏だった。

週に一度、彼の日常にわずかな染みが広がる瞬間があった。「浮遊時」と呼ばれるその現象は、この街だけの特異な一時間だった。予告のアラームが街中に響き渡ると、重力が一時的に二割ほど減衰するのだ。人々はそれに慣れきっていた。子供たちは公園でいつもより高く跳びはねて歓声を上げ、大人たちは配達の荷物が軽くなるのを喜んだり、あるいは蓮のように、静かにその時間が過ぎるのを待ったりした。

その日も、午後三時を告げるチャイムと共に、浮遊時の到来を知らせる穏やかなメロディが館内に流れた。

「さて、と」

蓮は立ち上がり、いつもの手順で書架に固定用のバーを取り付け始めた。本がひとりでに滑り落ちるのを防ぐためだ。同僚の田中さんも、手慣れた様子でカウンターの上の書類を文鎮で押さえている。いつも通りの、予測可能な風景。

だが、違った。

重力がふっと軽くなる、あの独特の感覚が訪れた瞬間、蓮の身体は予期せぬ浮力を得た。いつもなら、ただジャンプが高くなる程度。それが、まるで水中で浮き上がるように、彼の足がゆっくりと床を離れたのだ。

「え…?」

声にならない声が漏れた。彼の革靴の底が、床のワックスがけされたリノリウムから10センチ、20センチと離れていく。周囲の空気が粘性を帯びたように感じられた。

「み、水野さん!?」

田中さんの悲鳴に近い声が、静寂を破った。利用者の数人が、何事かとこちらを見ている。蓮は手足をばたつかせたが、無重力空間に放り出された宇宙飛行士のように、その動きは空を切るばかりだった。身体は意思に反して上昇を続け、ついに彼の背中は、図書館の高い天井にこつんと軽い音を立ててぶつかった。

逆さまになった視界に、驚愕に見開かれた人々の目と、整然と並んでいたはずの彼の日常が、ぐにゃりと歪んで映っていた。なぜだ。なぜ、僕だけが? 天井に張り付いたまま、蓮はただ茫然とするしかなかった。この一時間、彼の日常は、その重さを完全に失ってしまった。

第二章 失われた重りの記憶

浮遊時が終わると、蓮の身体は重力を取り戻し、受け身も取れずに床に落下した。幸い低い位置で天井に張り付いていたため大事には至らなかったが、彼の心はひどく混乱していた。医者に行っても結果は「異常なし」。ストレスによる一時的な平衡感覚の障害だろうと、曖昧な診断を下されただけだった。

次の浮遊時が来るのが、蓮は何よりも怖かった。平穏だったはずの日常に、時限爆弾が仕掛けられたような気分だった。彼は理由を求めて、自分の過去を遡ることにした。押入れの奥から、埃をかぶった段ボール箱を引っ張り出す。中には古いアルバムが何冊も眠っていた。

ページをめくる指が、ある一枚の写真の上で止まった。それは、彼が五歳くらいの頃の写真だった。満面の笑みで、しかし彼の身体は地面から1メートルほど浮き上がっている。その小さな両足を、今は亡き両親が必死の形相で掴んでいた。背景は、見慣れた近所の公園。蓮には、その記憶が全くなかった。まるで、自分ではない誰かの記録を見ているかのような、奇妙な感覚。この頃から、自分は「特別」だったというのか。

途方に暮れた蓮は、幼馴染であり、大学で物理学を研究している沙耶に連絡を取った。彼女は電話口で蓮の話を聞くと、驚くほどの速さで彼の家までやってきた。

「面白いじゃない! あなたのその特異体質、物理法則への挑戦よ!」

沙耶は恐怖に顔をこわばらせる蓮とは対照的に、研究者の目で爛々と輝いていた。彼女は蓮の部屋を見回し、本棚の隅に置かれた小さな骨壺に目を留めた。

「…ソラ、死んじゃったんだ」

ソラは、蓮が十数年連れ添った愛猫だった。一月前、老衰で静かに息を引き取った。蓮の世界から、また一つ、大切な重りが失われた瞬間だった。

「うん…」

蓮が頷くと、沙耶は何かに気づいたようにハッとした顔をした。

「蓮、最近、何か大きな喪失感を抱えるような出来事はあった? ソラのこと以外にも」

「いや、特に…」

しかし、沙耶の言葉は蓮の心に小さな波紋を広げた。喪失感。確かに、ソラがいなくなってからの日々は、部屋の空気が希薄になったように感じていた。彼の平穏な日常を構成していた、確かな重みの一つが消えてしまったのだ。

沙耶の仮説は大胆だった。「あなたの感情が、物理的な浮力に変換されているのかもしれない」。あまりに非科学的で、蓮は一笑に付したかった。だが、天井に張り付いたあの時の感覚と、胸にぽっかりと空いた穴が、その突飛な仮説を否定させなかった。二人は、次の浮遊時に向けて、蓮の身体に何が起きるのかを観測する準備を始めた。蓮は、自分の内側にある見えない何かと、向き合わざるを得なくなっていた。

第三章 世界の中心で失くした君

実験の日は、曇り空だった。沙耶は大学の研究室に蓮を呼び、彼の身体にいくつものセンサーを取り付けた。心拍数、脳波、皮膚電気反応。あらゆるデータが、壁一面のモニターに映し出される。

「怖がらなくていい。ただ、いつも通りにしてて」

沙耶の言葉は、しかし蓮の鼓動を鎮めてはくれなかった。午後三時。浮遊時のアラームが、研究室のスピーカーから静かに流れ出す。

蓮は固く目を閉じた。そして、訪れた。身体から重さが抜けていく感覚。前回よりも強い浮力が、彼を椅子から引き剥がそうとする。

「来た…!」

沙耶が叫ぶ。蓮の身体はゆっくりと宙に舞い、センサーのケーブルが伸びきる限界まで上昇して停止した。モニター上の数値が、異常なパターンを描いている。

「すごい…感情の起伏と浮力が、完全にリンクしてる…」

沙耶が興奮した声でデータを読み上げていた、その時だった。

研究室の窓の外の景色が、にわかに騒がしくなった。最初は気のせいかと思った。だが、違う。向かいのビルの屋上にある給水タンクが、ぎしりと音を立ててわずかに浮き上がったのだ。街路樹が根を軋ませ、駐車されていた車がタイヤを数センチ地面から離す。遠くから、人々の悲鳴が聞こえ始めた。

「な、何…?」

蓮が呆然と呟く。窓の外では、この街にある全てのものが、まるで神の見えざる手によって持ち上げられるかのように、ゆっくりと、しかし確実に空へと浮かび上がっていた。街全体が、蓮と同じ状態に陥っていたのだ。

パニックが蓮を襲う。これは自分のせいなのか? 僕が、この街を壊しているのか?

「違う…! 落ち着いて、蓮!」

沙耶はモニターを食い入るように見つめ、指先で猛烈な速さでキーボードを叩いていた。やがて、彼女は愕然とした顔で蓮を振り返った。その瞳は、畏怖と、そして信じられないものを見る色をしていた。

「嘘…こんなことって…」

「何が起きてるんだ、沙耶!」

「浮遊時は…自然現象じゃなかったのよ」

沙耶の声は震えていた。

「この街の重力異常は、ずっと昔から、たった一つの発生源から干渉を受けていた。まるで強力な磁場みたいに。そして、その中心座標は…」

彼女は震える指で、宙に浮いたままの蓮を指さした。

「ここよ。あなたなのよ、蓮。あなたが、この街の『浮遊時』を、ずっと生み出してきたの」

蓮の思考は停止した。週に一度の、当たり前の日常。それは、自然の気まぐれなどではなかった。自分の、それも無意識下の感情が、この街全体の物理法則を歪めて作り出した、人工的な奇跡だったというのか。最近の愛猫の死による喪失感が、その繊細なバランスを崩し、世界を壊すほどの力として暴走を始めたのだ。彼のささやかな日常は、彼自身が作り出した巨大な虚構の上に成り立っていた。その事実が、彼の足元から、いや、彼の存在そのものから、全ての重りを奪い去っていった。

第四章 さよなら、浮遊時

世界が軋みを上げていた。蓮の混乱と恐怖に呼応するように、街の浮力は増していく。このままでは、全てが空の彼方へ消えてしまう。

「思い出して、蓮! 何か、あなたの核になる記憶があるはず! 全てが始まった、最初の喪失が!」

沙耶の必死の叫びが、蓮の意識を過去の深淵へと引きずり込んだ。

断片的なイメージが、脳裏を駆け巡る。色褪せた公園。砂場の匂い。そして、自分より少し背の低い、色素の薄い髪をした少年の笑顔。

――海斗(かいと)。

その名前を思い出した瞬間、鍵を失くした扉が開くように、封印されていた記憶が溢れ出した。病弱で、いつも窓の外を眺めていた幼馴染。彼と交わした、たわいない約束。

『元気になったらさ、鳥みたいに、一緒に空を飛ぼうな、蓮』

しかし、海斗が元気になることはなかった。小さな亡骸を前に、幼い蓮は泣くこともできず、ただ一つの強い願いを抱いた。「海斗の魂が、少しでも軽くなりますように。重たい地面から解放されて、自由に空へ昇っていけますように」。

それだったのだ。

彼の祈りが、願いが、純粋すぎる想いが、この街の法則を書き換えた。週に一度、一時間だけ、世界を少しだけ軽くすることで、彼は無意識のうちに、親友の魂を空へと弔い続けていたのだ。それは、彼だけの、誰にも知られることのない追悼の儀式だった。

愛猫ソラの死は、その古い傷口を再び開いた。喪失感が共鳴し、制御不能な力となって暴走した。

「…ごめん、海斗」

蓮の頬を、涙が伝った。宙に浮いたままの身体からこぼれ落ちた雫は、球体となってきらきらと光りながら、ゆっくりと床へと落ちていく。

「もう、大丈夫だよ。君のことも、ソラのことも、僕が憶えているから。僕が、この大地で、君たちの分まで生きていくから」

それは、喪失の受容だった。消し去るのではなく、悲しみを自分の一部として抱きしめ、前に進むという決意。

「だから、もう、眠っていいよ」

彼がそう呟いた瞬間、身体を包んでいた不思議な浮力が、すっと消え失せた。蓮の身体は静かに床に着地する。窓の外で、ゆっくりと浮き上がっていた街が、まるで時間の巻き戻しのように、元の場所へと収まっていくのが見えた。全てが、本来あるべき重さを取り戻していく。

轟音も衝撃もなかった。ただ、静かに。

街から、週に一度の不思議な時間は、永遠に消え去った。

数週間後、図書館はいつも通りの静けさを取り戻していた。人々は「観測史上稀に見る大規模な重力異常現象の終息」というニュースをすぐに忘れ、浮遊時のない日常に順応していた。

蓮は、窓から公園を眺めていた。子供たちが、以前のように高くは跳べない地面を、それでも楽しそうに駆け回っている。寂しさが全くないわけではなかった。だが、彼の心は、かつてないほど穏やかだった。

彼は書架の間を歩き、一冊の古い画集を手に取った。ずしりとした、心地よい重み。自分の足が確かに大地を踏みしめている感覚。当たり前だったはずの日常の重さが、今は何よりも愛おしかった。

彼は空を見上げた。どこまでも青い、何の変哲もない空。だが、その青の向こうに、蓮は確かに見ていた。一緒に空を飛びたいと願った、親友の屈託のない笑顔を。

もう空を浮遊することはないだろう。けれど、彼の心は、どんな重力にも縛られず、どこまでも軽やかに飛んでいける気がした。

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